あの夏、神様に選ばれた君へ

 八千代は衝撃を受けたようによろめくと、目尻を下げながら首を振った。
「自身のなすべきことも忘れ、そのようなことをのたまうとは……。宗一郎様、八ツ森様は大層悲しんでおられますよ」
 何を言っても聞く耳を持たない彼女達。それこそが、この集落の因果であり、呪いでもあった。
 臭いものには蓋をするように、都合の悪いことには目も向けない。その結果が、朔たちを取り押さえる大人達で、目の前で薄気味悪く笑う八千代だった。
 そして、それは目を逸らし続けた宗一郎の罪でもあった。
 宗一郎は奥歯を噛み締めると、これまでの自身の行いに対して強い感情を覚える。ずっとこの集落に伝わるおかしな伝統を知りながらも、結局最後まで何もしてこなかった自分を。自分の息子が必死に抗おうとしている姿を見て、宗一郎は心の底から湧き上がる感情をコントロールできなくなる。
「この子達は八ツ森様の生贄にはさせない……! させてはならない!」
「それで、どうなさるおつもりですか。捕えられた状況で、今更宗一郎様に何ができると言うのですか」
 目を細めながら笑みを浮かべる八千代に、宗一郎は言葉を詰まらせる。今の宗一郎に子供達を救う方法はなかった。だが、その横で朔は静かに口を開く。
「僕を、連れて行ってください。八ツ森様のところへ、僕を」
 朔の言葉に宗一郎が大きく目を見開く。朔の言葉の意図がわからず宗一郎は狼狽えたように視線を彷徨わせた。当主としてではない、父としての宗一郎の様子に朔は優しく微笑んだ。その心の奥底で、父への感謝の気持ちを伝えながら。
「僕が、八ツ森様の贄となります。だから、大輝とお父さんを解放してください、お願いします」
「八ツ森様への生贄はあの日から須藤様と決まっていますよ。あなたでは……」
「僕は、八ツ森様と約束をしています」
 誰も知らない、朔と八ツ森様だけの秘密。その事実に今度は八千代が言葉を失う番だった。
「八ツ森様の約束は絶対、でしょう?」
 片方の口角を少しだけ持ち上げると、挑発的な視線を八千代へと送る。八千代はここに来て初めて笑顔の仮面を外した。醜く歪められた顔の下には、余計なことをした朔への憎悪で溢れていた。だが、それも一瞬のことで、八千代はすぐに笑顔の仮面を貼り付ける。
「何をするつもりだ……。朔、約束とは一体……?」
 状況を飲み込めていないのか、隣から狼狽した声が聞こえてくる。珍しい父の様子に朔は小さく笑う。大きくて、偉大で、畏怖の対象だった宗一郎が、ただの父親だったとわかって朔の胸の内には不思議と安心感があった。強いて言うのなら、あのまま非道な父のままでいてくれたなら、宗一郎に無駄な傷を負わせなくても済んだのかもしれない。
「……僕は、大輝がこの集落を出て行った後、八ツ森様と約束をした」
 約束を破った大輝の埋め合わせをするように。二人の命を喰ってもなお、深い悲しみを負った八ツ森様に、朔は手を差し伸べた。万が一、大輝がここへと戻ってきてしまった時のため。
 大輝のような八ツ森様の印は、首元にはない。だけど、朔の魂にはしっかりとかの神様の印が付いている。どこへ逃げようとも八ツ森様に見つかる、呪いが朔の身には刻まれている。
「八ツ森様を救えるなら、僕もここから逃げられると思ったんだけどなぁ」
 小さく呟かれた声は、静かな空間に落ちて消えていく。全てを諦めたような口ぶりだった。
 何度も大輝が一緒に逃げようと手を差し伸べてくれた。彼が朔のことを覚えていなくても、それだけで心が救われるようだった。
 一緒に八ツ森様の呪いを解こうと動いている時は、自分にも未来が見えるようで嬉しかった。
「ここでお別れ。……お父さん、大輝をよろしくお願いします」
 翳りがありながらも晴れやかに笑う朔に宗一郎が問い詰めようとする。だが、それよりも先に八千代が二人に間に入ってくる。
 朔は固まっている宗一郎の方を見ると、そのそばで横になっている大輝を見つめる。
 大輝と最後にもう一度だけ話がしたかったが、今の状況がそれを許さなかった。
 静かに目を閉じて、ここに至るまでのことを思い出す。いつだって大輝は朔にとって道を照らしてくれる、かけがえのない存在だった。そんな大輝のことを守れるのなら、自分の命など軽いものだと決意を固める。
 大輝への想いを断ち切るように朔はゆっくりと立ち上がると、八千代達のことを睨むように見つめた。
 八千代はにんまりと顔を歪めると、朔に道を譲るように体を横に退ける。朔は後ろから男の人に捕まえられたまま、重々しい足取りで部屋を後にした。
 後ろで、「朔!」と叫ぶ宗一郎の声に振り返ることはしない。
 朔は自分の運命を受け入れていた。
 今度こそ、自分が大輝を助ける番だと信じて。