あの夏、神様に選ばれた君へ

 体を揺さぶられる感覚に大輝の意識はゆっくりと浮上する。ズキズキと痛む頭を抱えながら、目を開けると宗一郎が大輝の方を見ていた。顔に深く刻まれた皺に、疲れたように虚ろな瞳。この短時間で一気に老けたようにも見えたが、本来の宗一郎の姿はこちらなのかもしれないと大輝はぼんやりと思った。
「起きたか。体は起こせるか?」
「……は、い」
 宗一郎の手を借りながら大輝は体を起こす。意識の奥の方で八ツ森様の声が大輝を招くように囁いているが、大輝は頭を軽く振ってその声から意識を外す。
「朔は……朔はどこですか」
 先ほどまで一緒にいたはずの朔がそばにいないことに気がついた大輝はサッと血の気が引いた。嫌な予感は宗一郎の今にも泣き出しそうな表情を見て確信へと変わる。
「早く、追いかけないと……!」
「ダメだ。お前はもうこの集落から出ていくんだ」
「なんで! 朔がまだここに残ってる!」
 いますぐにでも追いかけようとした大輝の体を宗一郎が掴んで止めた。大輝は理解できないという表情で宗一郎を睨むと、宗一郎も同じように強く睨み返してくる。宗一郎も朔を守りたかったはずなのに、どうしてこんなに簡単にも諦めることができるのか。
「あの子はもう、八ツ森様のところへ向かった。今から追いかけてもきっと、もう遅い」
 ならば、せめて大輝だけでも――そんな言葉が聞こえてくるようだった。
 大輝はカッとなって宗一郎の腕を掴みかえす。そして、その胸に向かって拳を振り下ろした。
「可能性がほんの少しでもあるのなら! 諦めずに行動しろよ! あんたはずっと朔を守りたかったんだろ! ずっと、ずっと、朔に普通の生活を送って欲しかったんだろ! だからあんたは、朔を遠ざけたし、傷つけもした。そこまでしたなら、最後まであいつのことを守り通せよ!」
「……っ!」
「あんたは、朔の父親だろ……。それだけで、あんたが諦めない理由には十分だろ……!」
 最後にもう一度力強く宗一郎の胸を叩く。宗一郎は短く息を吸い、覚悟を決めたように深く吐き出した。そして、大輝の手を優しく握る。
「あの子の手も、こんなに小さいのだろうか」
 宗一郎の手の中で自分の手をくまなく触られる。大輝は光を取り戻した宗一郎の瞳を見てから、「今からでも確かめに行けばいいだろ」と口を尖らせながら呟いた。宗一郎は大輝の返答に柔らかい笑みを浮かべながら「そうだな。そうするとしよう」と返した。
「あんたなら朔がどこに行ったのか知ってるの……ですか」
「普通の喋り方で問題ない。幼い頃の君のままなら、敬語を使うのは苦手だろう」
 的確な指摘に大輝は言葉を詰まらせるが、すぐに小さく咳払いして誤魔化した。子供らしい一面に宗一郎は少しだけ胸が苦しくなる。子供達から目を逸らしていただけで、朔も本当はいろんな表情を持っていたのかもしれない。そう考えたら、自分の罪の重さに足を折ってしまいそうだった。
 宗一郎は首を軽く振って関係ないことを考えることをやめる。今の宗一郎がやるべきことは過去への懺悔ではないからだ。
「朔は八千代様と一緒に森の奥に向かったはずだ。そこには八ツ森様を崇め奉るための祭壇がある。これまでの子供達もその場所で八ツ森様に捧げられた」
「八千代…………? あの薄気味悪いお婆さん?」
「外から来た君には八千代様は薄気味悪く見えるんだな」
 含みのある言い方に大輝は首を傾ける。宗一郎は遠くの方を見ながら常にそばに仕えていた八千代のことを思い出した。
 宗一郎からすれば、八千代の異常なまでの八ツ森様への執着は自分自身が朔へと抱えていた複雑な感情と何ら変わりはなかった。八千代もまた、守りたいものがあったのだ。
「八千代様の考えがわかるわけではない。だけど、方法も表現の仕方も違ったが、私も八千代様も子を守りたいという気持ちは一緒だ」
「子を…………つまり、八ツ森様を守りたい……?」
「おそらく、だがな」
 大輝と宗一郎は話をしながら動き始めた。秘密の部屋から蔵へと戻る道を進んでいく。通路を照らす薄暗い灯りがゆらゆらと揺れているようだった。
「私は犠牲になった子を忘れないことで。八千代様はこの因習を続けることで、生贄に捧げられた幼い子供たちの気持ちを守りたかった」
「なんで、このクソみたいな儀式を続けることが、生贄の子供たちの気持ちを守ることになるんだ。これが良くないものだったってわかった時点で、やめればよかっただろ」
「君の言うことはもっともだ。だが、生贄を捧げることをやめたとしても、八ツ森様は消えない。多くの子供の恐怖と怨念を抱えた八ツ森様は、どこへも行けずこの森を彷徨い続けるだろう。八千代様はそのことを危惧していたのではないか」
「あのお婆さんがそんなことを考えているとは思えないけど……」
 森の中で出会った時から今に至るまで、あの気味の悪い老婆を思い出して大輝は顔を歪める。八ツ森様に生贄を捧げることで集落の安寧が守られている、と信じていた八千代が、本当に子供たちの気持ちを守ろうと思っていたのだろうか。大輝にはそれは少し違うような気がした。八千代が守ろうとしているのは、もっと他の何かのような――。
 これまでのことを思い返しながら歩いているといつの間にか蔵の中へと戻っていた。薄暗い蔵から外へ出ると、随分と時間が経っていたのか日は傾きかけていた。
「祭壇へは裏門からいくことができる。最後に確認だが、本当に行くのだな?」
「ここまで来て逃げるわけない。俺は朔と一緒にここから出るんだから」
 決意を改めて口にすると気が引き締まるような感覚を覚える。大輝は繰り返し「朔と一緒に」と小さく呟くと、隣に立った宗一郎が応えるように首を振った。二人は静かに顔を見合わせると朔を助けるために動き始める。
 裏門のところに着くと、確かに誰かが通ったのか門がわずかに開いていた。門の向こう側は鬱蒼と生い茂る木々に光が遮られているのか、随分と暗く見えた。隙間から流れ込んでくる空気もどこか冷たく、大輝は思わず身震いする。
 それでも立ち止まる訳にはいかないと足を踏み出せば、宗一郎が大輝の肩を掴んだ。
「私が先に行こう。この先、何かあれば君は私を置いて進みなさい」
「でも、それじゃあ、あんたが……」
「構わない。朔の父親として、この因習を断ち切れなかった一人の大人として、責任を取らせてほしい」
 宗一郎の覚悟に大輝は迷いながらも小さく頷いた。すると宗一郎は安堵したように目を細め、宣言通り大輝の前に立って歩き始める。慎重に、危険がないかを確認してから宗一郎は大輝を森の中へと誘った。
 森の中は外から見たよりもずっと暗く、薄気味悪かった。風は吹いていないのに木の葉が擦れる音がうるさく聞こえ、森に嘲笑われていた。その一方で、この森には生物はいないのか、生き物の気配は一切感じられなかった。だからなのか、余計にこの奥にいる八ツ森様の気配を強く感じた。
 無音の向こうからくすくすと笑う声が聞こえる。早くこっちに来て、と小さな子供が大人の手を引こうとするような。そんな引き寄せられる何かを大輝はhだで感じていた。この感情はおそらく大輝が八ツ森様と約束をしているからこそ、感じ取れるものなのだろう。チラッと目の前を歩く宗一郎を盗み見ても、彼は何も感じていないようでいつもの険しい表情でどんどんと先へと進んでいく。
 大人だから何も感じないのか。それとも、宗一郎もかつては八ツ森様へ何かしらの感情を抱いていたのだろうか。
 そんなことを頭で考えながら歩いていると、不意に宗一郎が足を止めた。不思議に思って大輝が顔をあげると、宗一郎は苦悶様の表情を浮かべ、額に油汗を滲ませていた。突然のことに大輝は心配の声をかけるよりも先に宗一郎のそばへと駆け寄った。大輝が宗一郎の体を支えた瞬間、彼は足から崩れ落ちた。
「あぁ…………あぁ、すまない」
 小さな声で苦しそうに戯言を紡ぎ始めた宗一郎の目には大輝には見えない何かが写っている。宗一郎は頭を抱え、ゆっくりと何度も首を横に振る。やがて耐えきれなくなったのか、喘ぐように嗚咽を漏らしながら、ボロボロと涙を流し始める。
「すまない、私だ。私のせいなんだ。頼む、その子を……連れて行かないで」
 何が起きているのか分かっていない大輝の目の前で宗一郎は宙に向かって手を伸ばした。見えないそこに、誰かが何かを差し出しているかのように。
 大輝は一瞬悩んだ後、このままではいけないと思い直し、宗一郎の肩を揺さぶった。
「ちゃんとしろよ! 朔を助けにいくんだろ! この因習を断ち切りにいくんだろ! こんなところでおかしくなっている場合かよ!」
 虚ろな瞳でぶつぶつと何かを呟き続ける宗一郎の声に混ざって、何かが地面を這いずり回る音が聞こえた。その音に大輝は聞き覚えがあった――八ツ森様が近くにいる証拠だった。
 近くにあいつがいるかもしれないという恐怖から、頭の中が真っ白になりそうだった。だが、自分まで恐怖に飲まれる訳にはいかないと震える唇を強く噛み締め、痛みで正気を保とうとする。
「あー、もう! あんた、大人なんだからしっかりしろよ、なっ!」
 いつまで経っても正気に戻らない宗一郎の頬を両手で力強く挟んだ。バチんと乾いた音があたりに響き渡る。その瞬間、宗一郎は意識を取り戻したのか、目に光が宿っていった。それを確認した大輝は安堵から深いため息を吐き出す。
「一体どうしたんだよ。急におかしくなって……何が見えたんだよ」
「…………妻が……八ツ森様が、朔を連れていって、それで私は……」
「縁起でもないこと言うなよ。朔の母さんのことは知らないけど、あんたがおかしくなっちゃったら朔を助けるどころの話じゃなくなるだろ」
「……あぁ、すまない。だが……いや、なんでもない」
 憔悴しきった様子の宗一郎を無理に立たせて先を急がせるのは心が痛んだが、今ここで進まなければ宗一郎はこの集落の呪いから抜け出すことはできないだろう。それに、宗一郎が朔を諦めないと決心してくれたのだから、その背中を支えてあげたいとも思った。
「ほら、はやく行こう。手遅れになる前に、朔のところへ」
 大輝が手を差し伸べると宗一郎は一瞬森の奥に目を向けた後、力強くその手を握り返した。
 再び二人は森の中を進んでいく。気味の悪さは変わらず、むしろどんどんと嫌な気配が強くなっていく。同時に、この集落に来てから何度も感じた高揚感すら湧き上がってくる様だった。
 やっと一つになれる。
 やっと還ることができる。
 みんなと一緒に。
 みんなと同じところに。
 一瞬でも気を抜けば歓喜にも似た感情の渦に大輝は巻き込まれそうだった。一方で宗一郎はよほど先ほどの出来事が堪えたのか、大した距離も移動していないのに浅い息を繰り返していた。眉間に深い皺を寄せ、唇を噛み締めている様子は、必死に恐怖から逃げまいとする幼い子供の様だった。
 お互いに言葉を掛け合う余裕もなく、二人は無言のまま先を急ぐ。
 どれほど歩いたかわからなくなった頃、宗一郎がふと足を止めた。大輝はハッとして正面に顔を向けると、微かに体を震わせて立すくむ宗一郎が目に入った。そして、宗一郎の向こう側には大きな空間があり、中心には大きな舞台があった。
「ここが……?」
 宗一郎の横を抜けてその空間の中に入ろうとした時、宗一郎がその場に崩れ落ちた。両手で顔を覆い、体を大きく振るわせている。大輝はまた幻覚が見えたのか、と一瞬考えたがすぐにそうではないことがわかった。なぜなら、大輝の胸の内にかつてないほどの喜びの感情が溢れかえったからだ。
 大輝はもう一度舞台の方へと視線を戻すと、その中心には深々と頭を下げる八千代がいた。八千代は大輝たちの存在に気がついていないのか、必死に頭を床に擦り付けながら、そのさらに奥にいる存在に祈りを捧げている。その存在――今にも朔を飲み込んでしまいそうな八ツ森様へと。
「――朔!」
 胸の内に広がる八ツ森様の喜びも、朔を失うかもしれない恐怖も、全てかなぐり捨てて大輝は走り出す。八ツ森様に朔は、俺たちの未来を奪わせて貯まるものか、と強く願いながら。
 朔も大輝の声に気がついたのかゆっくりと振り返った。朔は一瞬目を見開いたが、すぐに満面の笑みを浮かべる。そして一粒の涙を流すとまるで最後の別れのように大輝に向かって手を振った。
「バイバイ、大輝。大好きだったよ」