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蒼介が野球に打ち込む夏は終わったが、世界の夏はまだまだ終わっていない。昼前になると気温はますます急上昇して、日光を遮る場所などない場所を移動し続けている彼らに疲労の色が見え始めていた。
「なあソウスケ、おまえって、こんな炎天下の中で、毎日練習してたんだよな……。すげえな」
どれだけ軽装になっても、暑さからは逃れられない。昂輝は少し呼吸が乱れていた。
「俺だけじゃないよ」
蒼介は苦笑した。足元を見ると、マサフミが舌を出して歩いている。人間は「暑い」と言って不快を主張できるが、犬はそれが出来ない。マサフミのためにも、自分たちのためにも、定期的な水分補給は欠かせない。
「ゴールまでに川とかあったら、泳いでいけんのにな」
昂輝は着ているタンクトップの裾をパタパタと仰ぎながら、冗談めかして言った。走ったり、歩いたり、あるいは立ち止まって少し休憩したり、道が整備されているいまは、特に苦労することもなく距離を消費出来ている。呪いのことさえ考えなければ、足腰を鍛えるためのロードワークをしているようにも捉えられる。
やがて、アスファルトの白線がかすれ、道路の両脇から迫り出した雑草がガードレールの支柱を呑み込みはじめた。
昂輝は、自身の肺が吸い込む空気に、排気ガスの匂いが混じらなくなったことに気づいた。代わりに鼻を突くのは、陽光に焼かれた濃い草の匂いと、どこか生臭い土の湿り気だ。
「……なぁ、ソウスケ。このあたり、もう自販機すらねえぞ」
昂輝は努めて明るい声を出し、隣を歩く蒼介の肩に指先を引っかけた。蒼介は、そのわずかな重みに縋るように、視線を足元の、亀裂の走ったアスファルトに落としている。
ほんとうは四六時中、蒼介の手を繋いでおくとか、あるいはおんぶして歩くとか、互いの体のどこかを触れ合わせて、昂輝の熱を直接、一滴も漏らさずに蒼介の芯へと流し込み続ければ、呪いの進行を食い止められるはずなのだ。理屈では分かっている。
だが、それは出来なかった。なにより、蒼介自身の拒絶があった。
「……離せ、コウキ。……まだ自分で歩ける」
蒼介が低く、震える声で言った。彼は昂輝の手を振り払うことはしなかったが、繋がれた腕に力を込め、自らの足で地面を蹴ろうと抗っていた。
「……わかったよ。でも、おかしくなったらすぐ言え。……いいな」
昂輝は、苦い唾を飲み込んだ。繋いだ手を一度だけ強く握り、それから指先をわずかに緩める。手のひら一枚分の距離を空け、万が一のときにすぐ蒼介に手を差し伸べられるようなポジションを陣取る。
異変が起こったのはそれから一キロも歩いていない地点。赤いステーションワゴンがふたりを追い越していった直後のことだった。
蒼介が、その場に棒立ちになった。五キロ先に道の駅があるから、そこで休憩がてら飯を食おうぜと、昂輝が話しかけた途端、歩みを止めたのだ・
「なんだよ、道の駅に行くのが嫌なのか?」
マサフミが吠えたのに反応して、先を行きかけていた昂輝はそこでようやく、蒼介の異変に気付いた。
「ち、違う。どうしようっ、俺……」
震える指先で、彼は自分の足元を指差した。昂輝はそちらに視線を移す。思わず目を見開いた。
蒼介が履いているランニングシューズが、アスファルトの中に沈んでいた。
熱でふやけたわけではない。ひび割れたわけでもない。硬く、頑丈なはずの道路が、蒼介が踏みしめている場所だけ、まるで底なしの泥濘のようにドロリと歪み、彼の足を足首まで呑み込んでいた。
「……っ、抜けないんだっ。足をうごかそうとすると力が吸われていく……」
蒼介が必死に足を上げようとするが、持ち上げようとするたびに、アスファルトが粘りつくような音を立てて彼の足をさらに深く引きずり込む。いや、違う。これは影だ。蒼介自身の影が、彼を闇に引き入れようとしているのだ。
『影喰い』とは、呪いが当事者の影を喰うことではなく、影が自我をもって当人を喰らい尽くそうとする現象を指しているのだと、そのときふたりはようやく理解した。
はじめて永和高校のグラウンドで喰われかけたときは、力任せに引きちぎったから呑まれずに済んだ。それから時間が経って、呪力を取り戻した影が再び、牙を剥きはじめた、ということだ。
蒼介の足首に絡みついているのは、彼自身の形をした、どろりと濁った別のナニカの意思だった。それは生き物のように脈打ち、蒼介が抗おうと力を込めるほど、その筋肉の動きを正確に予測して先回りし、逃げ道を塞いでいく。影は、ただそこに存在することをやめ、自らの主人を養分として認識しはじめていた。
「……ソウスケ、動くな! 抵抗すればするほど引きずり込まれるぞ!」
昂輝は、自身の両手を蒼介の腋の下に深く突き入れた。持ち上げようとする。だが、手に伝わってくるのは、単なるひとりの少年の体重ではない。まるで地球そのものが蒼介の足を掴んで離さないような凄まじい引力。昂輝が力を込めるたびに、蒼介の顔から血の気が引いていく。
「……あ、が……っ。コウキ、だめだっ! もっていかれる……」
蒼介は、自分の骨の芯を冷たい針で掻き回されるような不快感に呻いた。影が蒼介の足首を締め上げるたびに、アスファルトの表面に人の指のような形が浮き上がる。
蒼介を襲う影は、彼が磨き上げてきた投球動作の、鋭い指先の動きを模倣するように、彼の肉を抉り、取り込もうとしていた。
「チッ、ふざけんな、てめえっ! ソウスケは、まだここにいるんだよっ!」
昂輝は、自身の額を蒼介の肩に叩きつけるようにして、吠えた。昂輝の全身から噴き出す熱が汗となって、影と肉体の境界線で火花を散らすように飛び散った。
ジュッ、という、水が焼けた時のような不快な音がして、蒼介の足を飲み込んでいた影が、一瞬だけ悶えるように歪んだ。その隙を、昂輝は見逃さなかった。
ガードレールの支柱を靴底で蹴って、蒼介に飛びかかる。蒼介が驚く間もなく、バリ、と、聞き覚えのある音がしたあと、二人の体は乾いた路面の上へともつれ込んだ。
車のクラクションが凄まじい音で鼓膜を突き破る。
「やべっ!!」
昂輝は蒼介を再び路肩に向かって押し出し、自分は思いっきりアスファルトを蹴った。ぐるりと視界が一回転。ヘッドスライディングの代わりに宙返りをして、地面に着地した。
乗用車が巻き上げた熱風と、焦げたゴムの臭いが、二人の肌を叩きつけた。
「どこ見て歩いてんだ、ガキがっ!」
遠ざかる運転手の怒鳴り声と、激しい排気ガスの轟音。それが、彼らを日常へと引き戻した。
昂輝は肩で息をしながら、ガードレールを越えて草むらに倒れ込んだ蒼介へと駆け寄る。
「……ソウスケ、無事か!?」
蒼介はしばらく呆然としていたが、やがて我に返ったようにこくりと頷いた。自分の右足を見つめている。ジャージがめくれて隙間から見えている足首には、人の指で掴まれたような黒い痣が出来ていた。影はおとなしく地面にへばりついている。
「影が、俺の足を掴んだ……。手の形になって、それでっ……」
「ああ分かってる」
——おれも見てたから。
最初は見ていることしか出来なかった。あと少し判断が遅ければ、いまごろ蒼介は闇に呑まれていたのだろうか。
昂輝は蒼介の足首に触れた。瞬間、「ぐっ」と声が漏れる。指先に冷気が刺さり、汗に濡れた自分の肌から、熱が吸い上げられていく。歯を食いしばっていないと、意識までもが持っていかれそうな勢いだった。胃がぎゅるりとねじ曲がりそうになって、吐き気をもよおしたが、蒼介に悟られないように必死で我慢した。
「なにがあったかなんて、呑気に話し合っている場合じゃねえ。だけど飯食って、水分補給もしねえと、影に喰われるよりも先にくたばっちまうよな。道の駅に寄って、ちょっと休んで、すぐに出発しよう」
蒼介に返事をするいとまも与えず、昂輝は彼を引っ張り上げた。
「歩けるか?」
「ああ、なんとか」
蒼介は、ジャージの裾を直して痣を隠した。靴底は、先ほどまで影に呑み込まれていたことが嘘のように、いつも通りアスファルトを捉えている。だが、これまで足首にまとわりついていた違和感が太腿の辺りまでせり上がってきていて、もはや右足全体の感覚が失われつつあった。
自分の意思で足を動かしていて、実際にちゃんと動いているのに、それを意識できていない。まるで夢の中にいるような気分だった。
「マサフミの背中に乗せてもらったら、楽かもしれないな」
蒼介はそう言って、自分が背負われている姿を想像した。アクシデントが起こったとき、昂輝はマサフミのリードを離してしまうが、利口なこの犬は逃げることなく飼い主に付き従っている。
「マサフミは桃太郎に出てくる犬みたいだな」
さっきから自分の名前を連呼されるたびに、マサフミは顔を上げて蒼介を見ていた。きっと名前だけに反応しているから、蒼介の言っていることは理解していないだろう。理性ではそれが分かっているのに、こぼした言葉の欠片をマサフミが掬いあげてくれているように感じられた。
「桃太郎の犬はもっと強そうだけどな。マサはいま、おまえを『得体の知れない重荷』だと思って見てるんじゃねえのか。ソウスケがマサに乗ったら、きっとキャンキャン喚いてうるせえだろうよ」
昂輝がにひひと笑う。捉えようによってはデリカシーのない発言だが、それは普段どおりに接してくれているということだ。
昂輝の軽口は、張り詰めた空気をわずかに弛ませた。歩みを進めていくなかで、不安は大きくなっていくけれど、そんなもので互いの友情が壊れることはない。そんな気がして、蒼介は嬉しくなった。



