あの夏、神様に選ばれた君へ

 母親に連れられて来たのは同い年の男の子。引っ込み思案なのか、人見知りが激しいのか、その男の子は母親の足にしがみついて前に出てくることはない。だから、たしか、大輝の方から歩み寄ったのだ。

 人との付き合い方も知らず、仲良くなるための方法も知らない。ぶっきらぼうに差し出した手をその子は一瞬視線を彷徨わせたあと、しっかりと見つめてはにかんだ。


「よ、よろしく! 僕の、名前は――」


 何かが切れる音が耳元で爆ぜると世界は暗闇に閉ざされる。

 そばにいた母親も、可愛らしく笑ったその子も、誰もいない孤独な空間に放り出される。

「……母さん? みんなは?」

 キョロキョロと忙しなくあたりを見渡す。何かないかと手をがむしゃらに振り回しても、その手が形ある何かを掴むことはない。

 不意に、鼻が曲がりそうな刺激臭がする。あらゆる方向から、カラカラと硬くて軽い何かがぶつかる音がしきりに聞こえる。

 息が浅くなる。大粒の脂汗が額に滲む。たくさんのそれが這いずり回る音がする。そこにいる、大輝を探している。

 息を殺して、何かがいなくなるのを待つ。待って、待って、待ち続けて。


 ――静寂が訪れる。


 大輝は恐る恐る目を開く。端々に赤黒い何かがこびりついた白木で組まれた舞台がそこにある。周囲には蝋燭が焚かれ、その炎が揺れる向こうで無数の人影がゆらゆらと呪いの言葉を口にする。

 それは、神に祈りを捧げる舞台であり、同時に何かを差し出すための場所だった。


「さぁ」

「さぁ」

「さぁ」



 腹に響くように人々の声が重なり合って、大輝の体に重くのしかかる。ここから逃げ出したい。なのに、足は自然と前に進む。その向こうに、懐かしい誰かが待っている。その誰かに、無邪気な笑い声に、魅了される。

 大輝はこの光景をよく知っていたはずだ。

 忌まわしくて、悍ましい。人の醜い感情の吹き溜まり。
 大輝はいつの間にか舞台の中心に立っていた。唇は紫色に染まり、体は小刻みに揺れる。この先にいる何かを本能が覚えており、恐怖で喉が鳴るが、それ以上に心の底から歓喜の気持ちが湧き上がる。


 やっと、やっとだ。

 俺は、ようやく、約束を果たせる!


 知らずうちに口が裂けそうなほど口角が上がる。目からは涙がボロボロと流れる。


 嬉しい! 嬉しい! 嬉しい!!


 暗闇からそれがゆっくりと姿を現す。白くて柔らかそうな手が無数に伸びてくる。まるで、歓迎するように。迎え入れるように。

 その手を受け入れようと、静かに瞳を閉じる。

 その瞬間、誰かに袖を引かれる。

 ハッとして振り返ると、ボサボサの前髪の隙間からじっと覗く金色の瞳と目が合う。その強い意志のこもった視線に、大輝は戸惑う。なぜ彼がここにいて、彼らとの融合を引き止めるのか分からなかった。

 彼はそっと手を滑らせると、大輝の手を握る。手が触れた瞬間、無数の手が一斉に悲鳴を上げる。甲高く、金属が擦れるような、耳の奥で軋む音。まるで、お気に入りの玩具を取り上げられた子供のように。


 そこから伝わる温もりが、大輝の心を引き戻す。


 大輝を人間に戻していく。


「――言ったはずだ。大輝はお前たちには渡さないって」


 強い拒絶に足元から世界が崩壊する。崩れていく世界の向こうで、大輝はそれと対峙する朔を見た。