講堂の空気が、一瞬で変質した。
番号七一五番・莉央が、数珠繋ぎの列から一歩、前へ出る。
能面を片手で、すっとズラした。

彼女は沙希のような冷徹な美貌ではない。どこか幼さの残る、クラスの隣の席に座っていそうな親しみやすさがある。
だが、その手首に食い込む鈍色の手錠と、腰から伸びる無機質な縄が、彼女をアイドルではなく、ただの死刑囚として定義していた。
改めて感じる。作り込まれた世界観。
芸能事務所はどこだろうか?
ここまでのこだわりに、舌を巻くしかない。
スクリーンに、セピア色に褪せた一枚のプリントが投影された。
小学校の卒業文集。
タイトルは『将来の夢』――。
「わたしのゆめは、バラバラになってしまったモノを一つにすることです。浮気して出て行ったお母さん、酒に溺れるお父さん、非行に走る弟。みんな、別々の方向を向いているから悲しいんだと思います。大人になったら、丈夫な糸で全部縫い合わせて、もう一度、手を繋がせてあげたいです。そうすれば、ずっと幸せなままだから」
無邪気な筆致で書かれたその言葉が、二十年後の凄惨な結末を予言していた。
藍田は、背筋に氷を流し込まれたような感覚に襲われる。それは夢などではない。幼い彼女が、家族に対して突きつけた『宣戦布告』だった。
「文集、懐かしいですね」
莉央の瞳は、驚くほど澄んでいた。その無垢さが、逆に生理的な恐怖を呼び起こす。
「学校の先生は『素敵な夢ね』って褒めてくれました。でも、誰も手伝ってくれなかった。だから、自分で糸と針を揃えたんです」
スクリーンに、次々と『甲号証』が投影される。
それは、彼女の『生い立ち』という名の解剖記録だった。
*
【甲第十一号証:被告人の幼少期に関する近隣住民の証言】
「莉央ちゃんはいつも静かな子でした。でも、道路で轢かれた野良猫を見つけると、どこからか持ってきた針と糸で、ちぎれた耳や尻尾を懸命に縫い付けてあげてて。……優しすぎるのかな。泣きながら、生き返れって何度も唱えてました」
【甲第十四号証:服飾専門学校時代の成績表及び制作課題】
「立体裁断において天才的な技能を発揮。ただし、モデルとなるマネキンの関節を破壊し、人間の可動域を超えた形状で固定しようとする傾向があり、教官から複数回の指導を受けている」
*
莉央が歌い出した。
メロディは、童謡のように無垢で、それゆえに毒々しい。
歌詞は、深夜の居間で、静かに針を運ぶ音だけをリズミカルに刻んでいる。
「プツリ、プツリ。赤い糸。お父さんとお母さんの手を結ばなきゃ。もう離れないように」
嗚咽を漏らす面会人もいた。
「弁護士さんは言いました。『私は壊れている。家庭内暴力の被害者だ』って。私を、狂人にして助けようとしてくれた。でも、検察官の方は、私の技術を正当に評価してくれたんです。『見事な縫合だ。プロの仕業だ』って。あの瞬間、初めて私は、私のままでいいんだって認められた気がしました」
彼女の手首が躍る。手錠がチャリ、と無機質な音を立て、架空の針を動かした。
スクリーンに、モザイクで塗りつぶされた、明らかに『人の形をしていない何か』の現場写真が投影される。
*
【甲第三十一号証:世田谷一家遺体接合部マクロ撮影】
検察官の論告:「被告人は、殺害した実父の胴体に、実母の右腕と実弟の左手を外科用メスと工業用ミシン糸を用いて強固に接合。切断面には一切の迷いがなく、遺体を『抱き合う家族』というオブジェに仕立て上げることに執着していた。これは情状の余地のない、猟奇的自己顕示欲の産物である」

莉央は、歌いながら藍田の方へと歩み寄る。
ステージの端、莉央と藍田を隔てるのは、何もない空間だ。だが、藍田には見える。そこにあるはずの『透明な壁』が。
「家族は一緒に仲良く居なくちゃ。ねえ、そこの面会人さん。あなたの独りぼっちの心も、私の糸で縫い合わせてあげましょうか? 痛いのは一瞬だけ。そのあとは、ずっと、監獄カルテットの一部でいられるの」
莉央の視線が、正確に藍田の心臓を射抜いた。
藍田は呼吸を忘れた。
警備員の仕事で、夜の暗闇に潜む悪意には慣れていたつもりだった。だが、彼女の瞳にあるのは悪意ではない。『純粋な親切心』だ。それが、何よりも恐ろしかった。
曲の終焉と共に、莉央は再び面を戻した。
女面が、照明の下で冷たく笑っている。
「……お待たせしました、二百九番。今度は、焔の火遊び、みんなに見せてあげて」
莉央が影に退くと、講堂の室温が物理的に上がったような気がした。
次は、焔。
四十八人を焼き殺した、火傷だらけの歌姫の出番だ。
藍田の脳裏には、莉央が言った『監獄カルテットの一部』という言葉が、呪いのように脳裏にこびりついて離れなかった。
番号七一五番・莉央が、数珠繋ぎの列から一歩、前へ出る。
能面を片手で、すっとズラした。

彼女は沙希のような冷徹な美貌ではない。どこか幼さの残る、クラスの隣の席に座っていそうな親しみやすさがある。
だが、その手首に食い込む鈍色の手錠と、腰から伸びる無機質な縄が、彼女をアイドルではなく、ただの死刑囚として定義していた。
改めて感じる。作り込まれた世界観。
芸能事務所はどこだろうか?
ここまでのこだわりに、舌を巻くしかない。
スクリーンに、セピア色に褪せた一枚のプリントが投影された。
小学校の卒業文集。
タイトルは『将来の夢』――。
「わたしのゆめは、バラバラになってしまったモノを一つにすることです。浮気して出て行ったお母さん、酒に溺れるお父さん、非行に走る弟。みんな、別々の方向を向いているから悲しいんだと思います。大人になったら、丈夫な糸で全部縫い合わせて、もう一度、手を繋がせてあげたいです。そうすれば、ずっと幸せなままだから」
無邪気な筆致で書かれたその言葉が、二十年後の凄惨な結末を予言していた。
藍田は、背筋に氷を流し込まれたような感覚に襲われる。それは夢などではない。幼い彼女が、家族に対して突きつけた『宣戦布告』だった。
「文集、懐かしいですね」
莉央の瞳は、驚くほど澄んでいた。その無垢さが、逆に生理的な恐怖を呼び起こす。
「学校の先生は『素敵な夢ね』って褒めてくれました。でも、誰も手伝ってくれなかった。だから、自分で糸と針を揃えたんです」
スクリーンに、次々と『甲号証』が投影される。
それは、彼女の『生い立ち』という名の解剖記録だった。
*
【甲第十一号証:被告人の幼少期に関する近隣住民の証言】
「莉央ちゃんはいつも静かな子でした。でも、道路で轢かれた野良猫を見つけると、どこからか持ってきた針と糸で、ちぎれた耳や尻尾を懸命に縫い付けてあげてて。……優しすぎるのかな。泣きながら、生き返れって何度も唱えてました」
【甲第十四号証:服飾専門学校時代の成績表及び制作課題】
「立体裁断において天才的な技能を発揮。ただし、モデルとなるマネキンの関節を破壊し、人間の可動域を超えた形状で固定しようとする傾向があり、教官から複数回の指導を受けている」
*
莉央が歌い出した。
メロディは、童謡のように無垢で、それゆえに毒々しい。
歌詞は、深夜の居間で、静かに針を運ぶ音だけをリズミカルに刻んでいる。
「プツリ、プツリ。赤い糸。お父さんとお母さんの手を結ばなきゃ。もう離れないように」
嗚咽を漏らす面会人もいた。
「弁護士さんは言いました。『私は壊れている。家庭内暴力の被害者だ』って。私を、狂人にして助けようとしてくれた。でも、検察官の方は、私の技術を正当に評価してくれたんです。『見事な縫合だ。プロの仕業だ』って。あの瞬間、初めて私は、私のままでいいんだって認められた気がしました」
彼女の手首が躍る。手錠がチャリ、と無機質な音を立て、架空の針を動かした。
スクリーンに、モザイクで塗りつぶされた、明らかに『人の形をしていない何か』の現場写真が投影される。
*
【甲第三十一号証:世田谷一家遺体接合部マクロ撮影】
検察官の論告:「被告人は、殺害した実父の胴体に、実母の右腕と実弟の左手を外科用メスと工業用ミシン糸を用いて強固に接合。切断面には一切の迷いがなく、遺体を『抱き合う家族』というオブジェに仕立て上げることに執着していた。これは情状の余地のない、猟奇的自己顕示欲の産物である」

莉央は、歌いながら藍田の方へと歩み寄る。
ステージの端、莉央と藍田を隔てるのは、何もない空間だ。だが、藍田には見える。そこにあるはずの『透明な壁』が。
「家族は一緒に仲良く居なくちゃ。ねえ、そこの面会人さん。あなたの独りぼっちの心も、私の糸で縫い合わせてあげましょうか? 痛いのは一瞬だけ。そのあとは、ずっと、監獄カルテットの一部でいられるの」
莉央の視線が、正確に藍田の心臓を射抜いた。
藍田は呼吸を忘れた。
警備員の仕事で、夜の暗闇に潜む悪意には慣れていたつもりだった。だが、彼女の瞳にあるのは悪意ではない。『純粋な親切心』だ。それが、何よりも恐ろしかった。
曲の終焉と共に、莉央は再び面を戻した。
女面が、照明の下で冷たく笑っている。
「……お待たせしました、二百九番。今度は、焔の火遊び、みんなに見せてあげて」
莉央が影に退くと、講堂の室温が物理的に上がったような気がした。
次は、焔。
四十八人を焼き殺した、火傷だらけの歌姫の出番だ。
藍田の脳裏には、莉央が言った『監獄カルテットの一部』という言葉が、呪いのように脳裏にこびりついて離れなかった。


