『監獄カルテット』

 焔が退場した後の講堂には、焦げ臭い熱気が澱んでいた。だが、またも雰囲気が変わる。

 ――音が消えた。

 パイプ椅子の軋み、誰かの咳払い、換気扇の唸り。それら一切の生活雑音が、見えない手によって遮断されたかのような、完全な静寂。

「……八三三番です」

 未零《みれい》の声だけが、水底に落ちた石のように響いた。一番小柄な影。

 彼女は、他のメンバーのように禍々しい般若や、奇妙なひょっとこの面を被っていなかった。顔を覆っていたウサギの面を静かに外した。



 スクリーンが切り替わる。
 映し出されたのは、SNSのダイレクトメッセージのログをプリントアウトした、捜査資料の束だった。

   *

【検察側証拠:甲第六号証 被告人と被害者Aの通信記録(抜粋)】

インターネット掲示板『メンタルヘルス実況板』スレッド保存ログ

スレッド名:
【樹海】本気で救われたい奴、最後に語ろうぜ【お迎え】

402 :名無しさん@お腹いっぱい。:202X/05/12(日) 22:15:30.12 ID:uR8zXp9q0
 もう無理だわ。仕事辞めてから半年、誰とも喋ってない。
 コンビニの店員が「袋いりますか」って聞く声すら怖くなってきた。死にたいのに、痛いのは嫌だ。誰か、眠るみたいに消してくれ。

415 :名無しさん@お腹いっぱい。:202X/05/12(日) 22:30:45.55 ID:MiReI_833
 >>402
 今までよく頑張ったね。あなたは弱くないよ。
 この世界が、あなたには少しだけ騒がしすぎただけ。
 私が、あなたの心に『静寂』の毛布をかけてあげる。

421 :名無しさん@お腹いっぱい。:202X/05/12(日) 22:42:12.08 ID:uR8zXp9q0
 >>415
 あんた誰だよ……。宗教の勧誘?

438 :名無しさん@お腹いっぱい。:202X/05/12(日) 23:05:18.80 ID:MiReI_833
 >>421
 ただの、あなたの隣人だよ。
 明後日の朝、青木ヶ原の入り口にある看板の下で待ってる。温かいミルクと、可愛いぬいぐるみを持っていくね。
 あなたはただ、私に手を引かれて、深い森の中で目を閉じるだけでいい。

450 :名無しさん@お腹いっぱい。:202X/05/12(日) 23:20:00.22 ID:uR8zXp9q0
 本当に? 苦しくない?
 ……信じてもいいのか? 女神様。

455 :名無しさん@お腹いっぱい。:202X/05/12(日) 23:25:10.15 ID:MiReI_833
 うん。おやすみなさい、402。
 目が覚めたら、そこはもう、誰もあなたを傷つけない世界だから。

   *

 通信記録はそこで途絶え、その下には、樹海で発見されたAの遺体検案書が無機質に添えられていた。



『死因:ヘリウムガス吸引による酸素欠乏死。表情は安寧』

 未零がマイクの前に立つ。手錠の鎖が、微かな金属音を立てた。

「……みんな、疲れてただけなんです」

 彼女が歌い始めた。
 それは歌というよりは、ハミングに近い、優しい子守唄だった。伴奏はない。彼女の澄んだ声だけが、講堂の隅々まで染み渡っていく。

 歌詞は、生きることの辛さと、死ぬことの安らぎを説くものだった。

「朝が来るのが怖いでしょう? 電車の音がうるさいでしょう? 無理して笑わなくていいんだよ。私が『お休み』のスイッチを押してあげる」

 藍田の意識が、急速に混濁し始めた。

 連日の深夜勤務、未来のない単純作業、社会からの孤立。彼女の歌声は、藍田が心の奥底に押し込めていた諦めの感情を、優しく撫で回してくる。

 隣の席の中年男が、ガクンと首を垂れた。寝ているのではない。まるで電源が落ちたように、生気を失っている。講堂全体が、緩やかな集団自殺の現場と化していた。

 スクリーンに、新たな文書が投影される。
 それは、彼女を精神鑑定した医師の、困惑に満ちた所見だった。

   *

【鑑定留置記録:担当医所見】
「本被疑者には、通常の殺人犯に見られるようなサディズムや悪意は一切認められない。彼女は本心から、自らの行為を『究極の医療行為』であり『救済』であると信じ込んでいる。自己の正義に対する強固な妄想体系が存在し、矯正は極めて困難であると思われる」

   *

 未零が歌うのをやめた。
 静寂が戻る。だが、それは安らぎではなく、死の淵に立たされたような虚無感だった。

「でもね、刑務所の大人たちは、私の救済を『罪』だって言うの。だから私、決めました」

 未零が、藍田の方を真っ直ぐに見た。その透明な瞳が、藍田のすべてを見透かすように射抜く。

「これからは、本当に救ってほしい人だけに、コッソリ届けることにしたの。……ねえ、誰か。私くれたお薬と、可愛いぬいぐるみ。本当に感謝してるから。あれがあれば、私はもっと上手に、みんなを『あちら側』へ送ってあげられる」

 藍田の心臓が跳ねた。

 自分が買い与えたピルとぬいぐるみが、彼女の新たな道具に使われる。その事実に、戦慄と共に、奇妙な達成感がこみ上げてきた。自分はもう、ただのファンではない。

 家族だ。

「……買ってくれた人、待ってるね。アクリル板の向こうで」

 音の終わりと同時に、講堂の照明が落ち、完全な闇が訪れた。ライブは終わった。

「これより、特別接見を開始します。ご希望の方は、係官の指示に従い、第二面会室へ移動してください」

 アナウンスが響く。

 藍田は震える足で立ち上がった。