あの夏、神様に選ばれた君へ

 次の瞬間、バンっと窓を叩く大きな音が耳を貫く。驚いて目を見開くと、目の前の窓ガラスには真っ赤な色の手形がついていた。


 バン! バン! バン!


 窓ガラスが軋む。


 爪が引っかかるような嫌な音が、体の内側にまで響く。
 何度も何度も窓ガラスを叩かれ、その度に血のように赤い色をした手形が窓につく。まるで、ここを開けろというように、何かは窓を叩き続ける。

「八ツ森様は境界を越えられない。だから、こうやって窓や扉をちゃんと閉めれば、家の中に入ってくることはないんだ」
「な、んだよ……八ツ森様とか、これは…………」

 これが神様だというのか――大輝は込み上げてくる不快感に思わず口に手を当てる。朔は慣れているのか蹲った大輝の背中を優しく撫でる。

「八ツ森様はこの集落に住む神様。僕らが崇め奉る、神様だよ」

 一面真っ赤に染まるほど神と呼ばれたそれは繰り返し窓を叩く。


 あけろ。あけろ。あけて。ここをあけて。


 泣きじゃくる子供の声が聞こえてくる。その声に大輝はゆっくりと顔をあげるが、そこに子供はいない。あるのは悍ましく、血色を失った小さな手のひらだけだった。


「八ツ森、様…………俺は……」


 激しい頭痛が大輝を襲う。チリっと刺すような痛みが頭から首筋に移動していく。子供の泣き声がガンガンと頭の中を責め立てる。その声が響くたびに首を締め付けられたように息ができなくなり、大輝はもがくように何もないはずの首に手を伸ばす。首にかかった縄を取りたいと思うのに、手に触れるのは自分の肌だけ。爪を立て、必死に呼吸を求める大輝の手を、優しい温もりが包み込む。


「――しっかりしろ、大輝!」


 谷底に伸びる、一筋の蜘蛛の糸のように、朔の声は大輝の意識を現実に引き留めた。

 その瞬間、大輝の肺は空気を取り戻す。突然動き出した肺が驚いたのか、大輝は何度もその場にえづきながら生理的に滲んだ涙をこぼす。

 朔の手を借りながら顔をあげると、先ほどまで見ていたものが嘘のように窓には何もついていなかった。


「この集落には言い伝えがあるんだ」


 荒い息を整えていると、おもむろに朔が口を開く。金色の瞳の奥は黒く澱み、深い憎悪が滲み出る。


「八ツ森様の声に応えてはならぬ。応えたら最後、存在ごと喰われてしまうだろう」


 八ツ森様の声、と聞いて先ほどまで頭に響いていた幼子の声を思い出す。だが、あれほど強烈に頭に入り込んできた声は、霞の向こうに消えてしまったように思い出すことができなかった。



 ただ、その言葉だけを残して。



「……お前は…………平気なのか」

「まぁね。僕はずっとここにいるから、今更八ツ森様の声でどうにかなったりはしないかな」


 瞬きをした朔の瞳からは暗い感情が消えていた。その代わりに、大輝のことを心配するように瞳に映った光が揺れる。

「それよりも、大輝の方こそ大丈夫? 結構衝撃的だったでしょ」
「……大丈夫、とは言えないかもしれないけど、なんとかって感じだな」
「それなら大丈夫だね。……ねぇ、これでわかったでしょ? ここは普通じゃないんだ。ここにいたら君は間違いなく神様に殺される」

 まっすぐな瞳が大輝を射抜く。大輝は先ほどの異形のものを思い出し、鳥肌を立たせる。

 朔の言葉が比喩やただの脅しではないことは十二分にわかった。


 だけど――と、大輝は考える。


「……ここから、お前は出たいと思わないのかよ」


 その言葉に朔の目は大きく見開かれる。ほんの一瞬だけ、何かに耐えるように朔の瞳が大きく揺れる。それは、部屋に閉じ込められた子供が外に希望を求める色だった。


「……思わない」


 震えた声が大輝の鼓膜を揺らす。聞こえてきたのは泣きたくても泣けない、覚悟を孕んだ声色だった。

「僕はここで役目を果たさなきゃいけない。誰かに言われたからじゃない。僕がそうすべきだと思うから」
「役目ってなんだよ。それはお前じゃなきゃいけないのかよ」

 怪訝そうに眉を顰めた大輝に朔は困ったように目尻を下げる。

「子供のお前に背負わせなきゃいけないような役目なら、全部捨ててしまえばいいだろ」

 強い意思がこもった視線に朔は逃げるように顔を背けた。大輝には頑なにこの異常な集落から逃げようとしない朔の考えが理解できなかった。

「お前が俺をここから逃がしたいのなら、お前も一緒に来ることが条件だ」

 大輝の言葉に朔は大きく息を呑む。そして、何かを言おうと口を開きかけ、結局朔は何も言わなかった。


「俺は、朔と一緒に生きたい」

「……僕は」


 朔は今にも泣きそうに顔を歪めると、全てを諦めるように大輝の胸を押して遠ざける。


「大輝とは生きていけないよ」


 朔は大輝を突き放すと、ゆっくりと立ち上がって踵を返した。操られた人形のように、意思のないその動きに大輝は引き止めるために思わず手を伸ばす。


「今夜は、ここにいて。きっと八ツ森様はここには来ないから」


 低く、冷えた声に大輝の手が止まる。全身から感じる、これ以上踏み込むなという気配に、迷ういながら手を降ろし唇を噛み締めた。



「……明日の朝、家の前で待ってる」



 だから、一緒に逃げよう――その言葉は声にならなかったが、朔の肩が僅かに震えたのを見て伝わったことを悟る。

 朔はそれ以上何も言わずに大輝の前から立ち去った。闇が広がる廊下の奥に、彼は溶けるように消えていく。

 大輝はその姿が見えなくなるまで見つめ続けた。