6
日の出よりも早く目覚めた二人は、『ハングアウト』を後にした。槇原からは、彼が持っていたモバイルバッテリーと、サブとして使っているらしいスマートフォンを、実園からは二人分の弁当を持たされた。
実園たちの計らいで、屋根の下で体を休めたふたりは、昨晩より体力も回復していた。
「ソウスケ、朝のうちに出来るだけ距離を稼いでおくぞ」
「うん」
ふたりともアスリートというだけあって、ランニングには慣れていた。朝の空気を切り裂くように、昂輝が先頭に立ち、その後ろを蒼介が、さらにその傍らをマサフミが並走する。
これはただのトレーニングではない。昂輝は走りながらも、蒼介の手を、あるいは腕を、絶えず自分の体に触れさせていた。
「……熱、逃げてねえか?」
「大丈夫。昂輝がそばにいるから……あったかいよ」
昂輝の心拍が上がり、体温が上昇する。その「生命の燃焼」を、直に蒼介の肌へと伝播させる。そうしなければ、走っている最中にさえ、蒼介の存在が希薄になってしまうからだ。
太陽が昇りはじめ、街が朝の喧騒に包まれる頃、彼らはすでに市街地を抜け、山へと続く古いバイパスへと差し掛かっていた。
「百キロってさ、三日かけて行くには、結構ヨユーなんじゃねえの」
昂輝は強気の笑みを浮かべた。湿り気を帯びたアスファルトを蹴る。ハングアウトを出てからまだ一時間も経っていない。距離にして、せいぜい七、八キロといったところだろう。昂輝たちにとって、この程度の距離は本来ならアップにすらならないはずだった。だが、昂輝の額には、すでに滝のような汗が流れている。それは単に運動によるものではなく、夜が明けてもなお居座り続ける、重苦しい熱帯夜の残滓のせいだ。
「……はぁ、はぁ、……ソウスケ、大丈夫か。足、もつれてねえな」
「うん。……昂輝、そんなに強く握らなくても、大丈夫だぞ」
並走する蒼介が、少し困ったように笑う。その声はまだ澄んでいて、昨夜までの彼と何ら変わりないように聞こえる。マサフミもチャカチャカと爪を鳴らしながらついてきている。
——おれが心配しすぎなのだろうか。昂輝は密かに舌打ちをする。先の見えない展開や、心を浸食してくる不安。そういった可視化できないものたちが、昂輝をいつもより余計に疲弊させているのかもしれない。
午前十時が過ぎたころ、ようやくふたりはこの日初めての休憩をとった。ハングアウトを出てからおよそ六時間。走ったり歩いたりを繰り返して、三十キロ近くの距離を消費した。数字だけでいえば、驚くほどに順調だった。
「ソウスケ、そろそろ休憩させてくれ……」
昂輝が力なくしゃがみ込むと、アスファルトの熱気がむせ返るように肺を焼いた。バイパス沿いのコンビニは、店舗面積の何倍も駐車場が広く、八割ほどが車で埋まっている。今の昂輝の様子だけをみれば蒼介よりも深刻な状況だ。
「お、俺、なんか買ってくるから、コウキはちょっと休んでて」
おれのそばから離れるなと、止める間もなかった。呪いの進行が緩やかなのをいいことに、蒼介はコンビニの入口に向かって歩いていった。
「あ、あれ……?」
ほどなくして蒼介の戸惑う声が聞こえてきた。車止めに腰を下ろして、アスファルトを睨みながら息を整えていた昂輝は、顔を上げてそちらを見る。そこには、開かない自動ドアの前で立ち尽くしている蒼介の姿があった。
体を横に揺すっても、ドアに触れてみても、その場でジャンプをしてみても、ドアのセンサーは反応しなかった。
(なんだ……あれ……)
センサーの故障か? と昂輝が駆け寄ろうとしたとき、その脇をすり抜けるようにマサフミが蒼介に近づいていった。すると沈黙を守っていたドアがいとも簡単に開く。不思議そうな顔をして店内に入っていく蒼介と、こちらに戻ってくるマサフミを眺めながら、昂輝は腰が抜けたように動けなかった。
膝が震えている。アスファルトの照り返しが、ジリジリと昂輝の視界を焼き、脳を揺らす。
(……反応しなかった。センサーが、ソウスケを『人間』だと認識しなかったのか?)
自動ドアの赤外線センサーは、熱源の移動を検知して開く。マサフミが近づいたときには開いたのに、さっきまで全力で走り、熱を帯びているはずの蒼介には無反応だった。それは、昂輝が分け与えている熱だけでは、蒼介の存在を維持しきれなくなっている決定的な証拠だった。
「クソっ……!」
昂輝は疲労で重くなっている体に鞭を打ち、立ち上がった。蒼介が店内に入っていった。あいつひとりにしてはいけない。
「マサフミ、ちょっと待ってろよ」
マサフミはここで逃げ出すような愚犬ではないだろうが、ポールにリードを結んだあと、昂輝は店内に向かって駆け出した。
自動ドアを抜けると、店内の冷房が暴力的なまでの冷気で昂輝を襲った。健康な人間なら天国と感じるその冷たさが、今の昂輝には蒼介の命を削る刃のように感じられた。
「ソウスケ!」
店内の奥、スポーツ飲料の棚の前で立ち尽くしている蒼介を見つけた。蒼介は、青いラベルのボトルを掴もうとして、何度も手を空振らせていた。掴もうとする指先がボトルの表面をすり抜け、まるで鏡に映った虚像を触ろうとしているかのようだった。
「……コウキっ。こ、これ……持ち上がらない……。っていうか、触ってる感じがしないんだ」
「手を貸せ」
昂輝は蒼介の隣に踏み込み、ボトルの上から蒼介の冷え切った手を力強く包み込んだ。ドクン、と昂輝の脈動が蒼介の手に伝わる。昂輝の熱が介在した瞬間、蒼介の指に実体感が戻り、ボトルがカチリと音を立てて棚から引き抜かれた。
「おれが持つ。……ソウスケ、レジには行くな。おれがやる」
「……うん。……ねえ、昂輝。あの店員……」
蒼介が通路のひとつを指差した。そこには、品出しをしながらこちらを一度も振り返らない店員の姿があった。先程すぐそばを蒼介が通り過ぎたはずなのに、挨拶ひとつしなかったらしい。それどころか、そこに客がいることさえ気づいていない様子だったそうだ。
「……おれらがガキだからって無視してんだろ。機嫌悪いか、忙しいんじゃねえの」
昂輝は嘘をついた。分かっていた。店員の目には、蒼介が映っていない。今の蒼介は、槇原の言葉を借りるならば『存在がデリートされている』状態だ。
昂輝は蒼介を自分の体で隠すようにしてレジへ向かい、二人分の飲み物とパン、それにマサフミに与える缶詰と水の会計を済ませた。駐車場に戻り、再び建物の影に座り込む。
「ほら、これ飲め」
キャップを開けて渡すと、蒼介はそれを受け取り、一口飲んだ。しかし、喉が潤ったことを喜ぶ様子はなく、表情が余計に曇った。
「……どうした」
「……味が、しない。冷たいのはわかるんだけど……ただの液体を飲んでるみたいだ。ほら、鼻が詰まって匂いも味も分からないみたいな……ううん、それよりももっと……虚しい感じがする」
蒼介は、ボトルを見つめたまま呟いた。味覚。それは生命が世界を楽しむための、最も根源的な感覚の一つだ。それが失われ始めている。
「……疲れてんだよ。いいから流し込め。マサにも水やるぞ」
昂輝はマサフミのために買った使い捨てのプラスチック容器に水を注いだ。マサフミは水を飲み終えると、蒼介の足元に鼻先を寄せ、クゥーンと悲しげな声を上げた。
「マサフミ……付き合わせてごめんな」
蒼介がマサフミの頭を撫でる。その動作さえも少しだけズレていた。蒼介の指が、マサフミの毛並みの数ミリ上をなぞっている。正確にいえば物理的には触れているはずなのに、互いの実存が噛み合っていないのだ。
(……マッキーさんの言ってた『削除』のスピードが、上がってやがる)
旧校舎跡までの道程は、まだ六十キロ近くある。数字の上では余裕があったはずの距離が、蒼介を襲っている呪いの進行と合わさると、それ以上の脅威となって襲ってくるような気がする。
「……なあ、コウキ。さっきの、やっぱり俺のせいだよな」
蒼介はもそもそとパンを囓っている。食べたくはないが、無理矢理腹に詰め込んでいる。そんな様子がありありと見てとれる。
「自動ドアが反応しなかったのも、店員が俺に気づかなかったのも。……俺が、この世界から、消え始めているからなんだろ」
「……バカ言うな。たまたまだろ」
昂輝は吐き捨てるように言った。「機械の故障なんてよくある話だ。店員だって、愛想が悪い奴はどこにでもいる。……そんなことをねちねち考えてるヒマがあったら、さっさとそれ食っちまえ。次は、この陸橋を越えるまで止まらねえぞ」
昂輝は、スマートフォンの画面を見せながら、わざとぶっきらぼうにそう言った。
自分の胸の奥で早鐘を打つ不安を無理やり抑え込む。まだリミットまでは五十時間以上ある。数字の上では、十分すぎるほど時間はあるはずなのだ。それなのに、蒼介を蝕む「欠落」のスピードは、昂輝の楽観的な計算をあざ笑うかのように加速している気がしてならない。
「……コウキ、泣いてるの?」
「ああん? なんだって?」
蒼介に言われてはじめて、昂輝は自分の瞳が潤んでいることに気付いた。
「……バカ言え。汗だ、汗。目に染みただけだよ」
昂輝は乱暴に掌で顔をこすった。自分はパルクールで鍛えた強靱な度胸とメンタルを持っているはずだ。どんなに危険な高い壁を前にしても、乗り越えられる自信があるから跳んできた。いまだって同じだ。——この状況に興奮して、昨日は密かに身震いしてたじゃねえかよ……。
今回のこともなんとかなると思っている。だけど、それとおなじくらい不安も感じている。——もし蒼介と自分の立場が逆だったら、おれはもっとパニックになっているのだろうか。
蒼介は寡黙な性格だ。だから時折なにを考えているか読めないときがある。彼はいま、なにを考えているのだろう。自分の存在が消えてしまうかもしれないという、未曾有の事態の渦中に堕とされたというのに、半狂乱になるほど取り乱してはいない。
投手は孤独なポジションだという。マウンドという、逃げ場のない円の中で独り、数多の視線を一身に浴び、全ての責任を背負って白球を投じてきた経験。それは紛れもなく蒼介を強くしてきた。
並みの人間なら、いまの状況に恐れおののくだろう。しかし、蒼介は、負けがすべてを終わらせてしまう試合をくぐり抜けるなかで、「最悪の展開」を幾度もシミュレーションし、それに適応してきた男だ。
「行こう、コウキ」
蒼介はパンの最後の一口を咀嚼して、喉に水を流し込んだ。視線がかち合う。
(……こいつ)
その表情から伝わってくるのは、絶望による縋り付きではない。それは、マウンドで捕手のミットを射抜く直前の、あの恐ろしいまでの静かな殺気だった。
蒼介の瞳には、芯が灯っていた。自分を飲み込もうとする呪いそのものを、打ち取るべき打者として見据えている。
昂輝は、ぞくりと身震いした。自分が「救っている」と思っていた親友は、この空白の恐怖の中で、自分よりもずっと過酷なマウンドに立ち続けているのだ。
「ああ、行こうぜ」
昂輝は、自身の右手を蒼介の左腕に深く食い込ませた。指先が蒼介の皮膚に触れた瞬間、奪われる熱の鋭さに奥歯が鳴る。
(おれも負けるわけにはいかねえな)
選ばなかった道の先には、もしかすると自分が蒼介の球を受けていた未来が待っていたのかもしれない。道は違えたが、自分たちの友情が壊れたわけではない。だから壊さない。壊させない。そのために出来ることを、ひとつずつこなしていくだけだ。
日の出よりも早く目覚めた二人は、『ハングアウト』を後にした。槇原からは、彼が持っていたモバイルバッテリーと、サブとして使っているらしいスマートフォンを、実園からは二人分の弁当を持たされた。
実園たちの計らいで、屋根の下で体を休めたふたりは、昨晩より体力も回復していた。
「ソウスケ、朝のうちに出来るだけ距離を稼いでおくぞ」
「うん」
ふたりともアスリートというだけあって、ランニングには慣れていた。朝の空気を切り裂くように、昂輝が先頭に立ち、その後ろを蒼介が、さらにその傍らをマサフミが並走する。
これはただのトレーニングではない。昂輝は走りながらも、蒼介の手を、あるいは腕を、絶えず自分の体に触れさせていた。
「……熱、逃げてねえか?」
「大丈夫。昂輝がそばにいるから……あったかいよ」
昂輝の心拍が上がり、体温が上昇する。その「生命の燃焼」を、直に蒼介の肌へと伝播させる。そうしなければ、走っている最中にさえ、蒼介の存在が希薄になってしまうからだ。
太陽が昇りはじめ、街が朝の喧騒に包まれる頃、彼らはすでに市街地を抜け、山へと続く古いバイパスへと差し掛かっていた。
「百キロってさ、三日かけて行くには、結構ヨユーなんじゃねえの」
昂輝は強気の笑みを浮かべた。湿り気を帯びたアスファルトを蹴る。ハングアウトを出てからまだ一時間も経っていない。距離にして、せいぜい七、八キロといったところだろう。昂輝たちにとって、この程度の距離は本来ならアップにすらならないはずだった。だが、昂輝の額には、すでに滝のような汗が流れている。それは単に運動によるものではなく、夜が明けてもなお居座り続ける、重苦しい熱帯夜の残滓のせいだ。
「……はぁ、はぁ、……ソウスケ、大丈夫か。足、もつれてねえな」
「うん。……昂輝、そんなに強く握らなくても、大丈夫だぞ」
並走する蒼介が、少し困ったように笑う。その声はまだ澄んでいて、昨夜までの彼と何ら変わりないように聞こえる。マサフミもチャカチャカと爪を鳴らしながらついてきている。
——おれが心配しすぎなのだろうか。昂輝は密かに舌打ちをする。先の見えない展開や、心を浸食してくる不安。そういった可視化できないものたちが、昂輝をいつもより余計に疲弊させているのかもしれない。
午前十時が過ぎたころ、ようやくふたりはこの日初めての休憩をとった。ハングアウトを出てからおよそ六時間。走ったり歩いたりを繰り返して、三十キロ近くの距離を消費した。数字だけでいえば、驚くほどに順調だった。
「ソウスケ、そろそろ休憩させてくれ……」
昂輝が力なくしゃがみ込むと、アスファルトの熱気がむせ返るように肺を焼いた。バイパス沿いのコンビニは、店舗面積の何倍も駐車場が広く、八割ほどが車で埋まっている。今の昂輝の様子だけをみれば蒼介よりも深刻な状況だ。
「お、俺、なんか買ってくるから、コウキはちょっと休んでて」
おれのそばから離れるなと、止める間もなかった。呪いの進行が緩やかなのをいいことに、蒼介はコンビニの入口に向かって歩いていった。
「あ、あれ……?」
ほどなくして蒼介の戸惑う声が聞こえてきた。車止めに腰を下ろして、アスファルトを睨みながら息を整えていた昂輝は、顔を上げてそちらを見る。そこには、開かない自動ドアの前で立ち尽くしている蒼介の姿があった。
体を横に揺すっても、ドアに触れてみても、その場でジャンプをしてみても、ドアのセンサーは反応しなかった。
(なんだ……あれ……)
センサーの故障か? と昂輝が駆け寄ろうとしたとき、その脇をすり抜けるようにマサフミが蒼介に近づいていった。すると沈黙を守っていたドアがいとも簡単に開く。不思議そうな顔をして店内に入っていく蒼介と、こちらに戻ってくるマサフミを眺めながら、昂輝は腰が抜けたように動けなかった。
膝が震えている。アスファルトの照り返しが、ジリジリと昂輝の視界を焼き、脳を揺らす。
(……反応しなかった。センサーが、ソウスケを『人間』だと認識しなかったのか?)
自動ドアの赤外線センサーは、熱源の移動を検知して開く。マサフミが近づいたときには開いたのに、さっきまで全力で走り、熱を帯びているはずの蒼介には無反応だった。それは、昂輝が分け与えている熱だけでは、蒼介の存在を維持しきれなくなっている決定的な証拠だった。
「クソっ……!」
昂輝は疲労で重くなっている体に鞭を打ち、立ち上がった。蒼介が店内に入っていった。あいつひとりにしてはいけない。
「マサフミ、ちょっと待ってろよ」
マサフミはここで逃げ出すような愚犬ではないだろうが、ポールにリードを結んだあと、昂輝は店内に向かって駆け出した。
自動ドアを抜けると、店内の冷房が暴力的なまでの冷気で昂輝を襲った。健康な人間なら天国と感じるその冷たさが、今の昂輝には蒼介の命を削る刃のように感じられた。
「ソウスケ!」
店内の奥、スポーツ飲料の棚の前で立ち尽くしている蒼介を見つけた。蒼介は、青いラベルのボトルを掴もうとして、何度も手を空振らせていた。掴もうとする指先がボトルの表面をすり抜け、まるで鏡に映った虚像を触ろうとしているかのようだった。
「……コウキっ。こ、これ……持ち上がらない……。っていうか、触ってる感じがしないんだ」
「手を貸せ」
昂輝は蒼介の隣に踏み込み、ボトルの上から蒼介の冷え切った手を力強く包み込んだ。ドクン、と昂輝の脈動が蒼介の手に伝わる。昂輝の熱が介在した瞬間、蒼介の指に実体感が戻り、ボトルがカチリと音を立てて棚から引き抜かれた。
「おれが持つ。……ソウスケ、レジには行くな。おれがやる」
「……うん。……ねえ、昂輝。あの店員……」
蒼介が通路のひとつを指差した。そこには、品出しをしながらこちらを一度も振り返らない店員の姿があった。先程すぐそばを蒼介が通り過ぎたはずなのに、挨拶ひとつしなかったらしい。それどころか、そこに客がいることさえ気づいていない様子だったそうだ。
「……おれらがガキだからって無視してんだろ。機嫌悪いか、忙しいんじゃねえの」
昂輝は嘘をついた。分かっていた。店員の目には、蒼介が映っていない。今の蒼介は、槇原の言葉を借りるならば『存在がデリートされている』状態だ。
昂輝は蒼介を自分の体で隠すようにしてレジへ向かい、二人分の飲み物とパン、それにマサフミに与える缶詰と水の会計を済ませた。駐車場に戻り、再び建物の影に座り込む。
「ほら、これ飲め」
キャップを開けて渡すと、蒼介はそれを受け取り、一口飲んだ。しかし、喉が潤ったことを喜ぶ様子はなく、表情が余計に曇った。
「……どうした」
「……味が、しない。冷たいのはわかるんだけど……ただの液体を飲んでるみたいだ。ほら、鼻が詰まって匂いも味も分からないみたいな……ううん、それよりももっと……虚しい感じがする」
蒼介は、ボトルを見つめたまま呟いた。味覚。それは生命が世界を楽しむための、最も根源的な感覚の一つだ。それが失われ始めている。
「……疲れてんだよ。いいから流し込め。マサにも水やるぞ」
昂輝はマサフミのために買った使い捨てのプラスチック容器に水を注いだ。マサフミは水を飲み終えると、蒼介の足元に鼻先を寄せ、クゥーンと悲しげな声を上げた。
「マサフミ……付き合わせてごめんな」
蒼介がマサフミの頭を撫でる。その動作さえも少しだけズレていた。蒼介の指が、マサフミの毛並みの数ミリ上をなぞっている。正確にいえば物理的には触れているはずなのに、互いの実存が噛み合っていないのだ。
(……マッキーさんの言ってた『削除』のスピードが、上がってやがる)
旧校舎跡までの道程は、まだ六十キロ近くある。数字の上では余裕があったはずの距離が、蒼介を襲っている呪いの進行と合わさると、それ以上の脅威となって襲ってくるような気がする。
「……なあ、コウキ。さっきの、やっぱり俺のせいだよな」
蒼介はもそもそとパンを囓っている。食べたくはないが、無理矢理腹に詰め込んでいる。そんな様子がありありと見てとれる。
「自動ドアが反応しなかったのも、店員が俺に気づかなかったのも。……俺が、この世界から、消え始めているからなんだろ」
「……バカ言うな。たまたまだろ」
昂輝は吐き捨てるように言った。「機械の故障なんてよくある話だ。店員だって、愛想が悪い奴はどこにでもいる。……そんなことをねちねち考えてるヒマがあったら、さっさとそれ食っちまえ。次は、この陸橋を越えるまで止まらねえぞ」
昂輝は、スマートフォンの画面を見せながら、わざとぶっきらぼうにそう言った。
自分の胸の奥で早鐘を打つ不安を無理やり抑え込む。まだリミットまでは五十時間以上ある。数字の上では、十分すぎるほど時間はあるはずなのだ。それなのに、蒼介を蝕む「欠落」のスピードは、昂輝の楽観的な計算をあざ笑うかのように加速している気がしてならない。
「……コウキ、泣いてるの?」
「ああん? なんだって?」
蒼介に言われてはじめて、昂輝は自分の瞳が潤んでいることに気付いた。
「……バカ言え。汗だ、汗。目に染みただけだよ」
昂輝は乱暴に掌で顔をこすった。自分はパルクールで鍛えた強靱な度胸とメンタルを持っているはずだ。どんなに危険な高い壁を前にしても、乗り越えられる自信があるから跳んできた。いまだって同じだ。——この状況に興奮して、昨日は密かに身震いしてたじゃねえかよ……。
今回のこともなんとかなると思っている。だけど、それとおなじくらい不安も感じている。——もし蒼介と自分の立場が逆だったら、おれはもっとパニックになっているのだろうか。
蒼介は寡黙な性格だ。だから時折なにを考えているか読めないときがある。彼はいま、なにを考えているのだろう。自分の存在が消えてしまうかもしれないという、未曾有の事態の渦中に堕とされたというのに、半狂乱になるほど取り乱してはいない。
投手は孤独なポジションだという。マウンドという、逃げ場のない円の中で独り、数多の視線を一身に浴び、全ての責任を背負って白球を投じてきた経験。それは紛れもなく蒼介を強くしてきた。
並みの人間なら、いまの状況に恐れおののくだろう。しかし、蒼介は、負けがすべてを終わらせてしまう試合をくぐり抜けるなかで、「最悪の展開」を幾度もシミュレーションし、それに適応してきた男だ。
「行こう、コウキ」
蒼介はパンの最後の一口を咀嚼して、喉に水を流し込んだ。視線がかち合う。
(……こいつ)
その表情から伝わってくるのは、絶望による縋り付きではない。それは、マウンドで捕手のミットを射抜く直前の、あの恐ろしいまでの静かな殺気だった。
蒼介の瞳には、芯が灯っていた。自分を飲み込もうとする呪いそのものを、打ち取るべき打者として見据えている。
昂輝は、ぞくりと身震いした。自分が「救っている」と思っていた親友は、この空白の恐怖の中で、自分よりもずっと過酷なマウンドに立ち続けているのだ。
「ああ、行こうぜ」
昂輝は、自身の右手を蒼介の左腕に深く食い込ませた。指先が蒼介の皮膚に触れた瞬間、奪われる熱の鋭さに奥歯が鳴る。
(おれも負けるわけにはいかねえな)
選ばなかった道の先には、もしかすると自分が蒼介の球を受けていた未来が待っていたのかもしれない。道は違えたが、自分たちの友情が壊れたわけではない。だから壊さない。壊させない。そのために出来ることを、ひとつずつこなしていくだけだ。



