あの夏、神様に選ばれた君へ

 金属音がぶつかる音がしたかと思うと、窓はうんともすんとも言わなくなる。既視感のある光景に大輝は狂ったように窓を力尽くで開けようとした。


 だが、窓は開かなかった。


「……っなんでだよ!」


 音が出るのも構わず、大輝は何度も何度も窓を引く。


 ガチャガチャ。ガチャガチャ。

 ギギギ。ギギギ。


 不愉快な音がまるでお祭りのように鳴り響く。焦りと恐怖で前後がわからなくなっていくのを、大輝は意識の向こうで感じていたが自分では止めることができなかった。


「――あけロ」


 低く、女性の声が聞こえてくる。お祭り騒ぎに人の声まで合わさっていく。その度に、早くここから出なければという気持ちが溢れかえった。ふと視界の端で、部屋の扉がガタガタ揺れるのを見つけた。その瞬間、ギギギという音は、紙を裂く音へと変わる。

「あケロ。あけロ。アけロ」

 女性の声は少しずつ高くなり、子供の声が混じり始める。あらゆる方向から、とめどなく声と音が溢れた。大輝は半狂乱になりながら、もう一度窓を開けようと手を伸ばした。

 その時、ふっと音が消えた。遅れて人の温もりが耳の辺りから伝わってくる。

 突然のことに大輝は大きく目を見開くと、視線をゆっくりと下げた。そこには心配そうに大輝を見ている朔と幸代が立っていた。

 何が起きたのかわからず、呆然と立ち尽くしていると朔が耳元から手を離して大輝の手を握る。安心させるように、落ち着かせるように何度も手を撫でた。


「……な、にが?」

「大輝が何を見たのかは僕らもわからない。ただ、突然大輝が錯乱したように窓を触り始めたんだ」


 ぎゅっと握られた手から伝わる温もりが焦っていた気持ちを溶かしていく。そうすることで、大輝は少しずつ自分を取り戻すような感覚を覚えた。まるで、さっきまでの自分は何かに意識を乗っ取られていたかのようだった。

 部屋の外から聞こえる何かを引っ掻くような音は依然続いていたが、女性のような子供の声はどこにも聞こえない。

 そのことに気がついて、ようやく大輝は先ほどまで自分が別の何かを見聞きしていたことを知った。


「ごめん。なんでこんなことしたのか……何を見ていたのか、俺にもわからない」
「きっと大輝は八ツ森様と深いところで繋がっているんだと思う。八ツ森様の生贄として、八ツ森様が呼んでるんだ」


 朔の説明に大輝は自然と納得した。この集落に来てから、異様なほどこの場所に惹かれる気持ちを持ち、八ツ森様に近づかれた時の高揚感の理由がそこにあると感じた。

「私には正直、何が何だか……。でも、あんた、ひどい顔をしてるよ」

 心配と不安に満ちた表情で幸代も大輝の背中をさする。そして、横目で部屋の入り口を見つめた。

「窓の方が怖いなら、私があっちを見てこようか? 私には霊感とかはないし、あんたたちが言うような八ツ森様とやらとの繋がりもないだろうし」
「でも、それじゃあ幸代さんが危険な目に遭うかもしれない」

 二人から慰められて、徐々に心に余裕ができてきた大輝が懸念を示すと、幸代はその不安を吹き飛ばすように豪快に笑った。

「心配してくれてありがとう! でも、こういう時に、子供のあんたたちの後ろに隠れてちゃ大人としての面目が立たないからね!」

 その勢いのまま幸代は部屋の扉の前に立つ。襖の向こうでは何かが蠢く気配が続いている。大輝たちを不安にさせないように元気に見せていたが、幸代自身もこの不可解な現象に恐怖を抱いていた。怖がって遠慮がちに開けるより、こういうのは勢いが大事なんだ、と自分に言い聞かせる。深呼吸をすると、大人としての意地もあり、幸代は覚悟を決めて襖の取手に手をかけ、思いっきり引く。

 部屋の前には布を纏った何かがいた。その布の隙間から、ミイラのように痩せ細った人の腕が生えている。落ち窪んだ眼窩に、開きっぱなしの口元から涎がぼたぼたと垂れている。幸代はそれを見てすぐに誰だかわかった。

「――清子さん?」

 ベッドで寝たきりになっているはずの清子がそこにいた。廊下の奥から這って移動したのか、廊下には爪の跡が残されており、清子の衣服は乱れきっている。清子は何度か床を引っ掻いたあと、祈るように両手を空に掲げた。そして、目尻から大粒の涙をぼたぼたと流し、懺悔するように額を強く床に擦り付ける。


「……あ、あ。あぁ…………!」


「清子さん、なんでここに……それに、どうして…………?」

 動けるだけの筋力も体力も残っておらず、ベッドの上でただ死を待つばかりだったはずの清子が目の前にいたことで、幸代は完全に狼狽していた。大輝たちを励ましていた明朗な様子はどこかへ消え、表情に翳りがさす。

 大輝と朔も恐る恐る清子の方へと近づくと、清子は唐突に体を激しく揺らし始めた。まるで、恐ろしい何かに直面したかのようだった。


「……ゆる、してぇ。ゆるしてぇ、くださいぃ!」


 それは後悔か、それとも懺悔か。いや、そのどちらもだった。

 清子は集落の人間として八ツ森様の信仰を普通のことだと思っていたのだろう。孫である大輝がその生贄に選ばれるまでは。

 大輝の一件があり、初めてこの集落に疑念を抱いた清子は、朔とともに八ツ森様について調べ始めた。

 そして、知ったのだ。八ツ森様の真実を。この集落の罪を。


「ゆるしてぇ! あぁ、あぁ! ごめんなぁさいぃ!」


 床に血が滲むほど、何度も頭を床に擦り付ける。誰も彼女を止めることができなかった。それほど、この光景は強烈な衝撃を三人に与えた。

 清子は三人の中でもとりわけ大輝に意識を向けているようだった。大輝が清子の孫だからか、それとも、大輝を通して八ツ森様を見ているのか。

 大輝は謝罪の言葉を叫び続ける清子に頭がズキズキと痛むのを感じていた。まるで、清子の叫びに共鳴しているようだ。

「清子さん……。大丈夫です、もう、いいんですよ」

 頭を抱えた大輝の横で朔が清子に近づいた。そして、掲げられて痩せ細った手を包み込むと、柔らかく微笑む。清子は顔を上げることはなかったが、ぴたりと震えも声も止まった。

「大輝は僕が必ず守ります。だから、清子さんはゆっくり休んでください」

 覚悟のこもった朔の言葉に、清子はゆっくりと顔を上げた。その時、大輝は祖母である清子の本当の顔を見た気がした。

 生気の宿った瞳で朔のことをしっかりと見つめ、小さく頷く。そして、視線だけを大輝に向けると頬を引き攣らせながら「大ちゃん……」と呟いた。

 親しげに呼ばれたその一言を聞いて大輝は、初めて清子と対面した時のことを思い出した。何度も大輝に向かって「かえれ」と伝えていたのは、八ツ森様に意識を乗っ取られていたからではなかったのだ。それは、清子の本心で、唯一の心残りで。自分の命に変えても、大輝をこの集落の運命から救おうとしていた心の現れだ。

 大輝は自分が考えているよりもずっと、いろんな人に守られていた。

 そのことに気がついた大輝は、ゆっくりと清子の方へと近づき、視線を合わせるように膝をつく。


「ありがとう、おばあちゃん。俺のことを助けようとしてくれて」


 この集落に残り続け、朔と一緒にずっと大輝のことを守ってくれていた。その努力を他でもない本人に認められた清子は、初めて歯を見せて笑った。その曇りの無い笑顔に大輝が目を見開くと、清子の体は糸を切られた人形のように床へと倒れ込んだ。

 大輝と朔は慌てて清子の体を抱き抱えると、かろうじて胸が上下しているのがわかった。そのことにホッとしながら、助けを求めるように幸代の方に顔を向ける。幸代はまだ動揺が抜けていないのか、視線を彷徨わせていたが、頬を自分で叩くことで冷静さを取り戻そうとしていた。

「清子さんは私が引き受けるよ。あんたたちは、行くべきところに行きな」

 幸代は二人に変わるように清子の体を抱き抱える。二人はそれでも清子のことが心配だったが、先ほどのように元気な幸代の笑顔を見て、手を伸ばすことをグッと堪えた。


 時間は着実に近づいている。


 清子たちのことを思うのなら、今は一刻も早く八ツ森様の呪いを解く方法を見つけるべきだった。

「絶対に、おばあちゃんのことも諦めません」

 大輝の力強い言葉に幸代は頷き返す。

「清子さんのことが落ち着いたら、私は山の麓まで車を回しておくから。全部片付いたら、二人でそこまでおいで」
「何から何まで、ありがとうござます」

 二人が頭を下げると、幸代は「いいのよ」と笑って答える。きっと幸代だって不可思議なことに巻き込まれて不安に思う気持ちもあったはずなのに、大輝たちのことを思ってなのか、一切その素振りを見せなかった。

 幸代のことはやはり、母親のように頼りになる存在として二人の心に強く残った。

「それじゃあ、行こう」

 大輝が朔に手を伸ばすと、朔はその手を迷わず取った。そして、お互いに力強く握り合うと、幸代たちにもう一度礼を述べてから玄関に向かう。