――否。
それは「待っている」というより、重さだけがそこに留まっているようだった。
踊り場の床板が、ぎしりと低く鳴る。
誰かが踏み込んだわけではない。
沈み込むように、空間そのものが軋んだ。
「……聞こえるよぉ」
囁くような声。
「合ってない音がね、たっくさん増えてる」
「待て、瑞」
栴は低く制した。
白手袋の内側で、指が一度だけ強く柄を握る。
「個体識別が先だ。
動力源が石か、残滓か、それとも――」
言葉は、最後まで続かなかった。
階段脇の理科準備室。
閉ざされていたはずの扉が、内側から叩かれた。
ドン、と鈍い音。
続いて、硝子が軋む。
次の瞬間。
扉の小窓いっぱいに、白い掌が張り付いた。
「……人体模型だ」
栴は即座に断じる。
皮膚を模した樹脂は黄ばみ、関節は本来あるべき角度を忘れて歪んでいる。
だが。
その胸腔の奥で、何かが確かに擦れ合っていた。
カラ、カラ、と。
空洞に石を転がすような、不快な音。
「――うるさいっ」
瑞が弦を引く。
「待てと言っ――」
制止は、間に合わない。
放たれた音は、旋律ですらなかった。
空気を叩き潰す、純粋な衝撃。
人体模型の胸部が、内側から弾け飛ぶ。
白い破片が宙を舞い、床に散らばる。
そこから零れ落ちたのは、血でも、内臓でもなかった。
研ぎ損なわれた靈石の欠片。
鈍く濁った光を宿し、まるで自分の居場所を探すように微かに震えていた。
「……やっぱりだ」
瑞は口角を上げる。
だが、その笑みにはいつもの軽さがない。
「置物が、石を持ってるよぉ。しかも、ずーいぶん、雑に」
「感想は後だ」
栴は前に出る。
砕けた模型の陰から、別の影が動いた。
石膏像。
教卓。
転倒したはずの机が、きしむ音を立てて起き上がる。
内部で、同じ音がしていた。
重さが、位置を主張する音。
「……反応が連鎖している」
栴は低く呟き、腰の鞘から抜刀する。
同時に、刀身へ研摩剤を振りかけた。
青白い燐光が走る。
「瑞、深追いはするな。これは“本体”じゃない」
「うん。でもさ――」
瑞は弦を構え直し、楽しげに息を吸う。
「この不協和音、放っておく趣味もないんだよねぇ」
次の瞬間。空間が、悲鳴を上げた。
瑞の弦が震え、放たれた音が廊下を横断する。
衝撃は壁に触れる前に屈折し、石膏像の首を正確に撃ち抜いた。
首が落ちる。
だが――倒れない。
像の胴体は、失った重心を探すように二歩、前へ出た。
内部で、あの音が鳴る。
カラ、カラ。
「……首は飾りか」
「見た目だけ借りてる感じだねぇ」
瑞は弦を引き直す。
遊びのない、実務の構え。
「中心に石がある。位置は、たぶん――」
言葉の途中で、床が沈んだ。
教卓が跳ね上がる。
裏返り、脚を獣の肢のように折り曲げ、そのまま栴へ向かって滑走してきた。
「――っ!」
栴は一歩だけ踏み込む。
研摩剤を帯びた刃が、横薙ぎに閃いた。
木材が、音もなく削ぎ落とされる。
断面は滑らかで、まるで最初からそういう形だったかのように整っていた。
だが次の瞬間。
切り落とされた机の破片が、床で小さく跳ねる。
その内部から、鈍い光を宿した石が転がり出た。
「……粗製だな」
栴は低く吐き捨てる。
「欠片同士を無理に押し込んでる。
これじゃ、魂の形を保てるはずもない」
「量産品、って感じ?」
「違う。――投棄品だ」
「……捨て場、ってこと?」
「処分できない石を、一時的に押し込める場所だ。人が来なくなった校舎は、都合がいい」
瑞の表情が、わずかに硬くなる。
「……本命は、別にいる」
その瞬間。
廊下の奥、かつて音楽室だった方向から鍵盤を叩き潰すような轟音が響いた。
ピアノが、動いた。
黒い筐体が、床を引き裂きながら這い出てくる。
蓋は開き鍵盤が歯列のように噛み合い、内部で無数の石が擦れ合っていた。
和音にもならない、ただの衝突音。
「……最悪だね」
瑞が小さく笑う。だがその声には、楽しげな響きはない。
「音楽室に、これ。悪趣味にもほどがあるよ」
「瑞」
栴は刀を構えたまま、視線を逸らさずに言った。
「やるぞ。ここで足止めする」
「了解」
瑞は深く息を吸う。
奏鳴弓が、微かに共鳴した。
「――静かに、眠ってもらおうか」
音が放たれる。
今度は衝撃ではない。廊下全体を包む、歪んだ旋律。
鍵盤が一斉に跳ね上がり、ピアノの内部で石が悲鳴を上げる。
その隙を、栴が逃さない。
踏み込み。
最短距離。
刃が、筐体の中央を正確に断つ。
研摩剤が、霧のように舞う。
石は削られ形を失い、ただの重さへと還っていく。
床に落ちる音は、もう鳴らなかった。
一拍。
二拍。
廊下に残ったのは削ぎ落とされた残骸と、鼻を刺す甘い香りだけ。
「……静かになったね」
瑞が弦を下ろす。
「いや」
栴は、ゆっくりと首を振った。
「これは――」
言いかけた瞬間、香りが濃くなった。
階段の上。
先ほどよりも、確かに。
甘さの奥に、“意図”のある匂いが混じっている。
栴が無意識に一歩、後ろへ下がったその時だった。
廃校の奥底――闇が最も濃く溜まった場所から、質量を持った『黑』が、奔流となって溢れ出した。
それは波打ち、のたうち回りながら校舎内の僅かな光さえも貪り食うようにして押し寄せてくる。
「……ッ! 瑞、離れるな!」
栴が鋭く叫ぶ。
肌を焼くような氷点下の冷気。
その中心にあるのは、魂の比重を狂わせるほどに巨大な負の質量。
――一〇九号鑛石を食いちぎった、「鬼」の気配だ。
栴の鼓膜が、内側から叩き割られる。
同時に、逃げ場のないほどの殺意が容赦なく栴を襲った。
(……痛いイタイ遺体いたいヰたヰ。苦苦苦。苦るしゐ。どうして何故どおして、僕だけがドうシテ)
猛烈な憎しみと底なしの悲しみの風が、栴の意識を無理やり抉り開ける。
あまりの圧力に、空間が悲鳴を上げて軋んだ。
大理石の床が、理科室の硝子戸が、ピアノの鍵盤が、まるで巨大な獣の顎に噛み砕かれるように粉砕されていく。
「栴――っ!!」
瑞が伸ばした指先が空を切り、銀色の音叉が虚しく床に落ちた。
漆黑の冷気に煽られ、二人の身体は木の葉のように正反対の闇へと弾き飛ばされていく。
その刹那、栴は『視て』しまった。
奔流の奥に沈んでいった、親玉の断片的な記憶を。
錆びた鉄格子の味。
止まらない涙の熱さ。
誰からも見向きもされない暗い理科室の隅で、独り、石のように固まっていく心。
(たすけて――)
幼い悲鳴が脳髄を駆け抜け、栴の視界は完全な無へと塗り潰された。
※
どれほどの時間が経っただろうか。
気がつくと、栴は闇の中に一人横たわっていた。
上も下もなく、右も左もない。
光という光が完全に遮断された、絶対的な零の世界。
軍服を撫でる風もなく、瑞の声も、先ほどまでの石膏の砕ける音も何一つ聞こえない。
ただ、遠く、どこか知れない場所で、チョロ、チョロ……と、細い水が流れる音だけが絶えることなく響いている。
栴は自身の白手袋を見つめようとした。
だが指先一つ、形を認識することができない。
自身の肺が動いているのか、足の裏が地を捉えているのか――それすらも、黑という重力に奪われ理解を拒まれる。
「……瑞?」
不意に、相棒の名を呼んでみる。
だがその声すらも、漆黑の静寂が飲み込んでしまった。
冷徹な記録者である彼が、生まれて初めて「孤独」という名の重力に囚われた瞬間だった。

