浄研檢疫局 ――靈魂ノ鑛石と奏鳴弓


 地下の奥で、何かが割れるような音がした。
 
 それは爆発でも、銃声でもない。
 硬質で澄み切った――刃物を研ぐような音。

(……いい音)

 崩れた壁に背を預け、瑞はマントを噛ませて左脚の付け根を締め上げる。
 血の気はとっくに引き、感覚も曖昧だ。それでも指は止めない。止めた瞬間、終わると分かっている。

 肺に入る空気は冷たく、錆びた鉄の味がした。
 視界の縁が暗く滲む。意識が、薄氷のように剥がれていく。

 ――それでも。

 あの音が聞こえる。
 なら、栴はまだ迷っていない。

 (少しだけ……いつもより、怒ってるみたいだけど)

 瑞は床に指先を這わせた。
 武器はない。奏鳴弓(そうめいきゅう)も、弦も尽きている。

 だが床を伝う微かな震動が、ボイラー室の奥で戦う相棒の位置と呼吸を正確に教えてくれた。

 瑞は、かすかに口角を上げる。
 唇は死人のように白い。それでも、その瞳に宿る信頼だけ、が暗い地下で唯一の光だった。


 ※


 ボイラー室は、もはや設備ではなかった。
 蒸気と熱に満たされた、巨大な炉――生きたまま焼き尽くすための地獄そのものだ。

 唸りを上げる蒸気を裂き、白銀の一閃が走る。

 栴の刃が、猿のように跳ね回る鬼の泥の肩口を掠めた。
 だが、肉を断つ手応えはない。

 その代わりに、直後――微かで、しかし決定的な音が響いた。

 崩落。

 刃が触れた箇所から漆黒の泥が熱を失い、淡い無機質な砂へと変わっていく。
 それは熱風に煽られ、舞い上がり、火床へと吸い込まれて消えた。

『――ッ!?』

 鬼が、瑞の(かお)を歪ませる。
 自分を形作っていた「執着」が、たった一太刀で否定された。その事実が、虚無の奥に一瞬の怯えを走らせる。

 だが、次の瞬間。
 その恐怖は、むき出しの衝動へと反転する。

 ギギギッ、と軋む音を立て、泥の体躯から五本の爪が伸びた。
 鎌のように湾曲したそれは、研ぎ澄まされた執念そのもの。

 鬼は、瑞から奪った左足で床を蹴る。
 重力を無視した跳躍。一直線に、栴の喉元へと迫った。

「……無駄だ」

 栴は退かない。
 腰を落とし、刀を斜めに構える。

 キィィン、と火花が散った。
 鋼と泥の爪が噛み合い、衝撃が腕を打つ。

 だが、栴は押し返さない。
 刀身をわずかに傾け、研ぎ師の手つきで力の流れだけを逸らす。凶悪な衝撃は、そのまま背後の配管へと逃がされた。

 蒸気が、爆ぜる。

 噴き上がる白の中へ、栴は迷いなく踏み込んだ。

 一歩。
 鉄錆びた床が低く鳴る。

 刃が、白銀の雷光となって振り下ろされる。
 核を断つための、ためらいのない一撃――。

 だが。

 鬼は、信じ難い挙動を見せた。

 瑞から奪った、あの生々しい左足を。
 盾のように、自らの核の前へと突き出したのだ。

「……っ!!」

 返り血を浴びながら自分を庇った瑞の姿が、閃光のように脳裏を貫いた。
 次の瞬間、栴の手首が弾けた。

 必殺の軌道を描いていた刃が、ほんの一瞬、芯を外す。
 止めようとしたわけではない。
 だが返す前に、鋼はすでに空を噛んでいた。

 金属が軋む、悲鳴のような音。
 全力で踏み込んだ身体だけが行き場を失い、斬撃は横へと流れ、その反動が腕から肩へ、骨を叩いて体勢を崩す。

 剣では立て直せないと悟るより早く、身体が前へ出た。
 思考ではない。
 崩れを誤魔化すための、無意識の選択。

 床を踏み抜く衝撃とともに、右足が鬼の胸元を撃ち抜く。
 蹴りではない。
 流れ込んだ体重ごと叩きつける、近接戦の一打だった。

 骨のない体躯が歪み、泥が波打つ。
 鬼の身体は配管へと弾き飛ばされ、蒸気が爆ぜ、視界が白に呑まれる。

 熱と湿気と、鉄の臭い。

 栴はその中へ身を投じていた。
 斬り終えてなお、刃は唸り続け、腕には制御しきれない反動が残っている。

 呼吸が、半拍遅れた。
 そこで初めて理解する。

 ――遅れたのだ。

 判断ミスではない。
 恐怖でも、躊躇でもない。

 斬るべきではないものを斬れなかったのではなく、斬らなかった。

 ただ、それだけだった。


 白煙の向こう側で、鬼が体を震わせる。
 笑っているのだと、蒸気越しにも分かる。

 蝋のように崩れた体の中心。
 そこに穿たれた光を拒む漆黒の穴が、裂けた口のように歪んでいた。

『あは……あはははは!
 優しいねぇ、栴。やっぱり君は、これを斬れないんだ』

 声は、瑞だけのものではなかった。
 切り捨ててきた忌憶。
 凍りついた孤独。

 それらが混じり合い、直接脳髄を掻き回す。

『ねぇ、知ってる?
 瑞はね、ボイラー室の隅で冷たくなっていく自分の足を見ながら、何を考えていたと思う?』

 鬼は左足を撫で、泥の爪を柔らかな肉に立てる。

『「痛い」じゃない。「寂しい」でもない。
 ……彼はね、「これで栴は僕を一生忘れられなくなる」って』

 狂おしいほど幸せそうに、笑った。

「……黙れ。あいつは前に進めと言っただけだ」

『絆?
 そんなの呪いだよ』

 鬼が囁く。

『斬れば、瑞は欠けたまま。救えば、君が泥に沈む。
 さぁ――どうする?
 栴。君のその綺麗な右手で、僕の中の瑞を、もう一度殺してくれるのかい?』

 栴は、揺らがなかった。
 ただ、自分が今、何を基準に立っているのかを即答できなかった。

 肺の底の澱みを、すべて吐き出す。
 そして――愛刀を、鉄錆の床へ突き刺す。

 無言のまま。
 瑞から預かった右の白手袋と、自身の左の手袋を、躊躇いなく引き抜いた。
 それは武装解除ではない。
 研ぎ師が、道具を疑うときの所作だった。