後部座席は、息を吸うだけで誰かの体温に触れてしまうほど狭かった。
その狭さを引きずるように、クラシックカーは深い霧の中を走っている。
後部座席の左側には、巨躯を丸めて爆睡する柊。右側には、怪我が癒えぬまま力尽きて眠る瑞。そしてその二人に挟まれるようにして、栴がぎゅうぎゅうに押し込められていた。
正直なところ、逃げ場のない狭苦しさだ。
柊の放つ硝煙と汗の臭い、そして瑞の柔らかな髪から漂う消毒薬の匂い。左右からかかる二人の体温と、規則正しい寝息の振動。
「……少しは、遠慮というものを知れ」
栴は眉根を寄せ、窮屈そうに身を捩る。
だがその不満げな独り言とは裏腹に、栴の瞳にはどこか穏やかな色が宿っていた。
この生きている重みこそが、今の彼にとってはどんな宝石よりも確かな現実だったのだ。
運転席のバックミラー越しに、白馬が静かに目を細める。
「賑やかなことで何よりです、栴様。お疲れのところを申し訳ありませんが、一つ伺っても?」
「……何だ」
「貴方はこれまでに、『殉』を辞めたいと思ったことはありませんか?」
白馬の問いは、夜明け前の静寂に溶け込むほど穏やかだった。
栴は答えず、膝の上に置いた小さな桐の箱を手袋を外したままの右手でそっと撫でた。
箱の中には、先ほどボイラー室で拾い上げた「藍色の鑛石」が収められている。 栴は、かすかに首を振った。
「……歪な魂がある限り、俺はこの仕事を辞めない。ただ、それだけだ」
その言葉は短かったが、研ぎ澄まされた刃のように強固な響きを持っていた。
栴は、箱の中の藍色の石を見つめる。
この石の元となった少年、一〇九号。
ただ一瞬の温もりだけを、最後まで抱えていた。
「あの少年は……」
栴がぽつりぽつりと、語り始める。
ボイラー室の底で視た、ひだまりのような手のひらの記憶。 孤独を埋めるために、他者の貌を奪い、自分を偽り続けた哀れな石ころの真実。
「彼は、瑞の足を奪ってまで『忘れられない存在』になろうとした。……それは俺たちと同じ、ただの『持たざる者』の足掻きだったのかもしれない」
車窓の外、夜の黒が少しずつ白み始め世界に輪郭が戻ってくる。
瑞が寝ぼけて、栴の肩にこてんと頭を預けてきた。
栴はそれを払いのけることもせず、ただ静かに、夜明けの光に透ける藍色の宝石を愛おしそうに、けれど厳格な研ぎ師の目で凝視し続けていた。
「『持たざる者』ですか。確かに我々は歪でかき集めの存在。
……ですから。何も持たない者の方が、触れてしまうこともあるのです」」
白馬の静かな声が、微かなロードノイズの中に溶け込んでいった。
栴はその言葉に答えず、桐箱に眠る藍色の輪郭を指先で静かになぞった。
誰かに頭を撫でられた、ただそれだけの記憶を唯一の宝物にしていた少年。彼は何も持っていなかったわけではない。
ただ、その「たった一つ」が、この広い世界ではあまりに脆く、守り通すにはあまりに重すぎただけなのだ。
「……あいつは、ただの名前のない石ころだった」
栴がぽつりと、夜明け前の空へ放り投げるように呟く。
エンジンの回転音が、一瞬だけ低く唸った。
右隣で寝息を立てている瑞が、無意識に栴の腕をぎゅっと掴んできた。 左隣では柊が、轟音のようないびきを一瞬だけ止めて「……瑞の野郎……」と、寝言で毒づいている。
狭い。あまりにも狭く、そして、ひどく暖かい。
「あいつは瑞の皮を被って、瑞の声を真似て、誰かに見つけてほしがっていた。
偽物の貌でなければ愛されないと、そう信じ込んでいたんだ」
栴の声は、夜が明けるにつれて少しずつ透明度を増していく。
「俺が最後にあいつを斬ったのは、救いなどではない。ただ、偽りの貌を研ぎ落とし、あいつを元の『名もなき石ころ』に戻してやっただけだ」
白馬はバックミラー越しに、満足げな笑みを浮かべた。
「それで十分です、栴様。名もなき石に、藍色の輝きを与えた。……それは持たざる者にしかできない、最上の弔いでしょう」
車窓の外。
地平線の彼方から、薄紫色の夜明けがゆっくりと世界を塗り替え始めていた。 ふいに、肩に預けられた重みが動いた。
瑞が、まつ毛を震わせながら、ゆっくりと瞼を持ち上げる。
寝ぼけ眼の彼と、栴の視線が朝焼けの光の中で真っ向からぶつかった。
「……あ、せん。……おはよう。僕、生きてる?」
寝起きの掠れた声。
栴は自分を掴んでいる瑞の細い指先を、少しだけ乱暴に、けれど温かな体温を確かめるようにして握り直した。
右手の刻印に残る灼熱の余韻を感じていた。けれど、窓の外から差し込む朝焼けの光は、そんな痛みさえも祝福しているかのように柔らかい。
「……ああ。生きてるから、安心していい」
「あは、そっかぁ……。よかった、よかったよぉー!」
瑞が大きな声をあげ栴に抱きつくと、その勢いで左隣の柊が「うおっ!?」と声を上げて跳ね起きた。
狭い後部座席で男三人の肩がぶつかり合い、騒がしい熱気が一気に膨れ上がる。
「おい瑞、てめぇ! 騒ぐんじゃねぇよ!」
「柊こそ、大きい声出さないでよねぇ! 白馬さん困ってんじゃん!」
二人の騒々しいやり取りを聞きながら、栴はふっと視線を鑛石へ落とした。
藍色の鑛石は朝日に透け、宝石のような輝きを放っている。
それは、あの一〇九号という少年が遺した、たった一つの「綺麗なもの」。
栴は、心の中でその石に向かって、密やかに、けれど強く誓った。
(お前のことは、俺が覚えている。……誰にも呼ばれなかったその名、この藍の色を俺は一生忘れない)
それは、歪な「殉」として生きる彼なりの、最大限の敬意だった。
白馬がクラシックカーの速度を緩め、緩やかなカーブを曲がる。
視界が開け、地平線の向こうから燃えるような太陽がその全貌を現した。
夜は、明けたのだ。
瑞が窓の外の光を眩しそうに見つめ、それからもう一度、隣に座る栴の顔を覗き込んできた。
栴は騒がしい隣人たちの顔を交互に見つめ、微かに目を細めると静かに口を開いた。
「おはよう」


