視界が白濁する。
重力が消え、胃の腑を裏返されるような浮遊感が襲った。
上下も前後も失われ、平衡感覚が底の抜けた水袋のように零れ落ちていく。
数秒。
あるいは数時間。
感覚の基準そのものが意味を失ったのち――
二人は静寂が支配する空間へと、投げ出されるように着地した。
そこは「舊理科準備室」の成れの果て。
しかし、現実の校舎とは明らかに異なる異界だった。
天井は失われ、巨大な満月が冷ややかに二人を見下ろしている。
足元には樒、蓮、曼珠沙華。
季節を無視した仏花が、白々と咲き乱れていた。
立ち込めるのは、死者を呼び戻すとされる『反魂香』。
甘く、痺れるような香りが、空気そのものに沈殿している。
その花園の中央。
墓標を思わせる冷たい石の椅子に、一人の少女が、静かに腰を下ろしていた。
彼女の髪は足先まで届くほど長く、一筋一筋が月の光を透かすほどに淡い色をしていた。
その長い髪には、まるで夜空の欠片を編み込んだかのように、色とりどりの小さな鑛石が散りばめられている。
「……君が、この場所の主か」
栴の問いに、少女のような「原種」は、ゆっくりと睫毛を揺らした。
その瞳に敵意はない。
あるのは永い眠りを妨げられた者だけが宿す果てしない倦怠と、底の抜けたような悲しみだけだった。
『……私は、ただ、静かに眠っていたいだけなのに』
少女の声は、風に触れた鈴のようにかすかに震えながら空間へと溶けていく。
『あの騒々しい子供に無理やり起こされ……その挙句、貴方たちの仲間に天井まで壊されて。
……酷い目にあってばかり。
私は、貴方たちを傷つけたいわけではないのに』
瑞は、今では何事もなかったかのように滑らかに塞がってしまった天井を見上げた。
そこを力任せに叩き割った瞬間の、自身の奔放さが脳裏をよぎる。
彼は気まずそうに奏鳴弓を引き寄せ、視線を泳がせた。
「それはぁ……その。
栴を助けようとした勢い余って、というか……あのぉ、ごめんなさい。
後でちゃんと、僕の旋律で修復の加護をかけておくから」
栴は、少女から視線を外さずにいた。
香の濃度、花の配置、石椅子の摩耗――この異界の構造そのものが、ひどく「受動的」だ。
守るための結界ではない。
閉じ込めるための檻でもない。
――これは、眠るための場所だ。
(攻撃性がないのではない。争う意思そのものを、最初から持たない空間だ)
何より少女の背後に漂う氣の揺らぎに、栴はわずかに眉を動かした。
鬼の瘴気とは違う。
削り、均し、静める――研磨後の鑛石に近い感触。
(……すでに、一度、手を入れている)
だが、それは未完だ。
彼女は削げなかったのではない。
削らなかったのだ。
削るという行為は、目覚め続けることと同義だからだ。
栴は静かに右手を差し出した。
白手袋を失った、剥き出しの素手を。
「事情は理解した。……眠りを妨げた無作法を詫びよう。
だが、あの『鬼』を野放しにするわけにはいかない。君を蝕むあの『悪意』を、俺が研ぎ落とす。そのために、君の力を貸してほしい」
仏花が白々と光る園で、原種の少女は悲しみの色を宿した瞳をゆっくりと伏せた。
『……あの子は、自ら命を絶つ道を選びました。
けれど、墜落する瞬間に「忘却」という真の死を恐れ、あろうことか自らの魂をその牙で食いちぎってしまった』
少女の細い指先が、長い髪に編み込まれた鑛石の一つに触れる。
それは鈍く、沈黙するような光を放つ名もなき石だった。
『欠落し、傷ついた魂は、現世へ逃げ戻るための「鬼」の依代となりました。
あの子を止めるにはその執着という名の「忌」を研ぎ落とし、食いちぎられた魂の欠片を、繋ぎ合わせなければなりません』
「本当の姿、か」
少女は頷き、栴の右手を優しく両手で包み込んだ。
ひどく冷たいその掌から、透明な息が吹きかけられる。
凍てつく靈気が栴の血の巡りに溶けていった。
次の瞬間。
右手の甲に、淡い光の文字が浮かび上がる。
栴はそれを“呪”ではなく、“刻印された輪郭”として受け取った。
削るための刃ではない。
――削るべき位置を、狂いなく示すための基準だ。
それは導きであると同時に、研ぎ損なえば自身が削られる危うさを孕んだ線でもある。
『あの子を還してあげて。
……現世に落ちて、あの子が最初にもらった一番のプレゼント。
誰も呼ばなくなって、あの子自身も忘れてしまった「名前」を。それを突きつければ、悪意という仮面は剥がれ落ちるでしょう』
少女の唇から紡がれた言葉は小さく、しかし凛とした響きを宿していた。
それは――一〇九号。
あの腫れ上がった顔で笑っていた少年が、かつて人間として生きていた頃に持っていた、瑞々しい名。
「……なるほど。あの鑛石の核を研ぎ出すための、唯一の術か」
栴はその名を、胸の奥に深く刻み込む。
右手の刻印が、生き物のように熱を帯びて拍動し始める。
それは、原種から託された「名付け」という名の武器だった。
名とは、呼び戻すためのものではない。
忘れきれなかった存在を、現実へと縫い止めるための楔だ。
瑞は、何も言わなかった。
ただ奏鳴弓を握る指に、一瞬だけ余計な力がこもる。
栴はそれを横目に捉え、しかし、声をかけることはしなかった。
「行こう、栴。あの子に、そのプレゼントを届けてあげないとね」
原種の少女は再び石の椅子に深く腰を下ろし、長い髪を揺らして静かに瞳を閉じた。
『……お願い。今度こそ、あの子も、私も。
……静かな眠りの中に、還して』
反魂香の煙が濃くなり、視界がゆっくりと歪んでいく。
栴と瑞は、もう迷わなかった。
彼らは「名」という名の刃を携え、一〇九号が待ち構える校舎の最下層へと駆け出した。
重力が消え、胃の腑を裏返されるような浮遊感が襲った。
上下も前後も失われ、平衡感覚が底の抜けた水袋のように零れ落ちていく。
数秒。
あるいは数時間。
感覚の基準そのものが意味を失ったのち――
二人は静寂が支配する空間へと、投げ出されるように着地した。
そこは「舊理科準備室」の成れの果て。
しかし、現実の校舎とは明らかに異なる異界だった。
天井は失われ、巨大な満月が冷ややかに二人を見下ろしている。
足元には樒、蓮、曼珠沙華。
季節を無視した仏花が、白々と咲き乱れていた。
立ち込めるのは、死者を呼び戻すとされる『反魂香』。
甘く、痺れるような香りが、空気そのものに沈殿している。
その花園の中央。
墓標を思わせる冷たい石の椅子に、一人の少女が、静かに腰を下ろしていた。
彼女の髪は足先まで届くほど長く、一筋一筋が月の光を透かすほどに淡い色をしていた。
その長い髪には、まるで夜空の欠片を編み込んだかのように、色とりどりの小さな鑛石が散りばめられている。
「……君が、この場所の主か」
栴の問いに、少女のような「原種」は、ゆっくりと睫毛を揺らした。
その瞳に敵意はない。
あるのは永い眠りを妨げられた者だけが宿す果てしない倦怠と、底の抜けたような悲しみだけだった。
『……私は、ただ、静かに眠っていたいだけなのに』
少女の声は、風に触れた鈴のようにかすかに震えながら空間へと溶けていく。
『あの騒々しい子供に無理やり起こされ……その挙句、貴方たちの仲間に天井まで壊されて。
……酷い目にあってばかり。
私は、貴方たちを傷つけたいわけではないのに』
瑞は、今では何事もなかったかのように滑らかに塞がってしまった天井を見上げた。
そこを力任せに叩き割った瞬間の、自身の奔放さが脳裏をよぎる。
彼は気まずそうに奏鳴弓を引き寄せ、視線を泳がせた。
「それはぁ……その。
栴を助けようとした勢い余って、というか……あのぉ、ごめんなさい。
後でちゃんと、僕の旋律で修復の加護をかけておくから」
栴は、少女から視線を外さずにいた。
香の濃度、花の配置、石椅子の摩耗――この異界の構造そのものが、ひどく「受動的」だ。
守るための結界ではない。
閉じ込めるための檻でもない。
――これは、眠るための場所だ。
(攻撃性がないのではない。争う意思そのものを、最初から持たない空間だ)
何より少女の背後に漂う氣の揺らぎに、栴はわずかに眉を動かした。
鬼の瘴気とは違う。
削り、均し、静める――研磨後の鑛石に近い感触。
(……すでに、一度、手を入れている)
だが、それは未完だ。
彼女は削げなかったのではない。
削らなかったのだ。
削るという行為は、目覚め続けることと同義だからだ。
栴は静かに右手を差し出した。
白手袋を失った、剥き出しの素手を。
「事情は理解した。……眠りを妨げた無作法を詫びよう。
だが、あの『鬼』を野放しにするわけにはいかない。君を蝕むあの『悪意』を、俺が研ぎ落とす。そのために、君の力を貸してほしい」
仏花が白々と光る園で、原種の少女は悲しみの色を宿した瞳をゆっくりと伏せた。
『……あの子は、自ら命を絶つ道を選びました。
けれど、墜落する瞬間に「忘却」という真の死を恐れ、あろうことか自らの魂をその牙で食いちぎってしまった』
少女の細い指先が、長い髪に編み込まれた鑛石の一つに触れる。
それは鈍く、沈黙するような光を放つ名もなき石だった。
『欠落し、傷ついた魂は、現世へ逃げ戻るための「鬼」の依代となりました。
あの子を止めるにはその執着という名の「忌」を研ぎ落とし、食いちぎられた魂の欠片を、繋ぎ合わせなければなりません』
「本当の姿、か」
少女は頷き、栴の右手を優しく両手で包み込んだ。
ひどく冷たいその掌から、透明な息が吹きかけられる。
凍てつく靈気が栴の血の巡りに溶けていった。
次の瞬間。
右手の甲に、淡い光の文字が浮かび上がる。
栴はそれを“呪”ではなく、“刻印された輪郭”として受け取った。
削るための刃ではない。
――削るべき位置を、狂いなく示すための基準だ。
それは導きであると同時に、研ぎ損なえば自身が削られる危うさを孕んだ線でもある。
『あの子を還してあげて。
……現世に落ちて、あの子が最初にもらった一番のプレゼント。
誰も呼ばなくなって、あの子自身も忘れてしまった「名前」を。それを突きつければ、悪意という仮面は剥がれ落ちるでしょう』
少女の唇から紡がれた言葉は小さく、しかし凛とした響きを宿していた。
それは――一〇九号。
あの腫れ上がった顔で笑っていた少年が、かつて人間として生きていた頃に持っていた、瑞々しい名。
「……なるほど。あの鑛石の核を研ぎ出すための、唯一の術か」
栴はその名を、胸の奥に深く刻み込む。
右手の刻印が、生き物のように熱を帯びて拍動し始める。
それは、原種から託された「名付け」という名の武器だった。
名とは、呼び戻すためのものではない。
忘れきれなかった存在を、現実へと縫い止めるための楔だ。
瑞は、何も言わなかった。
ただ奏鳴弓を握る指に、一瞬だけ余計な力がこもる。
栴はそれを横目に捉え、しかし、声をかけることはしなかった。
「行こう、栴。あの子に、そのプレゼントを届けてあげないとね」
原種の少女は再び石の椅子に深く腰を下ろし、長い髪を揺らして静かに瞳を閉じた。
『……お願い。今度こそ、あの子も、私も。
……静かな眠りの中に、還して』
反魂香の煙が濃くなり、視界がゆっくりと歪んでいく。
栴と瑞は、もう迷わなかった。
彼らは「名」という名の刃を携え、一〇九号が待ち構える校舎の最下層へと駆け出した。

