『監獄カルテット』

 莉央が影に退いた瞬間、講堂の空気がまた変質した。地下特有の湿った冷気が、突如として熱を帯びた気がした。

 藍田の額に、じわりと嫌な汗が滲んだ。

 乾いた足音が響き、番号二〇九番・(ほむら)がステージ中央に進み出る。

 彼女は他の三人よりも頭一つ分背が高い。モデルのようにすらりとした長身だが、その歩き方には奇妙なぎこちなさがあった。

 関節が錆びついているかのような、あるいは、皮膚が引きつれているかのような、不自然な硬直。

 彼女が被っている面は、般若でも能面でもなかった。
 それは、祭りで道化が被る『ひょっとこ』の面だった。だが、その滑稽な面は、半分が黒く焼け焦げ、炭化し、歪にひび割れていた。

 口をすぼめて火を吹くはずのひょっとこが、自らの火に焼かれたような無惨な姿。

 スクリーンが明滅し、新たな公的文書が映し出された。それは裁判資料ではなく、消防庁が作成した、あまりにも冷徹な『火災調査報告書』の抜粋だった。

   *

【東京消防庁・赤坂劇場火災特別調査報告書(抜粋)】

発生日時: 令和〇年〇月〇日 一八時四五分頃
火災種別: 建物火災(放火)
焼損床面積: 全焼(四五〇平方メートル)
死者数: 四十八名
出火原因:
劇場の全非常口六箇所が、外部よりチェーン及び南京錠にて施錠されていた形跡あり。客席中央部及び舞台袖に、ガソリンと推定される引火性液体が散布され、ライターにより着火されたものと断定。

   *

 ――四十八人。

 藍田は、その数字の重みに息を呑んだ。前の二人の罪が可愛く見えるほどの、圧倒的な死の量。

 焔が、マイクの前に立つ。
 彼女が面を外し、切れ長の瞳がギラリと客席を睨め回す。



「……暑いよね」

 第一声は、地の底から響くような、ハスキーで低い声だった。その声が発せられた瞬間、講堂の温度がさらに一度、上がった気がした。

「あの夜も、こんな熱気だった。満員の劇場。期待に満ちた熱い視線。でも、私には足りなかった。もっと熱く、もっと激しく、全員が一つになれるような『クライマックス』が必要だった」

 伴奏が始まる。

 それは音楽というよりは、何かが燃え盛る環境音――パチパチと爆ぜる木材、轟々と唸る気流の音を、ドラムとベースで再現したような音だ。

 焔が歌い始める。
 その歌唱力は、圧倒的だった。

 声量、音域、表現力。どれをとってもプロの歌手を凌駕している。だが、その旋律には、決定的に何かが欠落していた。

 それは『人間的な感情』だ。彼女の歌は、精密機械が奏でる旋律のように、ただただ正確で、無慈悲だった。

 スクリーンに、現場写真が投影される。
 遺体そのものではない。しかし、それが何であったかを想像させるに十分な、炭化した残骸。



【甲第五十二号証:劇場内遺体発見状況図】
※赤点が遺体発見位置を示す。非常口付近に多数の重なりが見られる。

「逃げ惑う足音。扉を叩く拳の音。そして、喉が焼ける瞬間の、あの突き抜けるような高音」

 焔の歌声が熱を帯び、クレッシェンドしていく。

 藍田の鼻腔に、奇妙な臭いが漂い始めた。地下のカビ臭さではない。鼻をつく揮発性のガソリンの臭いと、タンパク質が焦げるような、鼻の奥にこびりつく脂ぎった悪臭。

 幻嗅だ。

 藍田はそう自分に言い聞かせるが、隣の席の中年男も、ネクタイを緩めて荒い息を吐いている。
 講堂全体が、集団催眠にかかったように『あの日の劇場』へと変貌していく。

「最高のライブだった。四十八人のバックコーラス。全員が必死で、命を燃やして叫んでくれた。私はその中心で、指揮者みたいに炎を操って歌ったの。私の声と、みんなの悲鳴が混ざり合って、劇場全体が巨大な楽器になったみたいだった」

 焔の手が、制服の襟元にかかる。
 彼女はゆっくりと、上着のボタンを外した。

 鎖骨から首筋にかけて、赤黒いケロイド状の皮膚が露わになる。皮膚がひきつれ、熱で溶けた蝋のように固まっている。全身の四割を焼いたという、生々しい業火の記憶。

 だが、素顔だけは奇跡的なまでに無傷だった。

 炎が彼女の声帯と顔だけを避けたかのように、涼しげな切れ長の瞳と、整った鼻筋、薄い唇がそこにあった。首から下の醜い火傷の痕と、陶器のように滑らかな顔面のコントラストが、彼女の存在を決定的に異様なものにしていた。

「私だけが生き残った。神様が、この声を残したの。ねえ、もっと熱狂したいでしょう?」

 焔が、藍田の方を見て微笑んだ。その笑顔は、火傷のひきつれによって歪み、まるで泣いているようにも、嗤っているようにも見えた。

 藍田は、自分がパイプ椅子に縛り付けられているような錯覚に陥った。非常口は遠い。このまま彼女の歌声に焼かれて、炭になってしまうのではないかという恐怖と、背中合わせの甘美な放棄感。

 歌が終わっても、講堂の熱気は引かなかった。

 焔が、火傷のために強張った腕で、ぎこちなく一礼する。その姿は、壊れたからくり人形のように哀れで、そして美しかった。

 彼女が退場すると、ステージには再び四人の影が並んだ。

 残るは一人。

 藍田がなけなしの金でピルを買い与えた、最年少の少女。

 番号八三三番・未零(みれい)

『慈愛の死神』と呼ばれる天使が、ゆっくりと前に進み出る。

 熱気の後に訪れたのは、肌を刺すような、絶対零度の静寂だった。