檢疫局の重厚な鉄扉を押し開けた瞬間、栴の頬を撫でたのは、帝都の煤けた風ではなかった。
深い霧に閉ざされた森が、音もなく広がっている。真昼の光さえ届かぬはずの場所で、闇だけが沈黙を保ったまま、そこに在った。
扉の向こう側が、必ずしも現実の道に繋がっているとは限らない。
それはこの職務に就く者が最初に叩き込まれる、不条理であった。
正面の闇を割って、二条の鋭い光が差し込む。
漆黒の塗装が濡れたように輝くクラシックカーが、霧の中から現れた。
明治の遺物か、あるいは異界の模造品か。判別はつかない。
真鍮のランプが霧を黄金色に焼き切り、重厚なエンジン音が森の静寂を規則正しく刻んでいく。
車は二人の前で静止した。
運転席の扉が開き、降りてきたのは燕尾服を完璧に着こなした白馬だった。
被り物にしては生々しく、獣にしては気品が過ぎる。
――被り物ではない。
そう判断するまでに、栴は一秒も要さなかった。
白馬は長い首を優雅にしならせ、彫刻のように整った馬貌をこちらへ向ける。
怜悧な知性を宿した瞳が、二人を静かに射抜いた。
「本日もお足元の悪い中のご出勤、お疲れ様でございます」
白馬はうやうやしく一礼し、蹄を思わせる節くれだった指先でドアを開ける。
誘われるままに乗り込んだ車内は、外の霧深い森とは正反対だった。
過剰なまでの清潔感。塵一つない空間。
使い込まれた革の匂いと、かすかに漂う白檀の香。
ベルベットのソファは驚くほど柔らかく、座った瞬間に身体の重みが吸い込まれていく。
一度身を預ければ、離れ難い。泥濘のような心地よさだった。
瑞は楽しげに、その弾力へ身を沈めた。動くたび、革の擦れる上質な音が小さく響く。
「相変わらずいい車だねぇ」
窓の外へ視線を投げ、行楽へ向かう子供のように口角を上げる。
パチン、と。
白馬の運転手が、優雅な所作で蹄を鳴らした。
それを合図に、漆黒の鉄塊が滑り出す。窓の外の霧は一瞬で速度を上げ、流れる銀色の壁となって視界を覆い尽くした。
重厚な振動がソファ越しに伝わってくる。
巨大な獣の脈動にも似た震えが脊椎を這い上がり、脳髄を揺らす。
――現世との境界が、切り離されていく。
気づけば、栴の膝の上に一枚の書状が置かれていた。乾燥させた皮膚のような、独特のぬめりを持った紙質。
表紙には檢疫局の紋章。
拡大鏡と向かい合う二振りの刀を栴檀の蔓が静かに絡め取った意匠が、黒々とした封蝋で刻まれている。
白手袋の指先で封蝋を割り、栴は中の任務指示書へ視線を落とした。
「……執行対象、一〇九号鑛石。場所、旧帝立睦月学園」
墨で書かれた文字は、紙面の上で微かに蠢いている。余白には、血を混ぜた朱肉で押された局長の歪な印影。
この紙一枚が一人の少年を「害悪」と定義し、その消去を命じていた。
「ねえ、白馬さん。今日行く廃校の噂、何か知ってる?」
瑞の声は軽い。
「左様でございますねぇ、瑞様」
白馬は首を伸ばし、バックミラー越しに栴を見た。
「長らく『名前』を失った子供たちが、集まっております。
自分の影に怯え、やがて――その影さえ見失う」
一拍、間。
「そんな悲劇が、校舎の床下には堆く」
――ヒヒィン。
低い嘶きが、車内に短く響いた。
「失礼。少々、喉が鳴りました」
硬いサスペンションが揺れ、乗員の脊椎に“越境”を告げる。
「さぁ、到着でございます。
……お帰りの際、お客様の数が減っていないことを、切に願っておりますよ」
車は巨大な校門の前で静止した。
錆びた鉄扉の向こう。
月明かりさえ拒むような漆黒の校舎が、沈黙のまま待ち構えていた。
※
錆びた校門は、押し開ける必要すらなかった。
二人が近づいた途端、金属が自壊するような音を立て内側へと崩れ落ちる。
「歓迎、されてるみたいだねぇ」
瑞が軽く肩を竦める。
だが、その声音にいつもの戯れは含まれていない。
校舎の玄関扉は、半開きのまま停止していた。
内側から何度も叩かれた痕跡があり、硝子は蜘蛛の巣状に割れている。
栴は手袋越しに扉へ触れ、静かに押した。
――きぃ。
軋む音と共に、濃密な闇が溢れ出す。
霧よりも重く、光を拒む闇。
一歩、校舎へ足を踏み入れた瞬間。
外界の音が、唐突に断ち切られた。
風も、虫の声も、遠雷の気配さえない。
代わりに耳朶を打つのは、床下から伝わる微かな振動。
規則性のない、だが確実に“拍動”を持つ音。
「……生きてるね、ここ」
瑞が囁く。
廊下は真っ直ぐ伸びているはずだった。だが数歩進むごとに壁の距離が歪み、天井が低くなる。
掲示板に貼られたままの時間割表。褪色した紙の端から、黒い染みが滲み出している。
それはインクではない。
靈子だ。
栴は腰のケースから小瓶を取り出した。生成色の硝子に封じられた、微細な粉末。
「研摩剤を微量散布する」
瓶を傾けると粉は落下せず、空中でふわりと静止した。次の瞬間、見えない床に吸い込まれるように消えてしまった。
――空間の純度が、僅かに上がる。
廊下の歪みが、ほんの一瞬だけ矯正された。
「助かるよ、栴。
このまま進んでたら、奈落に落っこっちゃっていたかも!」
瑞は冗談めかして言いながらも、足取りは慎重だ。
二階へと続く階段の前で、栴は足を止めた。
踊り場の壁に、子供の背丈ほどの引っ掻き傷が無数に刻まれている。
爪によるものではない。
“削り取られた”痕だ。
「……自傷の痕跡。ここの壁で何度も削れている」
「じゃあ、一〇九号は――」
「ひたすらに自傷を繰り返していた」
言葉を継ぐ代わりに、栴は階段を見上げた。
上階から、甘い匂いが流れ落ちてくる。
花と線香を混ぜたような、不自然な香り。
瑞の表情が、わずかに引き締まる。
「ねえ、栴。
……これ、反魂香《はんごんこう》じゃなぁい?」
反魂香。
記録上では、死者の魂を一時的にこちら側へ引き寄せるとされている。
二人は無言で視線を交わした。栴は柄へ手をかけ、瑞は奏鳴弓を静かに構える。
階段の上。
闇の奥で、何かが息を潜めて待っていた。
深い霧に閉ざされた森が、音もなく広がっている。真昼の光さえ届かぬはずの場所で、闇だけが沈黙を保ったまま、そこに在った。
扉の向こう側が、必ずしも現実の道に繋がっているとは限らない。
それはこの職務に就く者が最初に叩き込まれる、不条理であった。
正面の闇を割って、二条の鋭い光が差し込む。
漆黒の塗装が濡れたように輝くクラシックカーが、霧の中から現れた。
明治の遺物か、あるいは異界の模造品か。判別はつかない。
真鍮のランプが霧を黄金色に焼き切り、重厚なエンジン音が森の静寂を規則正しく刻んでいく。
車は二人の前で静止した。
運転席の扉が開き、降りてきたのは燕尾服を完璧に着こなした白馬だった。
被り物にしては生々しく、獣にしては気品が過ぎる。
――被り物ではない。
そう判断するまでに、栴は一秒も要さなかった。
白馬は長い首を優雅にしならせ、彫刻のように整った馬貌をこちらへ向ける。
怜悧な知性を宿した瞳が、二人を静かに射抜いた。
「本日もお足元の悪い中のご出勤、お疲れ様でございます」
白馬はうやうやしく一礼し、蹄を思わせる節くれだった指先でドアを開ける。
誘われるままに乗り込んだ車内は、外の霧深い森とは正反対だった。
過剰なまでの清潔感。塵一つない空間。
使い込まれた革の匂いと、かすかに漂う白檀の香。
ベルベットのソファは驚くほど柔らかく、座った瞬間に身体の重みが吸い込まれていく。
一度身を預ければ、離れ難い。泥濘のような心地よさだった。
瑞は楽しげに、その弾力へ身を沈めた。動くたび、革の擦れる上質な音が小さく響く。
「相変わらずいい車だねぇ」
窓の外へ視線を投げ、行楽へ向かう子供のように口角を上げる。
パチン、と。
白馬の運転手が、優雅な所作で蹄を鳴らした。
それを合図に、漆黒の鉄塊が滑り出す。窓の外の霧は一瞬で速度を上げ、流れる銀色の壁となって視界を覆い尽くした。
重厚な振動がソファ越しに伝わってくる。
巨大な獣の脈動にも似た震えが脊椎を這い上がり、脳髄を揺らす。
――現世との境界が、切り離されていく。
気づけば、栴の膝の上に一枚の書状が置かれていた。乾燥させた皮膚のような、独特のぬめりを持った紙質。
表紙には檢疫局の紋章。
拡大鏡と向かい合う二振りの刀を栴檀の蔓が静かに絡め取った意匠が、黒々とした封蝋で刻まれている。
白手袋の指先で封蝋を割り、栴は中の任務指示書へ視線を落とした。
「……執行対象、一〇九号鑛石。場所、旧帝立睦月学園」
墨で書かれた文字は、紙面の上で微かに蠢いている。余白には、血を混ぜた朱肉で押された局長の歪な印影。
この紙一枚が一人の少年を「害悪」と定義し、その消去を命じていた。
「ねえ、白馬さん。今日行く廃校の噂、何か知ってる?」
瑞の声は軽い。
「左様でございますねぇ、瑞様」
白馬は首を伸ばし、バックミラー越しに栴を見た。
「長らく『名前』を失った子供たちが、集まっております。
自分の影に怯え、やがて――その影さえ見失う」
一拍、間。
「そんな悲劇が、校舎の床下には堆く」
――ヒヒィン。
低い嘶きが、車内に短く響いた。
「失礼。少々、喉が鳴りました」
硬いサスペンションが揺れ、乗員の脊椎に“越境”を告げる。
「さぁ、到着でございます。
……お帰りの際、お客様の数が減っていないことを、切に願っておりますよ」
車は巨大な校門の前で静止した。
錆びた鉄扉の向こう。
月明かりさえ拒むような漆黒の校舎が、沈黙のまま待ち構えていた。
※
錆びた校門は、押し開ける必要すらなかった。
二人が近づいた途端、金属が自壊するような音を立て内側へと崩れ落ちる。
「歓迎、されてるみたいだねぇ」
瑞が軽く肩を竦める。
だが、その声音にいつもの戯れは含まれていない。
校舎の玄関扉は、半開きのまま停止していた。
内側から何度も叩かれた痕跡があり、硝子は蜘蛛の巣状に割れている。
栴は手袋越しに扉へ触れ、静かに押した。
――きぃ。
軋む音と共に、濃密な闇が溢れ出す。
霧よりも重く、光を拒む闇。
一歩、校舎へ足を踏み入れた瞬間。
外界の音が、唐突に断ち切られた。
風も、虫の声も、遠雷の気配さえない。
代わりに耳朶を打つのは、床下から伝わる微かな振動。
規則性のない、だが確実に“拍動”を持つ音。
「……生きてるね、ここ」
瑞が囁く。
廊下は真っ直ぐ伸びているはずだった。だが数歩進むごとに壁の距離が歪み、天井が低くなる。
掲示板に貼られたままの時間割表。褪色した紙の端から、黒い染みが滲み出している。
それはインクではない。
靈子だ。
栴は腰のケースから小瓶を取り出した。生成色の硝子に封じられた、微細な粉末。
「研摩剤を微量散布する」
瓶を傾けると粉は落下せず、空中でふわりと静止した。次の瞬間、見えない床に吸い込まれるように消えてしまった。
――空間の純度が、僅かに上がる。
廊下の歪みが、ほんの一瞬だけ矯正された。
「助かるよ、栴。
このまま進んでたら、奈落に落っこっちゃっていたかも!」
瑞は冗談めかして言いながらも、足取りは慎重だ。
二階へと続く階段の前で、栴は足を止めた。
踊り場の壁に、子供の背丈ほどの引っ掻き傷が無数に刻まれている。
爪によるものではない。
“削り取られた”痕だ。
「……自傷の痕跡。ここの壁で何度も削れている」
「じゃあ、一〇九号は――」
「ひたすらに自傷を繰り返していた」
言葉を継ぐ代わりに、栴は階段を見上げた。
上階から、甘い匂いが流れ落ちてくる。
花と線香を混ぜたような、不自然な香り。
瑞の表情が、わずかに引き締まる。
「ねえ、栴。
……これ、反魂香《はんごんこう》じゃなぁい?」
反魂香。
記録上では、死者の魂を一時的にこちら側へ引き寄せるとされている。
二人は無言で視線を交わした。栴は柄へ手をかけ、瑞は奏鳴弓を静かに構える。
階段の上。
闇の奥で、何かが息を潜めて待っていた。

