心音(パルス)150 〜明日が繋がる走痕〜

 5

 背後でドアが乱暴に開く音と、「待て! 止まりなさい!」という若い警官の鋭い叫びが、深夜の国道に突き刺さった。
 昂輝は迷わなかった。アスファルトの上を滑るように走り出したパトカーの、旋回半径と制動距離を瞬時に計算する。正面から逃げれば、数秒で追いつかれ、あの「正義」の名を借りた懐中電灯の光に、蒼介の崩壊しかかった存在を暴かれる。
 「マサ、行けっ!」
 昂輝が短く命じると、マサフミは国道の喧騒を嫌うように、ドラッグストアと雑居ビルの間の路地に入った。
 「……走れ、ソウスケ! 止まったら終わりだぞ!」
 昂輝の叫びが、ロードサイド店舗の喧騒を背に鋭く響いた。背後では、若手警官たちの革靴がアスファルトを叩く硬い足音と、無線機のノイズが迫っている。
 「っ、分かってる……分かってんだよ……っ!」
 蒼介は奥歯を噛み締め、右足を無理やり前方へ振り出した。感覚はほとんどない。だが、マウンドで培った体幹の強さと、負けず嫌いなプライドが、彼の体を強引に前へと進ませていた。
 アスファルトを蹴る左足の確かな衝撃に対し、右足はまるで泥の中を走っているように重い。一歩ごとに、自分の存在の半分が地面に吸い込まれていくような、得体の知れない恐怖が這い上がってくる。
 昂輝は、蒼介の左手を力任せに握りしめていた。もう片方の手には、マサフミのリードが食い込んでいる。
 マサフミは、自分たちが追われていることを察知しているのか、低い姿勢でぐいぐいとリードを引っ張り、暗闇の奥へと二人を導いていく。その強靭な引力は、パルクールに慣れた昂輝でさえも姿勢を崩しそうになるほどだった。
 「ソウスケ、あそこを跳び越えるぞ! おれに合わせろ!」
 昂輝の視線の先にあるのは、ドラッグストアの裏手に積み上げられた、大量の木製パレットだった。高さは一メートルほど。普段の蒼介なら、なんてことのない障害物だ。しかし、今の彼にとっては、断崖絶壁にも等しい。
 「……くそっ!」
 昂輝がパレットの縁を蹴り、軽やかに跳躍する。蒼介は、繋がれた昂輝の掌から伝わる熱を頼りに、感覚の消えかけた右足を踏ん張った。跳ぶというよりは、全身の反動を使って自分を放り出すような、無様な動作。ガシャリ、とパレットが軋む音が夜の静寂を乱した。
 「マサ、待てっ!」
 昂輝がリードを制御する。パレットを跳び越えた先には、民家の高いブロック塀と、雑居ビルの冷たいコンクリート壁に挟まれた、幅一メートルにも満たない細い通路が続いていた。マサフミが、その暗がりに迷わず飛び込む。蒼介は、足がもつれそうになりながらも、昂輝に引きずられるようにして、その狭隘な空間へと滑り込んだ。
 昂輝は少し息を乱しながら、辺りを観察した。無造作に積み上げられた空のプラスチックパレットや、錆びついた空調の室外機が、巨大な障害物のように立ちはだかっている。
 蒼介の腰を強引に抱き寄せた。パルクールにおいて、二人分の体重を背負うことは自殺行為に近い。だが、昂輝の広背筋は蒼介の「冷気」を燃料にするかのように熱く脈動していた。  
 「ソウスケ、浮かせるぞ。……跳べっ!」
 昂輝は、自身の右足をパレットの側面に蹴りつけ、その反動を利用して、蒼介の体を宙へと引き上げた。
 ウォールラン。本来なら壁を数歩駆け上がる高踏な技術だが、今の昂輝は、感覚のない蒼介を振り子として使い、その遠心力で一気にパレットの山を越えた。
 「う、ああっ……!」  
 蒼介は、自分の意思とは無関係に浮き上がる浮遊感に翻弄された。パルクールの技術など知らない。着地の瞬間、蒼介の右足がぐにゃりと折れそうになる。それを昂輝が自身の膝をクッションにして受け止め、そのまま前転に近い形で衝撃をいなした。
 蒼介は、昂輝のタンクトップを掴み、崩れそうになる体を支えた。 ビリッと布の繊維が裂かれる音がして、慌てて手を引っ込める。
 壁一枚隔てた表通りでは、パトカーの赤い光が断続的にビルの窓を舐め、サイレンが深夜の空気を切り裂いている。警察官たちが呼んだ応援が到着したのだろうか。現場が段々物々しい雰囲気になっている。
 おれたちはなにも法を犯したわけじゃないのに……と、昂輝は歯を食いしばる。でも、あいつらが数の暴力でおれたちを追い詰めるなら、逃げ切ってやるしかない。
 「おい、この奥だ! マサフミがこっちを選んだんだ。信じろ」
 通路の先には、高さ二メートルほどの金網フェンスが立ちはだかっていた。昂輝はマサフミのリードを離し、蒼介の背中を力強く押した。
 「ソウスケ、手をかけろ。おまえの腕力なら登れる。……おれの熱を感じろ。おまえはまだ、ここにいるんだ!」
 蒼介は、指先に残るわずかな力を振り絞り、金網の冷たい網目に指をかけた。 右足が金網を蹴り、金属が震える高い音が響く。昂輝は蒼介の腰を持ち上げるように支えながら、自らも壁を蹴り上げ、重力に逆らうように上昇した。
 そのとき、通路の入り口から懐中電灯の光が差し込んできた。
 「……そこか! 君たち! 止まりなさい!」
 まだ警察官の口調は乱れていない。目の前の高校生二人は、悪戯や出来心で自分たちをからかっているのだと思っているのかもしれない。
 懐中電灯の光が、金網にしがみつく蒼介を背後から射抜く。蒼介は、自分の影が光に焼かれるような、内面をえぐられる感覚に悲鳴を上げそうになった。
 「飛び越えろっ、ソウスケ!」
 昂輝が蒼介の肩を掴み、フェンスの向こう側へと力任せに引き上げた。二人の体が、暗い資材置き場の砂利の上に転がり込む。遅れて、マサフミが音もなくフェンスを軽々と跳び越え、着地の衝撃を四肢で静かにいなした。
 別のパトカーが路地の入り口で急ブレーキを踏む音が響く。
 「おい、こっちは車じゃ入れない! 足で追うぞ!」
 警官たちが車を降り、足音が近づいてくる。
 「マサ! どっちだ!」
 昂輝が呼びかけると、マサフミが暗闇の奥で「ウォン!」と短く、しかし鋭く応えた。シェパードの巨体は、入り組んだ路地裏では機動力を削ぐ要因になるはずだったが、マサフミは本能的に「人間が通りにくい最短ルート」を嗅ぎ分けていた。
 二人は、古いアパートの非常階段と、ゴミ集積所のコンクリート塀に挟まれた、幅五十センチほどの隙間を縫うように進む。
 昂輝の視界は、もはや「道」を捉えていなかった。頭上の電線の束、半開きになった鉄扉の縁、積み上げられた古いタイヤ。 それらを、蒼介と共に通り抜けるための「一本の線」として接続していく。
 背後で、砂利を踏みしめる複数の足音が急き立てるように響いた。若い警官たちの吐息が、すぐそこまで迫っている。
 「……ハァ、ハァ……っ。コウキ、こっち、行き止まりじゃ……」
 蒼介が掠れた声で漏らす。目の前には、アパートのゴミ集積所と、錆びついたトタン屋根の資材小屋が複雑に組み合わさり、逃げ場を塞いでいるように見えた。
 「行き止まりじゃねえ。……ソウスケ、おれの腕を掴んでろ。絶対に離すな」
 昂輝の目は、いまから通るべき道を見据えていた。ゴミ集積所のコンクリート壁の角。そこから三十センチほど離れた場所にある、資材小屋の鉄パイプの支柱。そして、その上方に突き出たトタンの庇。昂輝にとって、それは空へと続く階段だった。
 「マサ、先に行けっ!」
 昂輝が短く促すと、マサフミはバネのような跳躍で、コンクリート壁のわずかな段差を足場に、一気に資材小屋の屋根へと駆け上がった。シェパードの巨体が音もなく闇に吸い込まれる。
 「……跳ぶぞ」
 昂輝は蒼介の手を引いたまま、コンクリート壁に向かって斜めに踏み切った。
 プレシジョン・ジャンプ。
 正確に壁の縁を捉え、その勢いのまま蒼介の腰を引き寄せる。蒼介の右足は、石のような重さを保ったままだったが、左足が必死に壁を蹴った。
 昂輝の肩に食い込む蒼介の指先。その接触だけが、今の蒼介が「自分」であることを証明する唯一の感覚だった。
 二人の体がトタン屋根の上に転がり込んだ瞬間、すぐ真下を懐中電灯の光が通り過ぎた。
 「……おかしいな。こっちに逃げ込んだはずだが」
 警官の声が、薄い屋根越しに伝わってくる。蒼介は呼吸を止め、トタンの冷たい感触に顔を伏せた。心臓の音が、トタンを伝って階下の警官に届いてしまうのではないかという恐怖に襲われる。
 「……おい、何か忘れてないか」
 昂輝が耳元で、消え入りそうな声で囁いた。
 「……え?」
 「おまえの名前を言ってみろ」
 心臓が冷たく脈打った。蒼介は、必死に意識の奥底を探った。 佐野蒼介。さの、そうすけ。
 ……よかった。まだ、ある。しかし、その文字の輪郭が、先ほどよりも薄く、頼りなくなっていることに気づき、戦慄した。野球部の仲間の顔も、マウンドで嗅いだ土の匂いも、記憶の中で、まるで古いフィルムが熱で溶けていくように、少しずつ、けれど確実に形を失い始めている。
 「……ハァ、ハァ……っ。コウキ……、俺、やっぱり……消えたくない」
 蒼介は、昂輝の腕を、爪が食い込むほど強く握りしめた。昂輝は何も答えず、ただ自分の熱い掌を蒼介のうなじに押し当てた。その暴力的なまでの「生」の熱が、凍てつこうとする蒼介の輪郭を強引に繋ぎ止める。
 「……下りるぞ。警察が路地を抜ける隙を突く」
 昂輝は屋根の反対側を見定めた。そこには、建物の隙間に放置された古いマットレスと、廃材が山積みにされている。
 「マサ、誘導しろ。静かにな」
 マサフミが音もなく屋根から飛び降り、階下の安全を確認するように、北の闇に向かって鼻を鳴らした。二人は、追っ手の光が遠ざかる一瞬の隙を見逃さず、屋根から滑り降りた。一歩、地を踏みしめる。蒼介の右足は、もはや感覚の半分を奪われていたが、昂輝の近くにいるうちは、まだ動かすことができた。

 昂輝は、部活動をしていないことと、パルクールに熱中していることが相まって、学外で蒼介の知らないネットワークを築いていた。練習場所で顔を合わせる大学生や、彼の身軽さに目を細める深夜営業のバーの店主、果てはストリートパフォーマーの集団まで。年齢も立場もバラバラな知り合いたちとの交流が、部活動に励む高校生とは違う世界を見せてくれている。
 学校の制服という画一的な鎧を脱ぎ捨てた場所で出会う彼らは、昂輝にとって、教科書には載っていない世界の歩き方を教えてくれる師でもあった。白球を追う蒼介が一点の光を見つめていた日々の中で、昂輝は路地裏で繰り広げられる日常と、そこで交わされる飾らない言葉を知ったのだ。
 マットレスの上に蒼介をそっと座らせ、昂輝は廃材の隙間から路地を窺った。遠ざかっていくサイレンの音と、入れ替わるように戻ってきた街の日常。高架下を走る貨物列車の振動が、足元の砂利を微かに震わせている。
 (……このあたり、見覚えがあるな)
 昂輝は視線を上げ、コンクリート壁の向こう側にそびえる、年季の入った雑居ビルの群れを見上げた。看板の光が重なり合い、夜空を濁った紫色に染めている。パルクールの練習場所を探してこの界隈を歩き回っていた一年前の記憶が、ジグソーパズルの断片のように繋がり始めた。
 「……ソウスケ、動けるか」
 「……たぶん。でも、どこへ?」
 「ここから二つ先のブロックに、ダーツバーがある。看板は出てねえけど、地下一階に潜ってる店だ」
 昂輝の脳裏に、地下へと続く狭い階段と、タバコの煙に燻された鉄扉の質感が浮かんだ。
 ダーツバー『ハングアウト』。
 パルクールの動画編集を教えてくれた大学生の男に、一度だけ連れて行かれたことのある場所だ。
 「店主のおっさんは、おれのジャンプを動画で観て、『いいバネしてるな』って感心してくれた。あそこなら、少なくともさっきの警察の目からは逃げられる。マサも……あいつなら、うまく話せば中に入れてくれるはずだ」
 昂輝は蒼介の肩に手を回した。体に触れるたび、蒼介に自分の体温が吸い取られていくような感覚がある。だが、昂輝はそれを悟らせないよう、より強くその体を抱き寄せた。
 これまでは部活一筋だった蒼介にとって、地下のバーなど、別世界の出来事のように感じるだろう。しかし、今の二人にとって、清潔な昼の世界の秩序は敵だ。自分たちを異常として排除しようとする光ではなく、得体の知れない隣人たちが肩を寄せる場所に身を委ねるしかなかった。
 「……行くぞ。路地裏を抜ければ、あと数十秒だ」
 昂輝はマサフミに短く合図を送り、再び蒼介を引きずるようにして歩き出した。  看板のない鉄扉の先。そこで交わされる言葉の中に、消えゆく親友を繋ぎ止めるための、次の一手があることを願うしかなかった。

 辿り着いた雑居ビルは、築年数が相当経過しているようだ。入口に埋め込まれた定礎の看板には、二つ前の年号が刻まれている。
 ひび割れたタイルの壁に沿って、琥珀色の電球に照らされている、地下へ続く階段が伸びていた。
 「……ここだ」
 昂輝は、急で狭い階段を、蒼介を支えながら一段ずつ慎重に下りていった。
 階段の底には、分厚い鉄の扉が鎮座していた。看板はない。扉の隙間から、ベース音の重い響きと、長年染み付いた煙草の匂いが、夜気と共に漏れ出していた。
 昂輝が重いノブを回すと、カランという乾いたベルの音が、国道の喧騒を完全に遮断した。店内は、薄暗い間接照明に包まれていた。数人ほどの客が、酒のグラスを前にして、静かにモニターに映るスポーツニュースを眺めている。奥の方からは、ダーツがボードに突き刺さる「ドスッ」という、鋭くもどこか心地よい振動音が響いてきた。
 「いらっしゃい……って、昂輝か」
 カウンターの奥でグラスを拭いていた、三十代半ばくらいの顎鬚を蓄えた大柄な男が顔を上げた。実園という名の、店主の男だ。
 かつて昂輝がパルクールの動画を見せた際、その跳躍の軌道を見て「物理法則への喧嘩の売り方がいい」と笑った男だった。
 「……わりい、マスター。ちょっとな」
 昂輝が掠れた声で言うと、マスターの鋭い眼光が、昂輝の背後にいる、顔色のない蒼介と、その足元に控える巨大なシェパードへと向けられた。
 普通の店なら、こんな時間に高校生と大型犬の取り合わせなど、門前払いだろう。だが、この路地裏の日常を生きる男は、二人の異常なまでの切迫感を一瞬で読み取ったようだった。
 「……警察か? さっき外が騒がしかったが」
 「それ以上に、厄介なことになってんだ」
 昂輝は嘘をつかなかった。マスターはしばし沈黙し、それから顎で店の最奥にある、一段低くなったソファ席を指し示した。
 「マサフミも連れてけ。……客の酒をこぼすなよ」
 「……ありがとう」  
 昂輝はどぎまぎしている蒼介を促しながら、店の奥へと進んだ。
 「よお昂輝。……なんだ、随分とボロボロの連れを連れてるな」
 途中、カウンターの端で、ヘッドホンを首にかけた若い男がスツールを回して陽気に声を上げた。派手な原色のパーカーを羽織り、人懐っこい笑顔を浮かべたその男は、昂輝に動画編集の基礎を叩き込んだフリーランスの映像クリエイター、槇原だった。二十二歳で本業は大学生だが、腕は確かで、昂輝にとっては年の離れた兄のような存在だ。
 「どうやら高校球児ってところだな。昂輝、おまえの学校の友達か?」
 槇原は、蒼介が背負っているリュックと、短く刈り上げた髪や、よく日に焼けた肌を見て、すぐに彼のことを見抜いたようだった。
 「……ちわ」
 蒼介は消え入るような声で、ぺこりと頭を下げる。普段から、どんなときでも礼節をわきまえるようにと叩き込まれている癖だった。
 蒼介は初めて踏み入る夜の世界の空気に気圧され、視線を彷徨わせている。野球のグラウンドではどうやったって味わえない、人々の喧騒とアルコールの匂いが混ざり合った、濃密で、けれどどこか優しい暗がり。
 実園は何も言わず、カウンターの奥で手際よく二つの厚手のグラスを用意した。氷がカランとぶつかる硬質な音が、重低音の流れる店内に涼やかに響く。彼は無造作に、しかしどこか丁寧な手つきで、オレンジジュースを注ぎ込んだ。
 「……ほら。サービスだ」
 ゴトリと重い音を立てて、二人の前のローテーブルにグラスが置かれる。
 「いいのかよ、マスター」
 昂輝が尋ねると、実園はぶっきらぼうに応えた。
 「ガキに酒は出せねえし、そいつの顔色を見てると、こっちの酒が不味くなる。……ビタミンでも摂って、少しは血色を取り戻せ」
 実園は再びカウンターの奥へと戻っていった。
 蒼介は、両手でその冷たいグラスを包み込んだ。表面には細かな結露がつき始めており、その水滴が指先に触れた。本来なら「冷たい」と感じるはずの刺激。だが、氷水の中に足を浸しているかのような今の蒼介にとっては、その結露の冷たささえも、体温よりはずっと温かいもののように感じられた。
 「飲めよ、ソウスケ」
 昂輝は自分のグラスを一気に煽った。喉を鳴らして飲み干すその様子を見て、蒼介も、グラスを口に運んだ。
 冷たい液体が舌の上を滑り、喉を通っていく。オレンジの強い酸味と、人工的ではない果実の甘み。それは、いつも飲むジュースよりずっと鮮明に脳を揺さぶった。
 「……濃いな」
 「だろ? ここのジュース、そこらの自販機のとはワケが違うんだ」
 昂輝が笑う。その笑顔を見て、蒼介は自分がまだ「味」を感じられることに、喉の奥が熱くなるような安堵をおぼえた。
 「……おい、昂輝」
 カウンターの端で、槇原がふいに声を落とした。彼の視線は、蒼介の持っているグラスの底に向けられている。
 「……そのグラス、影が映ってねえぞ」
 蒼介が息を呑み、手元を見た。テーブルに落ちたグラスの影があるはずの場所。そこには、昂輝のグラスをおなじように、ガラスの歪みや液体の揺らめきが映し出されているはずだった。だが、まるで空間を切り取られたように何もない。蒼介の手が触れた場所から、物質の影さえもが、彼の肉体に吸い込まれて消えていたのだ。
 「……まじかよ。レンダリングミスなんてレベルじゃねえ……」
 槇原の声が、冷たく店内に響いた。彼は身を乗り出し、ヘッドホンを首にかけたまま、蒼介をまじまじと見つめた。
 「昂輝と、球児クン、オマエらが通ってる高校は、永和だったか?」
 「……ああ、そうだ。永和だ」
 昂輝の問いに、槇原は手元のスマートフォンの画面を素早くスワイプした。バックライトの青白い光が、彼の整った顔立ちを無機質に照らし出す。
 「じゃあ、ホントに存在してんのか? 『影喰い』の怪談ってのは」
 蒼介の喉仏が、ごくりと大きく動いた。驚きに目を見張っているその隣で、昂輝が口を開く。
 「マッキーさん、知ってんのか?」
 「ああ。ネットの掲示板や、オレの知り合いの都市伝説好きな動画屋界隈でも噂になったことがある。自分が住む街の学校にまつわる噂なんて、オレからしたら餌そのものだからな」
 槇原はスツールを回し、二人にスマートフォンの画面を向けた。動画サイトに投稿されている、都市伝説をネタにした動画。
 「……噂じゃ、放課後のグラウンドや誰もいない教室で、ふいに『影を毟り取られる』らしい。最初はみんな、ただの行方不明か、受験のストレスで逃げ出した奴の話だと思ってた。でもな、共通して囁かれてる奇妙なディテールがある」
 槇原は画面を止め、ちょうど映し出された字幕の一行を指差した。

 『——影を失った者は、七十二時間以内にそれを取り戻さねば、世界から完全に削除される』

 「三たびの落日……」
 蒼介が呟いた。それは、自分たちがさっきコンビニの前で調べた、あの散文詩のようなサイトの内容と合致していた。
 「ソウスケは、なんつうか、完全に影をとられる前に、引きちぎったんだ。だから最初は右足だけがおかしくなっちまって……」
 「……引きちぎった、か。そいつは新しいな。バグったデータを無理やり切り離したってわけだ」
 槇原は感心したように、あるいは未知の映像素材を見つけたかのような手つきで、自分の顎をさすった。彼のスマートフォンの画面の中では、無機質なテロップが「削除される存在」という言葉を虚しく明滅させている。
 「オレの解釈で例えるならば、この現象はレンダリングエラーだな。世界の処理速度が追いつかなくなって、存在そのものをバックグラウンドとして消去しちまうんだ。影を喰われたヤツは、まず周囲から存在を忘れられ、最後には自分が自分であるという記憶さえ失って、この世界のサーバーからログアウトさせられる」
 槇原は、影の消失した蒼介の手元のグラスを、プロの編集者としての冷徹な観察眼で射抜いた。
 「ただの都市伝説だと思ってたんだけどな……。リアルは、フィクションよりずっと質が悪いな。おい、球児クン」
 「……はい」
 「自分の名前、それだけは絶対忘れんじゃねえぞ。それはオマエがこの世界にログインし続けるための唯一のIDだ。それを手放した瞬間、オマエはただの『ノイズ』として削除されるぞ」
 槇原の冗談めかした、けれど真剣な忠告が、ベース音の響く店内に重く落ちる。  蒼介は、震える唇を噛み締めて頷いた。
 ——佐野蒼介。さの、そうすけ。心の中で、自分の名前を呪文のように繰り返す。ほんとうに忘れてしまうのだろうか。だって、自分の名前だぞ?
 自分という存在が「一冊の本」のようなものだとしたら。これまでの歩みや、積み重ねてきた努力が、確かな重みを持ってそこに綴られているはずだった。けれど今は、そのページの一枚一枚が、何者かによって破り捨てられていっているようなものか。野球部のエースという肩書きも、真面目な生徒という評価も、かつては自分をかたち創る大切なパーツだったはずなのに、自分が自分であるという実感が、薄い霧の中に溶けていくみたいだ。
 このまま、自分という人間を彩るページが空白になってしまうのではないかという、底なしの恐怖が背筋を伝った。
 「……マッキーさん」
 蒼介の隣で、昂輝が身を乗り出した。その瞳には、親友を世界に繋ぎ止めようとする必死な想いが滲み出ている。
 「さっきスマホで調べたんだ。『三たびの落日』までに、産土の廃墟……つまり、百キロ先にある永和高校の旧校舎跡に行かなきゃならねえって。……ネットの噂でも、そこがゴールになってんのか?」
 槇原はヘッドホンを首にかけ直し、スマートフォンの画面を指先で弾くように操作した。
 「百キロ、ね……。ああ、確かにあるぜ。オカルト板のディープなスレッドには、その旧校舎がバグのオリジンだって説がな。影を喰われたヤツが最後に辿り着く場所、あるいは、唯一のリカバリが可能な場所として語られてる」
 「やっぱり、そこに行けばソウスケは助かるんだな」
 「確証はねえよ。そもそも、その噂を書き込んだヤツが今もこの世界にログインしてるかどうかも怪しいもんだ」
 槇原は残酷なまでに現実的な言葉を投げ、それから蒼介の顔をまじまじと見つめた。
 「だがな、球児クン。オマエのその右足……いや、全身の解像度が落ちてきてるのを見る限り、そこに行くしか道はなさそうだ。だが今の状態で、しかも警察の目を盗んで移動するには、相当イレギュラーな動きが必要だぜ。それに昂輝。そこに行けばハイおしまい、ってほど単純な話じゃねえはずだ」
 槇原は画面を消し、テーブルの上に置かれた影のないグラスを指差した。
 「いいか。さっきから見てて分かった。球児クンの解像度を繋ぎ止めてるのは、昂輝、おまえの熱だ」
 「おれの、熱?」
 「ああ。オマエが触れているあいだだけ、球児クンのアウトラインが辛うじて安定してる。逆に言えば、オマエが離れたら、球児クンはあっという間に溶けて消える。……さらに厄介なことに、データの破損を止めるには、常にシステムを回し続けなきゃならない。止まれば、そこからバグが広がる」
 槇原の言葉を裏付けるように、昂輝は蒼介の肩を抱く腕に力を込めた。自分の体温が、まるで砂漠が水を吸い込むように蒼介に奪われていくのが分かる。けれど、その「奪われている」という感覚こそが、今、蒼介がここにいる唯一の証だった。
 「つまり、止まらずに、おれがこいつに熱を与え続けながら、百キロ先まで行けってことか」
 「そういうことだ。オマエがエンジンになり、球児クンに熱を供給し続ける。球児クンもまた、自分を消滅させないために、自分でも熱を作り出す。そのためにおまえらは自分の力で、旧校舎跡に向かわなきゃならねえ。まさに決死のロードレースだな」
 その言葉を聞いた瞬間、カウンターの奥で静かにグラスを拭いていた実園が、手を止めた。
 「……ガソリン、入れてくか」
 「え?」
 蒼介が顔を上げると、実園はぶっきらぼうに顎で、ダーツボードの横にある小さなコンロを指し示した。
 「百キロ走るんだろ。ジュース一杯で走れる距離じゃねえ。止まれば消えるってなら、止まらずに済むだけのエネルギーを今ここで詰め込んどけ。……昂輝、そいつをしっかり座らせとけ。熱を逃がすな」
 実園はそう言うと、手際よくフライパンを火にかけ始めた。ほどなくして、香ばしいニンニクの香りと、肉を焼く生々しい音が、酒と煙草の匂いに満ちた店内に広がり始める。
 「……行きます。行かなきゃならないんです」
 蒼介は、自分の声がまるで遠くの誰かが喋っているように響くのを感じながらも、はっきりと言い切った。「名前を……自分が誰だったかを完全に手放す前に。俺、このまま、誰にも気づかれないまま削除されるなんて、絶対に嫌だ」
 昂輝は、蒼介の冷え切った手に自分の掌を重ねた。
 「……当たり前だ。熱なら、おれがいくらでもやる。百キロだろうが何だろうが、止まらずに駆け抜けてやるよ」
 槇原がスツールから下り、昂輝の肩を叩いた。
 「いい覚悟だ。……だがな、昂輝。おまえの熱を分け与えるってことは、おまえ自身も削られるってことだ。共倒れになるんじゃねえぞ」
 実園が、湯気を上げる二皿のナポリタンを、ローテーブルに置いた。ジュースのお代わりと、ナゲットやポテト、それに山盛りのピラフも用意してくれた。暴力的なまでの赤色。強烈な食欲をそそる香り。食べ盛りのふたりはジャンキーな料理を見て、ごくりと喉を鳴らした。
 「ありがとうございます! いただきます!」
 二人は、自分たちが今、これまでの人生で最も過酷な、そして唯一の命を賭けた試合に臨もうとしていることを、本能で理解した。
 「そうだ、昂輝、スマホを貸せ。球児クンも」
 フォークを動かす手を止め、昂輝は怪訝そうに眉を寄せたが、槇原の射抜くような視線に押されて、ポケットから端末を取り出した。蒼介も、リュックから自分のスマートフォンを取り出して差し出す。
 槇原は二つの端末を受け取ると、手慣れた様子でまずは設定画面を高速で叩いた。 「位置情報はオフ、履歴も全消去。……ここからはデジタル上の足跡を消す。おまえらが今どこにいるか、親にも警察にも追わせねえよ」
 槇原は昂輝のスマートフォンのメッセージアプリを開いた。画面をタップして文字を打ち込んでいる。誰かとメッセージのやりとりをしているようだったが、しばらくして顔を上げた。
 「……よし、昂輝のほうはこれでいい。『パルクールの練習で怪我した仲間を病院に送るから、今夜はそいつの家に泊まる』。昂輝、おまえの親父さん、案外あっさり信じたぞ。おまえ、普段から素行が自由すぎるんだよ」
 槇原は鼻で笑いながら、今度は蒼介のスマートフォンに指を走らせた。蒼介の画面には、母親からの着信履歴と、心配を募らせるメッセージが並んでいた。普段は真面目な高校球児が試合に負けた日に帰ってこない。なにかあったのかと心配するのも無理はない。
 槇原はスツールに深く座り直し、蒼介の画面に並ぶ母親からの着信履歴と、悲痛なメッセージを冷徹に眺めた。
 「……球児クンのは、マスターに頼もう。オレより落ち着いた声のほうが説得力ある」
 槇原から端末を渡された実園は、布巾で手を拭い、低い、しかしどこか包容力のある声で蒼介の母親に電話をかけた。
 「……ああ、佐野蒼介くんのお母さまですか。夜分に失礼、私、永和高校野球部OBの実園と申します」
 受話器から漏れる母親の悲鳴に近い声。それを、実園の低く落ち着いた声が制した。そのトーンは、先ほどまで昂輝たちに向けていたぶっきらぼうなものとはまるで別人のようだった。厳格で、それでいて教え子を想う慈愛に満ちたような重みがあった。
 「……落ち着いて聞いてください。蒼介なら、今私の目の前にいます。……ええ、無事ですよ。ただ、今日の負け方はあいつにとって、大人が想像する以上にこたえたようです。さっき、街を彷徨っていたところを真壁昂輝くんが見つけて、私の店まで連れてきましてね。ああ、店というのは、駅前でやっているダーツバーでしてね。ええ、私は昂輝くんの知り合いでもあります」
 実園は蒼介の蒼白な横顔を一瞥し、言葉を継ぐ。
 「……蒼介くん、今は一言も喋りません。魂が抜けたような顔で一点を見つめたまま、泥のように固まっています。奥さん、私の経験上言わせてもらいますが、今の蒼介くんをそのまま家に帰しちゃいけない。追い詰めすぎれば、二度とマウンドに戻れなくなるかもしれない」
 実園の言葉は、蒼介の母親が最も恐れ、そして最も危惧している「息子の心の折れ」という急所を的確に、そして力強く突いた。
 「……ええ、ですから私が預かります。私の実家……山奥にある知人の寺で、三日間ほど静養をさせて、精神の立て直しをさせます。あそこは携帯も一切禁止、外部との接触も断たれますが、今の蒼介くんにはそれくらいの静寂が必要です。……ええ、学校には伏せておきましょう。エースが精神的に参っているなんて噂が広まれば、それこそ蒼介くんの将来に傷がつくかもしれませんからね。それに、いまは夏休みです。傷心を癒すためにゆっくりする時間は、いくらでもあるでしょう」
 実園の嘘は、あまりにも完璧だった。野球という世界の厳しさと、親が息子に抱く「静かに守ってやりたい」という自尊心を利用した、残酷で優しい方便。電話の向こうで母親が、安堵と、そして「プロに任せるしかない」という諦めの混じった涙声に変わるのを確かめると、実園は静かに通話を切り、スマートフォンをテーブルに放り投げた。
 「……これで三日は稼げる。『寺での修行』なら、スマホを持てない理由も、場所の特定を急がない理由もつく。だが、これが限界だ」
 「マスターとマッキーさんがここまでやってくれたんだ。おれたちは、止まらずに走り抜けるしかねえ。……食え、ソウスケ。修行だろうが何だろうが、おれが絶対、最後まで完走させてやるからよ」
 昂輝の力強い咀嚼の音を聞きながら、蒼介も震える手でフォークを握った。地下のバーに漂う、ニンニクの香りとケチャップの匂い。だが、その仮初めの安寧こそが、百キロ先へと続く地獄の号砲だった。蒼介は意を決して、熱い麺を口へと運び、その濃い味を噛み締めた。喉を通る熱さだけが、今、自分がまだこの世界に踏みとどまっている証だった。