浄研檢疫局 ――靈魂ノ鑛石と奏鳴弓

 少年の剥き出しの瞳が、至近距離で(せん)を呪おうとしたその瞬間。
 絶対的な零の世界を否定するように、高らかなピアノの一音が銀の針となって(くろ)を貫いた。

 ――パリン。

 頭上の漆黑に鋭い亀裂が走り、そこから柔らかな光の雫が溢れ出す。光に混じって堕ちてきたのは、数個の原石(ルビーやサファイア)だ。
 それらは虚空で火花を散らしながら、冷たい光の尾を引いて降り注ぐ。

 異質な美しさに少年の意識が奪われた、刹那の空白。
 
 栴は右手の白手袋を欠いた――それでもなお、躊躇なく「利き手でない左手」で逆一文字に刀を抜き放った。

 鈍い銀光が少年の喉元を狙う。
 だが少年は直感的な不気味さで身を捩り、切っ先はわずかにその髪を切り裂くにとどまった。宙に舞うのは、切断された黑い泥のような髪。

「……(ひいらぎ)か」

 栴が呟くと同時に足元に落ちた宝石が弾けた。

 そこから(しきみ)の花が噴き上がるようにして咲き誇る。
 死者に供える、猛毒を孕んだ白緑の花々。それが瞬く間に栴の周囲を囲い、異界の浸食を阻む簡易結界を構築した。



 直後、天井の亀裂がさらに大きく砕け散った。



 光の向こう側から、一人の青年が弾丸のように堕ちてくる。
 燃えるような赤髪。殉の中でも異彩を放つ巨躯は着地の衝撃を待たず、両手に握った二丁の拳銃を少年に向けた。

「オラァ! 湿っぽい面してんじゃねぇよ、ガキ!」

 その咆哮と同時に、絶対零度の静寂は無残に粉砕された。
 柊の両手に握られた特注の超大型自動拳銃が、猛り狂う獣のように火を噴く。

 ――ガァァァァン!!

 硬質な重低音が、鼓膜を直接叩き割る。
 銃口から吐き出されたのは、法咒(ほうじゅ)を刻印された純銀の徹甲弾だ。
 高熱を帯びた弾丸が空気を切り裂き、周囲の「忌憶(きおく)」を強制的に焼き焦がしていく。
 鼻を突く強烈な硝煙の匂いと、何かが焦げるような甘ったるい死臭が、空間に撒き散らされた。

「おお、効いてる効いてるぅ! 俺の弾丸はよぉ、未練を燃やすのが得意なんだわ!」

 柊は噴き出す薬莢の熱さえも楽しむように、さらに引き金を引き絞る。
 連射の衝撃で彼の逞しい腕の筋肉が躍動し、燃えるような赤髪が硝煙の風に煽られて激しく揺れた。
 
「終わりは毎度、派手な方が気分が良いだろうよぉ!」

 激しい轟音。

 柊が二丁の拳銃を天に向けて構え、漆黒の天井へと躊躇なく一発の鉛玉を撃ち込んだ。
 狙いを違わず天井の中央に突き刺さったその弾丸は、音波で生まれた亀裂を物理的な暴力でさらに深淵へと引き裂いた。

 ――パァァァン!!

 廃校の空気を叩き割るような、硬質で、しかしどこか凱歌のような破砕音。
 それは、停滞していた闇を焼き切る「銀の断頭台」となった。
 天井の漆黒に鋭い亀裂が走り、そこから柔らかな、しかし暴力的なまでに純白な「月の光」が奔流のように溢れ出す。

 少年はその光に触れた瞬間、硫酸を浴びたかのような激しい拒絶反応を見せた。

「ギ、ィ……ア、aァ痾ァッ!!」

 少年の輪郭が、光の中でドロドロと溶け崩れていく。

 光に焼かれた獣のような、地を這う威嚇音。
 原型を留めぬほどに顔を歪めた少年は、自分の存在そのものを否定する月光から逃れるように、光の届かぬ闇の深淵へと獣の速度で這い去っていった。




 潮が引くように黑が霧散し、後に残されたのは無機質な瓦礫に成り果てた音楽準備室だった。
 栴が柄から手を離すと赤く熱を帯びた薬莢がチャリン、と虚しい音を立てて足元に落ちる。
 その豪快な仕草一つ一つが、先ほどまでこの空間を支配していた「孤独」を、暴力的なまでの生気で塗り潰していった。

「よぉ、栴! 災難だったな。相変わらずお前さんは、湿気た場所に好かれる男だぜ」

 そう言って笑いながら歩み寄ってきたのは、燃えるような赤髪を短く刈り込んだ大男――柊だ。栴よりも頭二つ分は高い巨躯に、重厚な二丁の拳銃。
 (じゅん)の中でも重火器による制圧を専門とする彼は、その豪快な見た目に違わず洒々落々とした兄貴分を気取っている。

「暑苦しい。近寄るな、柊」
「相変わらず手厳しいねぇ。ま、その元気がありゃ大丈夫か」

 栴の冷淡な拒絶を、柊は慣れた様子で笑い飛ばす。栴にとって柊の過剰な熱量は辟易するものだがその実、背中を任せるに足る確かな信頼を置いているのもまた事実だった。

 ふと、耳を澄ませば、静寂を縫ってどこからかピアノの旋律が流れてくる。

 ――ショパンの『雨垂れ』。

 かつて栴が、ほんの気まぐれに「好きだ」と口にした前奏曲。その調べは、瑞の繊細な指先が紡ぎ出す静かな怒りと深い安堵を含んだ音色だった。

「どうしてここにいる。お前は別件で、北の山を檢疫(けんえき)していたはずだろう」

 栴の問いに、柊は肩をすくめてみせた。

「あぁ、その帰り道さ。こっちの方角から、(みずき)の野郎が血相変えてこの廃校を丸ごとぶち壊そうとしてるのが見えてな。
 あの優等生が、あんなデカい音波で外壁を叩き割ってるのを見ちまったら、何事かと合流するに決まってんだろ」

 柊が指さす先、天井の巨大な穴からは夜空の月が顔を覗かせていた。
 瑞がこの空間を抉じ開けた、凄まじい執念の痕跡だ。

「とりあえず、瑞にその(つら)拝ませてやってくれ。あいつ、今にもこの学校ごと心中しかねない勢いだったからよ」

 柊の言葉に栴は短く頷き、ピアノの音が満ちる教室へと足を向けた。
 二人が廊下へ踏み出した、その瞬間だった。

 瑞が力任せに抉じ開けたはずの天井の巨大な穴が、まるで生き物の顎が咀嚼を始めたように、ぐにゃりと歪んだ。

 砕けた瓦礫が、皮膚が癒着するようにして絡み合い盛り上がり、ゆっくりと塞がっていく。瞬く間に、そこには何事もなかったかのような無機質な天井が再形成された。

「……ありゃ。どうやら奴さん、本気で俺たちを逃がす気はねぇらしいな」

 柊が呆れたように鼻を鳴らすが、栴は足を止めなかった。