浄研檢疫局 ――靈魂ノ鑛石と奏鳴弓


 孤独という名の重力に押し潰されそうになったのも、ほんの一瞬のことだった。

 (せん)は深く肺の最奥まで冷気を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。

(……落ち着け、観測を止めるな。ここはあの「鬼」の内側か、あるいは断絶された位相空間に過ぎない。ここで混乱することは相手の思う壺だ)

 彼は指先の微かな感覚を頼りに、音のする方向――細い水のせせらぎを目指して、一歩、また一歩と足を進めた。


 ※

   
 どれほどの距離を歩いたのか。

 あるいは、時間は本当に流れているのか。
 足の裏が地を捉えている感覚すら乏しいこの(くろ)の中で、栴は自身の肉体が「不変」であることに気づく。
 肺が空気を求めているのかさえ判然とせず、空腹も疲労も、この黑の密度に溶けて消えてしまったかのようだった。
 まるで、自分自身もまた、硝子瓶に収められた標本へと成り果てたかのような錯覚。
   

 不意に、目の前の黑が微かに揺らいだ。    


 そこには直径五十センチメートルほどの、「水たまり」が浮かんでいる。
 地面に溜まっているのではない。
 虚空に水平を保ったまま、ぷかぷかと浮遊しているのだ。
 光を反射するはずのない絶対的な暗闇の中で、その透明な揺らぎだけが唯一の物理的な質感を持ち合わせていた。

 栴は立ち止まり、その不可思議な水鏡を観察する。
 触れるべきか避けるべきか。
 しばらく考え込んだのち、彼は右手の白手袋を脱いだ。殉にとって、指先を守る白手袋は一種の境界線である。彼はその手袋を檢体(けんたい)へと投じるようにして、水たまりへと落としてみた。

 パシャリ。

 水面が小さく波立ち、白い布地がゆっくりと飲み込まれていく。

 その波紋が広がると同時に、栴の視界に鮮烈な色が弾けた。  




『――これからは、君たちの手がその役割を担うんだ』

 懐かしい、厳格でいて優しい声が響く。  
 それは、栴が初めて『(じゅん)』としての任務を命じられた日の忌憶(きおく)だ。

 セピア色の光に満ちた、檢疫局の大広間。
 自分よりいくらか背の高い先輩たち。(みずき)琥珀(こはく)といった顔馴染みが一列に並んでいる。教官である(かえで)が恭しく差し出した銀のトレイには一度も指を通していない、糊の効いた真新しい白手袋が置かれていた。

『栴。その白は、君たちの潔白を証明するためのものではない。汚れなき魂に触れるため、君たちが「汚れ」を引き受けるための境界線なんだよ』

 楓の細い指先が、栴の掌に触れる。
 その温もりを、栴は黑い闇の中で失ったはずの指先を通じて、鮮明に思い出していた。




(……なるほど。この水たまりは、供せられた私物を対価に、その品に宿る「忌憶」を再生するのか)

 失われた右手の残熱をなぞりながら、栴は冷徹に分析を上書きする。
 次に何を投じるべきか。残された左の手袋か、あるいは。 思案する彼の視界の端で、何かが小さく動いた。

 それは埃の塊か綿毛のような、白くてふわふわとした不可思議な生き物だった。

 生き物は音もなく栴の足元に転がると、柔らかな体からこぼれ落ちるように、一つの小さな塊を差し出す。

 栴は膝を折り、その落とし物を拾い上げた。
 指先に触れたのは石ではなく、古びたプラスチックの質感。それは学生服の袖口に付いているような、ありふれた小さな(ぼたん)だった。

 顔を上げると、白い生き物の姿はなかった。
 ただ細い水の囁きが、歌うような音階で暗闇に響いているだけだ。
 栴はその釦を掌の中で転がす。それは彼のものではない。
 ならば映し出されるのは、この場所の主が最も忌み嫌い、それでいて捨てられなかった「(おり)」に違いない。

 彼は迷うことなく、その小さな欠片を水たまりへと投じた。


 パシャリ。


 水面が再び波立ち、セピア色の光が黑を塗り替えていく。

 そこに現れたのは、現代の学舎(まなびや)を思わせる校舎の裏側であった。
 現世でいう中学生くらいの、細い体躯の少年が一人。
 少年の顔は、痛々しく腫れ上がっていた。
 口角には乾いた血の跡が滲み、頬には泥がこびりついている。
 しかし、彼は笑っていた。
 
 まるで痛覚をどこかへ置き忘れてきたかのような、無垢で空虚な笑み。
 自分のものではない複数の鞄を両肩に担ぎ、誰かに使われる喜びを噛み締めるように小走りで駆けていく。

 無音の映画のように、少年の献身と、その裏側に張り付いた歪な絶望だけが淡々と再生される。その忌憶は彼を苛んだ者たちの悪意よりも、彼が浮かべているその「笑顔」の方がよほど毒々しく、救いがなかった。

(……これが、あの一〇九号鑛石が抱え込んだ「忌」の根源か)

 少年が不意に首を巡らせた。

 見る者の胃の腑を掻き回すような、ひどく不快な笑み。
 気がつけば背景を埋めていた生徒たちの姿は、いつの間にかカカシの群れや泥人形へと変貌を遂げている。
 少年は音もなく滑るように近づき、栴と鼻の先が触れ合いそうな距離で静止した。

「……ねぇ、どう? かわゐそう? ボクのこと、カワイソウダヨネ」

 湿り気を帯びた、熱を欠いた声。同意を求め、憐憫を食らおうとする少年の瞳が、栴を執拗に覗き込む。
 しかし、栴は微塵も表情を変えない。
 睫毛(まつげ)すら揺らさず、ただの儉体(けんたい)を観察するかのように少年を見据えたまま、静かに口を開いた。

「俺にはわからない」

 その声は黑よりも深く、冬の井戸の底のように冷たかった。

「瑞なら君を喜ばせるような、あるいは絶望させるような最適な言葉をかけてくれただろうが。
 ……あいにくと、俺には君の痛みを推し量る機能がない」

 少年の笑みが、硬直した。
 期待していた同情でも、拒絶でもない。
 ただ「わからない」という、絶対的な観測者の言葉。

 その一言に少年は弾かれたように後ずさる。
 喉の奥から、言葉になる前の悲鳴が漏れた。
 
 次の瞬間、彼は振り返り、かつての同級生であった泥人形へと掴みかかる。
 拳が振り下ろされ、頭部が砕け形を失った像が床に崩れ落ちる。壊しても、壊しても、音は応えない。

「あ、痾ア、ア゛ア亞あ゛あ――ッ!!!!!」

 意味をなさない声を吐き散らしながら、少年は十指を自らの頭頂へ突き立てた。
 まるで、理解されなかった“その場所”を、内側から引き裂こうとするかのように。

「……かわゐそう、かわゐそうに、ボク、カワイソウ」

 呪文のように呟きながら、彼は自身の髪を、頭皮ごと力任せに引き抜いた。
 ブチブチと繊維が千切れる生々しい音が、無音の黑に響く。
 引き剥がされた地肌からは血の一滴も流れず、ただ粘着質な黑い泥が糸を引き、腐敗した古紙のような異臭が立ち昇った。

 少年の指は止まらない。

 栴は、それを「発露」ではなく、「過程」として記録した。

 自愛に満ちていたはずのその爪は、今や自身の顔面を深く抉る凶器へと変わっていた。
 右の頬を、鼻梁を、そして薄い唇を。
 掻きむしり剥ぎ取るたびに、陶器が割れるような乾いた音と、生肉を捏ねるような不快な音が混ざり合う。
 剥落していく皮膚の下には、筋肉も骨もなく、ただ底なしの虚無――暗闇に堕ち窪んだ深淵だけが詰まっていた。

「飽……あ亞アア、アガガッ!!」

 少年は、原型を失っていく自身の顔に指を突っ込み、内側から自身を裏返すようにしてかき回す。
 剥がれ落ちた皮膚の残骸が、泥人形の足元にバラバラと降り積もる。それはまるで、脱ぎ捨てられた古着のように無残で、生命の尊厳など微塵も感じさせない「ゴミ」の山だった。

 やがて、その凄惨な自壊の果てに。
 ずるりと全てが剥げ落ちた顔面には、ただ二つの深い洞穴のような眼窩だけが残る。
 そこから、剥き出しの巨大な眼球が――血管が毒々しく浮き出た硝子玉のような瞳がギョロリと栴を捉える。

 それは、憐れみを乞う子供の目ではない。
 自分が受けてきた「不当な痛み」を、そのまま世界に塗り拡げようとする、肥大化した自己愛の成れの果て。

 栴はその異形の変貌を吐き気すら覚えるような至近距離で見つめながら、ただ静かに、次の工程を選択するように左手の指を腰の刀の柄へとかけた。