聖域の清冽な空気は、一歩外へ踏み出した瞬間に腐った泥の臭いへと塗り潰された。
視界を塞ぐのは、粘りつくような漆黑の回廊。
そこへ、泥人形たちが群がってきた。
先ほど少年が「友達」の依代として無惨に破壊した残骸――千切れた四肢を這いずらせ、生者に縋り付く餓鬼の群れのように。
「っ……これじゃ、地下に辿り着く前に擦り潰されちゃうよぉ!」
「足を止めるな! 最短距離を抉じ開ける、俺から離れるな」
栴は利き手でない左手一本で刀を振るい、群がる影を紙一重で断ち切っていく。
瑞もまた、激しい息を吐きながら奏鳴弓を翻し、背後から迫る泥の触手を音の刃で薙ぎ払った。
だが、地下への階段を眼前にしたその時、壁の闇を突き破って「それ」は現れた。
巨大な蛇の胴体に、無数のカカシの腕が生えた異形――這鬼。
一〇九号がまき散らした悪意の残滓が、廃校のガラクタを芯にして膨れ上がった――殺戮のための自動機械だ。
「瑞、ここは俺が引き受ける。お前は――」
「バカ言わないで、栴! 柊の銃声が聞こえないの? あいつ、もう弾が切れかかってる音がするよぉ!
君は一刻も早くあの子に『名前』を届けなきゃダメ!」
瑞が無理やり栴の背中を地下への階段へと押し出した、その刹那だった。
校舎が、断末魔のような震動と共に大きく身をよじった。
――ズズズズンッ!!
不意を突かれ、瑞の足元が大きく揺らぐ。
そのわずかな隙を、這鬼の尾が逃すはずもなかった。
鎌のような鋭利な刃と化した尾が、真空を切り裂く速度で瑞の足元を薙ぐ。
「瑞ッ!!」
栴の叫びが、自分の喉を焼くのが先か。
瑞の左足が、膝下から鮮血の飛沫と共に宙を舞うのが先か。
重力を失った瑞の体が、無機質な床に叩きつけられた。
「……っ!!」
栴の視界が、怒りと悲しみで真っ赤に染まる。
理性を、職務を、すべてを焼き切るほどの激情。栴は原種の刻印が刻まれた素手の右手を、迷わず刀の柄へとかけた。
研ぎ澄まされた「殉」としての禁忌を破り己の身を焼いてでも鬼を屠ろうとした、その時。
――パァンッ!!
乾いた音が、廊下に響き渡る。
床に倒れ伏し激痛に顔を歪ませたままの瑞が、一点の曇りもない瞳で蛇鬼の眉間を射抜いていた。
奏鳴弓から放たれた至近距離の一射が、鬼の核を完璧に粉砕する。異形は断末魔すら上げられず、どろりと濁った水となって霧散していった。
「……はぁ、はぁっ……あは……。……栴。……今のは、僕の、勝ちだね……」
荒い呼吸の中で瑞が笑う。
栴はなりふり構わず駆け寄り、崩れるように瑞を抱きしめた。
腕の中に伝わる瑞の震えと、止まらない血の熱さ。
栴の指先は、自分でも制御できない程に震えていた。
「瑞! 瑞、しっかりしろ! 止血を、すぐに――」
「いいから……ね、聞いてよぉ。今のは……今の隙は、栴が進むために僕が作ったんだからねぇ。おねがいだから……無駄に、しないでよ……」
瑞は自身の右手の白手袋を、震える指先でゆっくりと引き抜く。
そして栴の右手を――原種の少女から授かった剥き出しの刻印が刻まれたその手を、自らの体温が残る布地で優しく包み込む。
「残りの靈力を渡すよ。これで、思いっきり……やってきて。……待ってるからさぁ、君がその子に、最高のプレゼントを渡すのを」
手袋越しに伝わる、瑞の拍動。
栴は唇を噛み締め、溢れそうになる嗚咽を必死に飲み込んだ。
相棒の足という、あまりにも重すぎる代償。
それを右手に宿る熱に変え、栴は瑞を抱き上げ崩れた壁の端に寄り掛からせた。
「……あぁ。必ず、戻るから。お前を置いて、どこにも行かないと殉の名の下に誓う」
「ふふ、……僕の相棒は、世界一男前だねぇ……」
立ち上がった栴の瞳には、もう迷いも揺らぎもなかった。
ただ研ぎ澄まされた刃のような決意だけを宿し、彼は一人、鉄錆と怨嗟が渦巻く地下の深淵へと弾丸のように飛び込んでいった。
※
瑞を暗闇に一人残し、栴は地下への螺旋階段を肺が焼けるような勢いで駆け下りた。
鉄錆の臭いと湿り気が、一歩ごとに肌にまとわりついてくる。
踊り場に降り立つと、その壁に不自然なほど澄んだ輝きを放つ姿見の鏡が掛けられているのが視界の端に入った。
鏡面は水面のように波打ち、あろうことかその内側には重力を無視して蠢く「銀色の水たまり」が浮かんでいたのだ。
栴は足を止め、しばらくその水たまりを眺めていたが、思い出したように革バッグから少年の「髪の毛」を取り出す。
そして、迷いなく鏡の膜へ右手を突き入れた。
瑞から託された手袋の感覚が、異界の冷気から辛うじて彼を繋ぎ止める。
水溜りへ髪の毛を落とした、その瞬間。
――バシャァッ!!
銀色の水面から無数の「水の手」が噴き出し、栴の腕、そして胸ぐらを掴んだ。
栴の体は抗う間もなく、鏡の向こう側――冷たく、息の詰まるような「忌憶」の深淵へと引きずり込まれていく。
※
鏡の底、銀色の水の重圧が栴の全身を押し潰そうとする。だが、肺に流れ込むのは冷たい水ではない。
――補給室で琥珀が灰重石のお茶を勧めてくれたのは見越していたのか、気まぐれかは分からない。
真意は不明だがその結果、異界の毒を濾過し栴に静かな呼吸を許していた。
その静寂の中で、少年の「忌憶」が走馬灯のように駆け巡る。
薄汚れた膝を抱え、頬を赤く腫らしたまま、一人で小石を拾い集める幼い背中。
不器用な手付きで、歪な形に切り揃えられた前髪。
名前を呼ぶこともなく、ただ遠ざかっていく親の冷たい後ろ姿。
学校という名の箱庭で誰からも視線を向けられず、声にならない絶叫を上げながら少年は錆びたカッターを自分の喉へと突き立てた。
だが、死にきれぬ恐怖に震え、膝をついて流した涙さえ背景に溶けて誰にも気づかれることはない。
「僕は、ここにいる。……誰か、僕を『僕』にして」
鏡の底、少年の最期の瞬間が映し出される。
地面が迫りくる中、少年が目にしたのは「自分が死んでも、世界は何も変わらず、誰一人として自分の不在に気づかない」という絶望的な確信だった。
その瞬間、少年は泣きながら自らの胸元で輝き始めた「鑛石」に喰らいついた。
――ガリ、と、魂の砕ける音が響く。
真っ当な輪廻の道を自ら断ち切りその欠けを、周囲に漂う「孤独という名の悪意」で埋めることで、彼は一〇九号という化け物へと成り果てたのだ。
そのあまりに救いのない終焉を、栴は氷のような無機質な瞳で見つめていた。
憐れみはない。だが、拒絶もなかった。
その瞳には少年が欲して止まなかった「確かな観測者」としての光が宿っている。
「……お前が俺に何を求めているのかは、分からない」
栴の唇から、泡が零れる。
「だが、お前を鬼としてではなく、欠けのない鑛石として輪廻の円環に戻すことはできる。――それが、俺の職務だ」
こつんと、水溜りの底に足が触れた。
栴は革バッグから、微細な銀粉の詰まった「研摩剤」の瓶を取り出す。それを、澱んだ水の中へと結界を描くように放り投げた。
「――調律は済んだ」
細く、長い息を吸い込む。
瑞の手袋を嵌めた右手が刀の柄を握りしめた瞬間、水中に舞った研摩剤の粉末が灰重石の輝きと共鳴して青白く発光した。
シィィィィン、と。
抜刀と同時に栴が大きく回転する。
銀光の一閃が水の螺旋を描き、自分を繋ぎ止めていた「水の手」も澱んだ記憶の淀みも、すべてを等しく切り裂いた。
鏡が割れるような音と共に、栴は現世へと弾き出された。
足元は、もはや鏡の踊り場ではない。
鉄錆と、熱い蒸気と、そして――偽りの瑞が嗤う、ボイラー室の最深部だった。


