地下ボイラー室の最奥。
唸りを上げる排気音。
重苦しい蒸気が視界を白く濁らせ、鉄錆と硝煙の臭いが肺に絡みつく。
その澱みの中心に、柊は倒れていた。
愛用の二丁拳銃は見せしめのように無惨に粉砕され、床に散らばっている。
その柊を庇うようにして一人の少年――いや、瑞が背を向けて立っていた。
カツ、カツ、と。
栴の硬い靴音が静まり返ったボイラー室に、規則正しく反響する。
瑞らしき存在が、ゆっくりと愉悦に肩を揺らして振り返った。
その顔は、間違いなく瑞だった。
悪戯っぽく細められた瞳も、柔らかそうな唇の端も。
だが――その微笑みは、毒を塗ったナイフのように歪んでいる。
『おや、ようやくお出ましだね』
偽の瑞は、うやうやしくマントの裾を摘み優雅な所作で一礼をした。
『この大男、案外に肝が小さいんだねぇ。
僕の姿を見た瞬間、必死な顔で駆け寄ってきてさ。
――「瑞、無事か!」なんて』
少年は喉を鳴らし、愉快そうに笑う。
『……あは。
背中を向けた瞬間の、あの絶望した顔。思いっきり笑っちゃったよ』
瑞の声で、瑞の口調で。
少年は吐き捨てるように嗤った。
その瞳には一切の罪悪感はない。
あるのは、他者の情愛を汚したことへの、無邪気で残酷な優越感だけが溢れていた。
少年は栴へと歩み寄る。
瑞の左足を喰らって得た、瑞と寸分違わぬしなやかな歩調。
栴の目前で足を止めると親愛を示すように顔を近づけ、熱っぽい吐息を漏らした。
『どう? 似てる? そっくりでしょ?』
囁くような声。
『あいつの足を食べたからね。身長も、骨格も、声帯の震えまで全部同じ。
僕が――君の相棒だよ』
少年は嘲るような笑みを浮かべ、栴の頬を両手で包み込んだ。
瑞の手袋と同じ白さ。
だが、そこに体温はない。血の通わない、ひどく冷たい指先。
触れられているのに、何も伝わらない。
皮膚越しに滲んでくるのは、他者の居場所を奪うことでしか形を保てない虚無だけだった。
『これで僕は君から愛される。……忘れられない一人になれる。そうでしょ、栴?』
少年の瞳が、期待に潤む。
自分を映す「鏡」として、栴に承認を求めて。
だが栴はその視線を真っ向から受け止めながら、微動だにしなかった。
凍りついた湖面のような、静かな瞳。
少年は、その沈黙を拒絶だと思わなかった。
それは生まれて初めて向けられた、「逃げられない視線」だったからだ。
長い沈黙ののち、栴はゆっくりと死の宣告に等しい言葉を紡いだ。
「……どこが、似ている?」
栴は、自分を拘束する片手を汚泥を払うように叩き落とした。
「形、声、歩き方。それらは確かに、瑞に似せてある」
一拍。
「だが――」
栴は、至近距離でその貌を見つめた。
「お前は瑞になりたいんじゃない。
瑞という形で、誰かに選ばれたかっただけだ。
お前が纏っているのは瑞の抜け殻ですらない、他人の形を借りなければ立ってもいられない――出来の悪い濁りだ」
片頬に触れる冷たい指先、そこから伝わるのは瑞の体温ではなかった。他者の居場所を奪うことでしか己を定義できない、渇いた虚無。
栴は残るその手を振り払うことすらせず、至近距離で「瑞の貌」を見つめ返した。
その瞳は、深淵の底まで透かし見る鑑定士のそれだった。
少年は一瞬、言葉を失った。
『……は?』
乾いた声が喉から零れる。
予想していた反応――怒り、苦痛、憎悪、そのどれもが返ってこなかったことに、少年の思考が置き去りにされる。
『なに、を……言って……』
笑おうとした唇が、ひくりと歪む。
目の前の男は殴られたはずなのに、殴られていない者の視線でこちらを見ていた。
『……っ、聞こえなかったのか? 僕は、君を……!』
声が、途中で細くなる。
断定の形を取ろうとした言葉が、最後まで辿り着けない。
『ねぇ、僕は……瑞、だろ……?』
問いかけに変質したその一言が空気に触れた瞬間、ひどく軽く聞こえた。
栴は答えない。
ただ刃物のように研ぎ澄まされた沈黙で、少年の存在そのものを測り続けている。
「……違う」
少年の喉が鳴った。
それは否定ではなく、恐怖が先に零れ落ちた音だった。
『違わない……違わないはずだ……僕は、ちゃんと……』
言葉を重ねるほどに、声が瑞のものから微妙にずれていく。
高さも抑揚も合っているのに、意味だけが抜け落ちていく。
『……君は、僕を見てるだろ?』
その一言には、もはや優越も嘲笑もなかった。
あったのは、自分が「見えている存在」であることを必死に確認しようとする、子供じみた懇願だけだった。
栴はゆっくりと息を吐く。それは溜息ではない。
不要な空気を外に出すための、作業前の呼吸だった。
「……確認は終わった」
低く、平坦な声。
そこには勝者の余裕も、裁く者の威厳もない。
あるのは石の質を確かめ終えた職人の、静かな確信だけだった。
少年の喉が、ひくりと鳴る。
『な、にを……』
栴は答えない。
代わりに視線だけを、少年の全身へと滑らせる。
瑞の声。
瑞の骨格。
瑞の皮膚。
そして――異物のように残された、左足。
「混ざりすぎだ」
ぽつりと零れた言葉は、評価だった。
「自分の核を持たないまま、他人の形だけを重ねた。
それじゃあ、共鳴もしない。定着もしない」
少年の瞳が、大きく揺れる。
『……だ、だから……君に、愛されれば……』
その言葉を、栴は最後まで聞かなかった。
「不要だ」
即答だった。
迷いも、含みも、遮るための感情もない。
「瑞は、お前を必要としていない。無論、俺もだ」
その一言で、少年の中にあった「縋る先」が完全に断たれた。
「……見てきたぞ。お前の『忌憶』を。
誰からも愛されず、膝を赤くして泥の中で小石を拾い集めていた日々を。
歪に切られた前髪。
二度と振り返らなかった親の背中。
死んでも、誰にもその名を呼ばれなかった――孤独に押し潰された、お前の生を」
栴の声は、唸りを上げるボイラーの轟音さえも切り裂くほどに澄んでいた。
『……っ!! やめろ!』
瑞の貌が、恐怖に引き攣った。
少年――一〇九号にとって、その過去は忘却の底に沈めて二度と触れられたくない最も醜く柔らかい急所。
それを無造作に暴き立てられた衝撃に少年は顔を真っ赤に染め、栴の頬に触れていた右手で思い切りその顔を殴り飛ばした。
鈍い衝撃音が室内に響く。
栴の顔が横を向くが、彼はその衝撃を柳のように受け流すと再びゆっくりと視線を少年に戻した。
口端から、遅れて一筋の血が落ちる。だが栴は、それを意識する素振りすら見せなかった。
殴られたという事実が、彼の内部で一切の意味を持たなかったかのように。
栴は、視線を逸らさない。
まるで――途中で中断された作業を、元の手順に戻すように。
「……だから、ここから先は」
視線が少年ではなく、その奥に潜む――存在の歪みそのものへと向けられる。
「執行対象一〇九号。鑛石」
その言葉が落ちた瞬間。
瑞の貌が、内側からひび割れた。
皮膚が震え、表情が意味を失い、笑みも怒りも、縋る色さえも――熱を帯びた蝋のように、ずるりと崩れ落ちていく。
瑞の皮を脱ぎ捨てて現れたのは、悍ましき執着の成れの果てだった。
体躯はどろりとした黑い泥の塊。顔があるべき場所には、光さえも吸い込むブラックホールのような漆黒の穴が穿たれている。
何も持たず、何者にもなれなかった少年の「欠落」が具現化したような虚無の貌。
その不規則に蠢く泥の塊から一本だけ、異質に突き出したものがあった。
――左足。
膝から下だけが、人間の瑞々しい皮膚と筋肉を湛えた、
生々しい「左足」。
瑞から食いちぎり、奪い取ったその部位だけが、
漆黒の怪物の体で唯一の「色彩」として、
歪に、執拗に、存在を主張していた。
ボイラー室に満ちる蒸気が、鬼の放つ冷気に触れ、白く凍りつく。
それでも栴は、眉ひとつ動かさない。
彼は、ゆっくりと――しかし一切の淀みなく、刀の柄を握った。
瑞から託された白手袋が、右手の刻印を熱く鋭く励起させる。
「……瑞の足は、返してもらう」
淡々とした声。
「それが、あいつがここでお前を待ち届けるための『音』になる」
栴は鏡の底で見てきた少年の孤独を、今この瞬間に断ち切るべき「忌」として明確に定義した。
ここから先は――魂を、あるべき形へ削り出す職人の仕事だ。
「これより、穢れを除去する」
一拍。
「――お前の『忌憶』、すべてをここで研ぎ落とす」
抜刀。
研磨剤の銀粉が舞い、瑞の奏鳴弓から譲り受けた残りの霊力が刀身を白銀に染め上げる。
漆黒の穴を顔に持った鬼が瑞の足を軸に地面を蹴り、弾丸のような速度で栴へと襲いかかった。


