目的の教室の扉を開けると、そこには月光に照らされ穏やかな表情で『雨垂れ』を奏でる瑞が居た。
「ああしてみると、天井に風穴を開けたような男には見えないから不思議だ」
「全くだ。女房に持ったお前の気苦労は、当分絶えそうにねぇな」
「……瑞を嫁に持ったつもりはないが」
「そういう諺があんだよ!」
二人が騒々しく顔を出すと、ピアノの旋律がぴたりと止まった。
瑞は弾かれたように椅子から立ち上がると、ほとんど衝突する勢いで駆け寄り、その細い腕で二人をまとめて抱き締める。
「せんーーっ! ごめんねぇええ! 僕が先走っちゃったばっかりにぃ! 怪我してない? どこも欠けてない!?」
先ほどまでの神がかり的な演奏が嘘のように、瑞は子供のように取り乱し、栴の体を檢分し始める。
栴は慣れたもので、無表情のままされるがままになっていた。
「……」
「あぁ……っ! 手袋、ない。ないよぉ、栴! どうして? どこに置いてきちゃったのぉ」
瑞の声から、先ほどまでの子供のような熱が急速に失われていく。
それは一音ごとに絶対零度へと凍りついていくような、静かな絶望と執着の混じった声だった。
瑞は栴の剥き出しの右手を、まるで壊れ物を扱う手付きで逃がさないように両手の中へ閉じ込めた。
そのあまりの剣幕に、柊は「これだから優等生は」と肩をすくめている。
栴は右手の剥き出しの肌に触れる瑞の指先の熱を感じながら、今日初めて静かに口角を上げて微笑んだ。
「……大丈夫だ、瑞。少し『忌憶』を覗きすぎただけだ」
その穏やかな声に、ようやく瑞の肩から力が抜ける。
瑞はしばらくの間、栴の掌に残る「汚れ」の匂いを嗅ぐようにじっとその手を見つめ続けていた。
――だが、その沈黙は、あまりにも長すぎた。
不意に栴の背に、言いようのない悪寒が這い上がった。
その間にも三人を囲む校舎の壁は、いまだに生き物のように小さく脈動を続けている。
「さて、どうするよ。俺も任務帰りだから、派手にぶちかますための資材が乏しいぞ」
柊が重い拳銃を回しながら、苦々しく現状を提示した。
栴はいまだに自身の右手を両手で包み込んでいる瑞の様子を横目に、冷静に装備を確認する。
「俺も予備の手袋は持ってきていない。この剥き出しの手で直接『鑛石』を研ぐのは、少々骨が折れる」
「僕もぉ……。まさか栴がはぐれて、手袋まで飲まれちゃうなんて思ってなかったんだもん……」
瑞はしおしおと肩を落とし、まるで宝物でも守るように栴の手を握りしめている。その様子に、柊が耐えかねたようにツッコミを入れた。
「おい、いつまで新婚さんごっこしてんだ! 見てるこっちが恥ずかしくなるわ!」
「ふふん、嫉妬は見苦しいよぉ、柊。僕たちは最高の相棒なんだから、これくらい当然じゃない」
瑞が勝ち誇ったように茶々を入れた、その時だった。
――ドクン。
校舎全体が、巨大な心臓のように大きく拍動した。
三人の冗談を打ち消すように音楽室の壁が内側へとせり出し、古い漆喰が剥がれ落ちる。
ギギギ、ギギッ……。
壁に埋め込まれたホルンやフルートが、見えない奏者に操られるように一斉にその口を開いた。
同時に閉ざされた天井から、床下から、窓の隙間から、逃げ場を奪うような「不協和音」が爆発する。
それはもはや音楽ではなく獲物をじわじわとすり潰し、消化するための「殺意」の振動だった。
「……瑞、柊。軽口はそこまでだ」
栴が鋭く告げると同時に、ピアノの鍵盤がひとりでに跳ね上がり鋭利な刃となって三人の頭上から降り注ぐ。
廃校という名の怪物の腹の中で、真の「消化」が今、始まった。
「ああしてみると、天井に風穴を開けたような男には見えないから不思議だ」
「全くだ。女房に持ったお前の気苦労は、当分絶えそうにねぇな」
「……瑞を嫁に持ったつもりはないが」
「そういう諺があんだよ!」
二人が騒々しく顔を出すと、ピアノの旋律がぴたりと止まった。
瑞は弾かれたように椅子から立ち上がると、ほとんど衝突する勢いで駆け寄り、その細い腕で二人をまとめて抱き締める。
「せんーーっ! ごめんねぇええ! 僕が先走っちゃったばっかりにぃ! 怪我してない? どこも欠けてない!?」
先ほどまでの神がかり的な演奏が嘘のように、瑞は子供のように取り乱し、栴の体を檢分し始める。
栴は慣れたもので、無表情のままされるがままになっていた。
「……」
「あぁ……っ! 手袋、ない。ないよぉ、栴! どうして? どこに置いてきちゃったのぉ」
瑞の声から、先ほどまでの子供のような熱が急速に失われていく。
それは一音ごとに絶対零度へと凍りついていくような、静かな絶望と執着の混じった声だった。
瑞は栴の剥き出しの右手を、まるで壊れ物を扱う手付きで逃がさないように両手の中へ閉じ込めた。
そのあまりの剣幕に、柊は「これだから優等生は」と肩をすくめている。
栴は右手の剥き出しの肌に触れる瑞の指先の熱を感じながら、今日初めて静かに口角を上げて微笑んだ。
「……大丈夫だ、瑞。少し『忌憶』を覗きすぎただけだ」
その穏やかな声に、ようやく瑞の肩から力が抜ける。
瑞はしばらくの間、栴の掌に残る「汚れ」の匂いを嗅ぐようにじっとその手を見つめ続けていた。
――だが、その沈黙は、あまりにも長すぎた。
不意に栴の背に、言いようのない悪寒が這い上がった。
その間にも三人を囲む校舎の壁は、いまだに生き物のように小さく脈動を続けている。
「さて、どうするよ。俺も任務帰りだから、派手にぶちかますための資材が乏しいぞ」
柊が重い拳銃を回しながら、苦々しく現状を提示した。
栴はいまだに自身の右手を両手で包み込んでいる瑞の様子を横目に、冷静に装備を確認する。
「俺も予備の手袋は持ってきていない。この剥き出しの手で直接『鑛石』を研ぐのは、少々骨が折れる」
「僕もぉ……。まさか栴がはぐれて、手袋まで飲まれちゃうなんて思ってなかったんだもん……」
瑞はしおしおと肩を落とし、まるで宝物でも守るように栴の手を握りしめている。その様子に、柊が耐えかねたようにツッコミを入れた。
「おい、いつまで新婚さんごっこしてんだ! 見てるこっちが恥ずかしくなるわ!」
「ふふん、嫉妬は見苦しいよぉ、柊。僕たちは最高の相棒なんだから、これくらい当然じゃない」
瑞が勝ち誇ったように茶々を入れた、その時だった。
――ドクン。
校舎全体が、巨大な心臓のように大きく拍動した。
三人の冗談を打ち消すように音楽室の壁が内側へとせり出し、古い漆喰が剥がれ落ちる。
ギギギ、ギギッ……。
壁に埋め込まれたホルンやフルートが、見えない奏者に操られるように一斉にその口を開いた。
同時に閉ざされた天井から、床下から、窓の隙間から、逃げ場を奪うような「不協和音」が爆発する。
それはもはや音楽ではなく獲物をじわじわとすり潰し、消化するための「殺意」の振動だった。
「……瑞、柊。軽口はそこまでだ」
栴が鋭く告げると同時に、ピアノの鍵盤がひとりでに跳ね上がり鋭利な刃となって三人の頭上から降り注ぐ。
廃校という名の怪物の腹の中で、真の「消化」が今、始まった。

