剥き出しになった両手。
そこには、原種の少女から託された不可視の文字が刻まれている。
淡い光を放つその刻印は、脈動するたび栴の神経を焼き切るような激痛を走らせていた。
だが――青白く浮かび上がる手の甲を見つめる瞳に、もはや迷いはない。
栴は、改めて刀の柄を握りしめる。
素手に伝わる柄巻の感触は、驚くほど生々しく鋭敏だった。
無言のまま、鬼を正面から見据える。
そして再び、姿勢を低くした。
地を這うような、極限の踏み込みの構え。
それを見て、鬼は顔を歪める。
咄嗟に、奪った瑞の「左足」を引き寄せ、自らの鑛石が埋まる心臓の位置へ滑り込ませた。
卑劣な肉の盾。
――斬れば、瑞の足は戻ってこない。
言葉なき脅迫が、突きつけられる。
『……ア゛、アァ鐚ァァ啊ァッ!!』
鬼が、不協和音のような咆哮を放った。
物理的な圧を伴う叫びが蒸気を震わせ、栴の鼓膜を叩き潰す。
「……っ」
音圧に体勢が揺らぎ、視界に火花が散る。
それでも栴は、目を逸らさなかった。
蒸気と咆哮に歪む視界の奥――漆黒が渦を巻く鬼の顔面、その“空洞”だけを、鋭く射抜く。
その視界の端で、白い閃きが走った。
ヒュッ、と。
空気を裂く音だけを残し、原石が鬼の顔面へと滑り込んでいく。
一拍。
内側から、弾ける。
無機質な鉄錆の世界に、白緑の花々が噴き上がった。まるで内臓を裏返すように、漆黒の虚無を押し破って――樒の花。
死者に手向け、腐臭を覆い隠すために供えられるあまりにも鋭い芳香。
その香りが広がるたび、鬼の纏う「汚れ」が、音もなく剥がれ落ちていく。
狂気に満ちていたボイラー室が、一時的な静寂に上書きされた。
鬼の動きが、痙攣するように止まった。
時間はすでに意味を失っている。
轟音を上げるボイラーの咆哮さえ、この瞬間だけは遠い異世界の出来事のようだった。
漆黒の穴に咲いた樒の花が、断末魔の代わりに弔いの香を撒き散らす。
「やれェええ!! 栴ッ!!」
背後から、喉を裂くような柊の叫び。
その声を引き金に、栴の意識が極限の向こう側へと加速する。
爆発的な勢いで、刀の柄を握り直した。
剥き出しの掌に伝わる、使い込まれた柄巻の硬い感触。
手袋を失った右手は、自身の靈力と、瑞の靈力とが狂おしいほどに呼応していた。
刻印が魂の深淵から湧き上がる熱を吸い込み、真っ白な燐光を放って発火する。
皮膚を焼き、骨を軋ませる激痛。
その痛みは、拡散しない。
すべてが一本の線へと集約していく。
右手の刻印が、かつてないほど清澄な輝きを放ち始めた。
それは暴力の光ではない。
穢れを拒み、あるべき姿へ還すための、透き通った純白。
手の甲から溢れた光は脈動となって腕を伝い、刀の柄へ流れ込む。
やがて白銀の刀身そのものを、淡く神聖な色へ染め上げた。
その光に触れた瞬間。
鉄錆の臭いも、死の気配も、音もなく霧散していく。
栴の刀は、迷える魂を貫くための「光の楔」へと昇華した。
高圧の蒸気さえ宝石の飛沫へ変え、地下室は夜明け前のような厳かな静寂に包まれる。
――もはや。
目の前の「肉の盾」は、栴の視界に存在していない。
視界の焦点が、瑞の足を通り越し、その奥――漆黒の中心一点へと静かに固定されていた。
その皮膚の弾力も、流れる血の熱も、今の栴にとっては透明な「情報」に過ぎなかった。
栴が視ているのは、そのさらに奥。
泥の迷路の先で誰にも呼ばれず、誰にも見つけられなかった少年の「孤独の芯」。
瑞の皮を剥ぎ取り、樒の花を掻き分けた奥。
ひび割れた、小さな石ころのような魂。
「……一〇九号鑛石」
静かな声で告げる。
「お前の名前を、その芯に刻んでやる」
一歩。
鉄錆の床を、静かに、しかし決然と蹴る。
零・貮秒。
境界線を超え、淡く神聖な光を放つ刃が疾走する。
瑞の足という「盾」を傷つけることなく、針の穴を通すような精密さでその隙間を貫いた。
白の一閃が、少年の欠落した胸の奥――「孤独の芯」へと突き刺さる。
刻印を通じて、栴が視たのは。
魂の最奥に仕舞われた、たった一幕の光景。
――いつかの春。
風に舞う花びら。
柔らかな陽光。
名も知らぬ誰かが、泣いている自分の頭を壊れ物を扱うような手付きで優しく撫でてくれた。
ただそれだけの、けれど彼にとっては宇宙の全てよりも重い温かな手のひらの感触。
それが一〇九号鑛石という怪異が、この醜悪な世界で唯一「綺麗だ」と認めた光の全てだった。
栴はその温もりを、自分の右手のひらで受け止めたような錯覚に陥る。
――瞬き、ひとつ。
視界を埋め尽くしていた白光が、音もなく霧散する。気がつけば、そこは元の、薄暗い地下ボイラー室だった。
肺を焼くような熱気も喉を震わせる咆哮も、既にどこにもない。
ひび割れた配管から漏れ出す蒸気が、虚しくシュー、と鳴り続けているだけだ。
栴の足元には藍色の鑛石が、何も言わずただ静かに転がっている。
鬼を形成していた泥も、奪い取られた瑞の左足も、幻のように消え失せていた。
残されたのは、魂の燃え滓のような一粒の宝石。
栴は剥き出しになった右手を、ゆっくりと下ろした。
手の甲の刻印は既にその光を失い、ただ痛ましい火傷のような痕を皮膚に残していた。


