4
県道は時折車が行き交っていて、ふたりを追い越していった車両のテールランプが遠くなっていくたびに、自分たちが世界に取り残されていくような錯覚をおぼえる。
十五分ほど前に、昂輝に渡された水の入ったペットボトルを、蒼介は右手にぎゅっと握りしめていた。
時刻は夜の八時を過ぎたばかりだというのを、ポケットに入れていたスマートフォンを見て確認した。
「……なあコウキ、親に連絡しないでいいのかな……」
蒼介は通知の量に驚いて、思わず前を歩く昂輝の背中に言葉を投げかけた。
「根掘り葉掘り聞かれたら、説明すんのがめんどくせえよ。連絡来てんなら、無視してろ」
その判断が正しいものなのかどうか、直ちには判断出来なかった。何気ない言葉のやり取りの片鱗を拾ってみても、いつも自身に満ちあふれているようにみえる昂輝がそう言っているのなら、自分もその通りにすれば間違いないような気もする。
蒼介は手に持っていたスマートフォンを一瞥すると、電源を切ってリュックの中にしまい込んだ。
景色はまだまだ見知った場所だ。人の手が入った道路は歩きやすいが、昂輝にとっては面白みがなかった。
昂輝の視界は、常に無意識の計算に支配されている。道端に等間隔で並ぶ電柱の足場、民家のブロック塀の角、街路樹の枝。それらは彼にとって、単なる風景の一部ではなく、目的地へと至るための無数の線として立ち上がっていた。
パルクールという行為は、昂輝にとって呼吸と同じだった。
たとえばいまの建物が密集している場所は、コンクリートのジャングルのように感じられる。重力を敵と見なすのではなく、慣性や摩擦を手なずけ、己の肉体を空間の中に解き放つこと。最短距離を割り出し、障害物を跳躍や回転でいなす瞬間に、昂輝は自分が世界と対等に渡り合っているという実感を抱けた。
だからこそ、今のこの「歩行」という作業は、彼の筋肉にとってひどく不自然な制約だった。アスファルトの上を時速数キロで漫然と進むのは、彼にしてみれば、空を飛べる翼を畳んで泥濘を這いずり回るようなものだ。
一見、越えるのは不可能そうな高低差に挑むスリルがたまらない。目の前のガレージの屋根に指をかけ、一気に視点を数メートル高く上げたくなる。
一歩を踏み出すたびに、アキレス腱が、大腿四頭筋が、不満げな声を上げている気がした。アスファルトはただ固く、足裏を跳ね返してきて、ただ単調だった。
昂輝は、自分の右腕がわずかにピクリと動くのを感じた。無意識のうちに、数メートル先の自動販売機の上を蹴って、隣のビルの室外機へと飛び移るルートを計算していたのだ。指先が、コンクリートの冷たさとざらざらとした感触を空想の中で捉え、重心がわずかに前へ、上へと移動しようとする。
昂輝はその衝動を理性の力で無理矢理抑え込んだ。今はそんなことをしている場合ではない。目的の場所へ、一刻も早く着かなければならない。大きく息を吐き、視線を地面へと落とした。
「大丈夫か、ソウスケ」
昂輝が尋ねると、蒼介はこくりと頷いた。「体が冷えている以外は、今のところ変わりない」
こういうときでも、人は自分の状況に慣れるものなのだろうか。蒼介は学校にいたときよりはたしかな足取りで地を踏みしめていた。
ふたりがいま歩いている場所はバス道にもなっているようで、これまで何台かの路線バスが脇をかすめていった。
「しばらくはこの道をずっとまっすぐ行くだけだからな」
「俺にスマホは仕舞っておけって言ったくせに、おまえは見てんのかよ」
「仕方ねえだろ。ナビ代わりだよ」
蒼介にスマートフォンの画面を見せる。ナビアプリの指示は十キロ以上道なりに進めと表示されていた。
「いまから十キロ、歩けるか?」
「ああ」
昂輝に尋ねられて、蒼介はふとマサフミを見た。「俺は大丈夫だけど、マサフミは……」
「犬はおれたちより体力あるんじゃねえか。案外長い散歩だってわくわくしてたりしてな」
な? と昂輝はしゃがみ込んでマサフミの頭を撫でた。すると、直後マサフミが先頭を切って歩き出したので、慌ててふたりはそれに続く。
「モタモタしてねえで、さっさと先に進めって言ってんだぜ、きっと」
マサフミはぐいぐいとリードを引っ張ってくる。油断をしていると、昂輝ですら体がよろめきそうになるくらいだ。
「リュック重くないか?」
蒼介が背負っているリュックには、普段の部活の荷物に加えて、先程昂輝が調達してきた飲食物が入っている。彼はそれを文句も言わずに運んでくれていた。
「俺のせいでお前に迷惑かけてんだ。これくらい、運ぶよ」
「迷惑とか言うんじゃねえよ。でも、ありがとな」
そのあとに続く言葉を、昂輝は喉の奥底にしまい込んだ。おかれている状況に、スリルを感じている自分がいる。普段から、パルクールという危険と隣り合わせのような競技に熱中しているのだ。日常の中に紛れている刺激を、すべて取り込んで凝縮したような今を面白いと感じてしまっているとしても、自分の本能に忠実に生きているだけだと言えるのだろうか。
住宅街が立ち並ぶ県道は、突き当たって国道にぶつかった。スマートフォンのナビは、この国道を北に進むように示している。十キロの道程を歩いた二人は、さほどの疲労感もなく、まだ先に進めそうだと頷き合った。
片側四車線もある広大なアスファルトを、長距離トラックのディーゼル音が暴力的に震わせて通り過ぎる。道沿いには、目が眩むほど高輝度なLED看板を掲げたメガチェーンのドラッグストアや、深夜営業のフィットネスジム、煌々と明かりを灯すファミリーレストランが、途切れることなく連なっていた。
そのレストランの看板を見たからだろうか、蒼介の腹が大きく鳴った。彼はそれを誤魔化そうとしたが、その音は昂輝にもマサフミにも聞こえていたようだ。
「腹減ったな」
コンビニエンス エイワを出発してから、ほとんど歩きずくめだった。道中では水を飲んだだけだ。
「ちょっと休憩すっか」
スマホ上の地図を確認すると、細道に入れば、小さな公園があるみたいだ。ふたりは頷き合って、そこを目指した。
誰もいない公園のベンチに座る。マサフミはそばにあった水道の前で跳びはねはじめた。喉が渇いているのだろう。昂輝が蛇口をひねってやると、出てきた水をすごい勢いで舐め取るように飲んでいた。
「おれらもメシにしよう。おにぎりがリュックに入ってるから出してくれよ」
「わかった」
蒼介は、リュックを太腿の上に置いてチャックを開けた。取り出したおにぎりのパッケージに指をかけたが、思うように力が入らない。指先の皮膚が厚くなったような、あるいは分厚い手袋越しに物を触っているような、ひどくもどかしい感覚。野球で培ったはずの繊細な指先の感覚が、砂時計の砂のようにさらさらとこぼれ落ちていくのが分かった。
「あれ? ……手が、うまく動かない」
蒼介の呟きは、遠くで唸りを上げる国道の走行音に掻き消されそうだった。
昂輝はマサフミの頭を撫でる手を止め、蒼介の横顔をじっと見つめた。
「貸せ。おれが開けてやる」
昂輝の手が触れた瞬間、そこから暴力的なまでの熱が伝わってきた。夏の夜気をさらに熱く塗り替えるような、生々しい生命の温度。蒼介はその熱に一瞬だけ安堵したが、同時に、自分の指先すらも言うことを聞かなくなっているのかと、奥歯を噛み締めた。
「ほら、昆布。おまえの大好物だぞ」
「あ、ああ、ありがとう」
蒼介は、昂輝から受け取ったおにぎりを頬張った。米はひんやりと冷たかったが、海苔や具の昆布と重なり合って空腹に染み渡った。ガサガサとがさつな音を立てながら、昂輝も大きな口を開けておにぎりを囓っている。ほんの二口で詰め込んだあと、もぐもぐと咀嚼しながら蒼介の様子をそっと観察する。
蒼介は元々口数が多いタイプではないが、今日はいつにも増して寡黙を貫いている。
「いま、どんな感じだ? おまえの体……」
蒼介がおにぎりを食べ終わるのを待って、体の具合を尋ねる。
「足はずっと水の中に浸しているみたいに冷えている。動かせるけど、ちゃんと意識して動かさないと言うことを聞いてくれないみたいな感じだ」
「おれの手を握り返してみろ」
昂輝はそう言って、蒼介の左手を掴んだ。ほどなくして返ってくる彼の握力は、いつもと変わらないように思える。蒼介も驚いたような表情で、互いに顔を見合わせた。
「あれ? ……さっきは上手く手を動かせなかったのに……」
「いまはどうってことないのか?」
「うん」
蒼介は幼い子供のようにこくりと頷いた。「なんでだろ。メシ食ったからかな」
先程食べたおにぎりは空腹だった胃の腑に落ちていった。食べ進めるうちに、内臓が動き出し、微かな熱が体内に宿るのを感じた。
「……なあ、コウキ。こうしてメシを食ってれば、俺の体もまた熱を作るだろ。そしたら……お前に頼らなくても、呪いの進行を止められるんじゃないか?」
蒼介が縋るように投げかけた言葉に、昂輝は咀嚼を止め、冷ややかな視線を向けた。
「……さあな。でも、おれは多分そんなに甘くねえと思うぞ」
昂輝は、自分でも正解がわからないまま、言葉を吐き捨てた。「さっきのサイトに書いてあっただろ。『他者の持つ生の残火が唯一の楔となる』って。……おまえがさっき手を動かせなくなったのは、おれが離れたからかもしれねえ。メシを食っても、おまえの中の熱は、その影の隙間からどんどん逃げちまってると考えたほうがいい。……バケツの底が抜けてるみたいなもんだ」
昂輝は、蒼介の冷え切った手を力強く握ったまま、その不自然な感触を確かめるように指を動かした。
「おれにも理屈はわかんねえよ。でも、おまえだけじゃダメなんだ。……おれがおまえのそばにいるって事実が重石になってなきゃいけないんだよ」
「……おまえが、重石に」
「そうだ。だから、メシを食って体力つけんのはおまえの義務だけど、おまえをこっち側に繋ぎ止めるのはおれの役目だ。……いいから、もう一個、さっさと食え。食ったら少しでも先に進むぞ」
昂輝の言葉は、確信に満ちた説明などではなかった。それは、親友が消えかけているという異常事態を前にして、自分を奮い立たせるための「言い聞かせ」に近いものだった。
——おれがこいつを救うんだ。
その想いが引き起こした独りよがりの妄想なのか、呪いの進行を食い止めるための正しい推測なのか、いまのふたりにはまだなにも分からなかった。
十分ほどの休息を終え、二人は再び国道へと戻った。
「……マサ、あんまり引っ張るな」
昂輝は、歩きはじめた途端落ち着きを欠き始めたマサフミのリードを短く手に巻きつけた。マサフミは、先ほどから国道の先ではなく、時折、背後の闇や蒼介の足元を気にするように鼻を鳴らしている。ジャーマン・シェパードの鋭い感性は、主人の昂輝さえ気づかないなにかを嗅ぎ取っているかのようだった。
そのときだった。背後の闇から、それまでの長距離トラックの轟音とは明らかに質の違う、抑制されたエンジンの音が近づいてきた。アスファルトの上に、鋭い二条の白い光軸が伸び、二人の影を前方のビルへと長く突き刺した。
白黒のツートンカラーを纏った車両が、歩道の縁石に沿うようにして、滑らかに速度を落とした。ゆっくりと、獲物を吟味するかのような慎重さで、パトカーが二人の真横に並ぶ。ウィーン、という電気的な音と共に、パワーウィンドウが下りた。
車内に座っていたのは、二人とも二十代半ばだろうか、まだ制服の生地に新しさが残っている若い警察官だった。彼らの目は、ベテランのような老獪な受け流しを知らない。その真面目さゆえの鋭い眼差しが、深夜の街を歩く「異物」としての昂輝たちを冷徹に捉えていた。
「はい、ちょっと止まって。こんばんは」
助手席から降りてきた警官が、事務的な、しかし一切の妥協を許さない口調で声をかけてきた。昂輝は足を止め、蒼介とマサフミを自分の体で隠すように立ち塞がる。リードを通して掌から伝わるシェパードの筋肉の強張りが、そのまま自分の神経に同期していく。
「夜分に悪いね。君たちは高校生かな。この時間は、もう補導の対象だよ」
運転席から回ってきたもう一人の警官が、腰の懐中電灯を引き抜いた。カチッ、と音がした次の瞬間、千ルーメンを超える暴力的な白光が、夏の湿った夜気を真っ二つに割り、蒼介の顔面を真っ向から捉えた。
蒼介は眩しさに目が眩み、思わずサッと目を逸らした。
「……君、顔色が尋常じゃないな。体調でも悪いのか?」
「……あ、いや……ちょっと疲れてて……。昼間に野球の、試合があって。負け、たんです」
蒼介の声は、か細かった。疲れているなら家で休まずに、なぜこんな時間に外にいるんだとツッコまれたとしたら、また答えに詰まってしまう。墓穴を掘ったか? と背中に冷や汗が落ちた。
「試合ね。負けたショックか?」
若い警官は、その生真面目さゆえに、蒼介の言葉に深く切り込んではこなかったが、一方で目の前の違和感を放置することができなかった。彼は光の輪を小さく絞り、ゆっくりと、しかし確実に、蒼介の足元へと視線を這わせていく。
店舗看板のネオンが複雑に混ざり合うアスファルトの上。懐中電灯の光が、蒼介の足元に落ちた影を射抜いた。
そこにあるはずの少年の輪郭が、膝から下を完全に失っている。影のような黒い染みは、蒼介の足首に重油のような密度で凝集し、その端がデジタルノイズのように不気味に震えていた。
「……なんだ、これは。おい、今の見たか?」
助手席の警官が、相方に声を投げた。その声には、未知の怪異に対する、生理的な拒絶が混じっていた。
「君、その足……。影が……いや、おい、応援を要請しろ。これは異常だ」
若い警官の指先が、恐怖を秩序で塗り潰そうとするように無線機へと伸びた。
その刹那、マサフミが、深い喉鳴らしと共に、警官に向かって剥き出しの牙を見せた。
「掴まれ、ソウスケっ!」
昂輝の叫びが、深夜の国道の騒音を切り裂いた。昂輝は蒼介の左腕を強引に引き寄せ、半ば担ぎ上げるようにして地を蹴った。正面はパトカーが塞いでいる。だが、昂輝の視界には、メガドラッグストアの巨大な看板の支柱と、隣接する古い雑居ビルの間に、まるで世界が呼吸を止めた隙間のように空いた、街灯のない細い暗がりの路地が映っていた。
「走れっ!」
それは命令に近い叫びだった。感覚を失った蒼介の右足が、石の杭となってアスファルトを削る。昂輝は、蒼介の全体重を自身の遠心力に乗せ、ガードレールを越えて、パトカーが絶対に入り込めない市街地の毛細血管のような暗い路地裏へと、心中するように飛び込んだ。
県道は時折車が行き交っていて、ふたりを追い越していった車両のテールランプが遠くなっていくたびに、自分たちが世界に取り残されていくような錯覚をおぼえる。
十五分ほど前に、昂輝に渡された水の入ったペットボトルを、蒼介は右手にぎゅっと握りしめていた。
時刻は夜の八時を過ぎたばかりだというのを、ポケットに入れていたスマートフォンを見て確認した。
「……なあコウキ、親に連絡しないでいいのかな……」
蒼介は通知の量に驚いて、思わず前を歩く昂輝の背中に言葉を投げかけた。
「根掘り葉掘り聞かれたら、説明すんのがめんどくせえよ。連絡来てんなら、無視してろ」
その判断が正しいものなのかどうか、直ちには判断出来なかった。何気ない言葉のやり取りの片鱗を拾ってみても、いつも自身に満ちあふれているようにみえる昂輝がそう言っているのなら、自分もその通りにすれば間違いないような気もする。
蒼介は手に持っていたスマートフォンを一瞥すると、電源を切ってリュックの中にしまい込んだ。
景色はまだまだ見知った場所だ。人の手が入った道路は歩きやすいが、昂輝にとっては面白みがなかった。
昂輝の視界は、常に無意識の計算に支配されている。道端に等間隔で並ぶ電柱の足場、民家のブロック塀の角、街路樹の枝。それらは彼にとって、単なる風景の一部ではなく、目的地へと至るための無数の線として立ち上がっていた。
パルクールという行為は、昂輝にとって呼吸と同じだった。
たとえばいまの建物が密集している場所は、コンクリートのジャングルのように感じられる。重力を敵と見なすのではなく、慣性や摩擦を手なずけ、己の肉体を空間の中に解き放つこと。最短距離を割り出し、障害物を跳躍や回転でいなす瞬間に、昂輝は自分が世界と対等に渡り合っているという実感を抱けた。
だからこそ、今のこの「歩行」という作業は、彼の筋肉にとってひどく不自然な制約だった。アスファルトの上を時速数キロで漫然と進むのは、彼にしてみれば、空を飛べる翼を畳んで泥濘を這いずり回るようなものだ。
一見、越えるのは不可能そうな高低差に挑むスリルがたまらない。目の前のガレージの屋根に指をかけ、一気に視点を数メートル高く上げたくなる。
一歩を踏み出すたびに、アキレス腱が、大腿四頭筋が、不満げな声を上げている気がした。アスファルトはただ固く、足裏を跳ね返してきて、ただ単調だった。
昂輝は、自分の右腕がわずかにピクリと動くのを感じた。無意識のうちに、数メートル先の自動販売機の上を蹴って、隣のビルの室外機へと飛び移るルートを計算していたのだ。指先が、コンクリートの冷たさとざらざらとした感触を空想の中で捉え、重心がわずかに前へ、上へと移動しようとする。
昂輝はその衝動を理性の力で無理矢理抑え込んだ。今はそんなことをしている場合ではない。目的の場所へ、一刻も早く着かなければならない。大きく息を吐き、視線を地面へと落とした。
「大丈夫か、ソウスケ」
昂輝が尋ねると、蒼介はこくりと頷いた。「体が冷えている以外は、今のところ変わりない」
こういうときでも、人は自分の状況に慣れるものなのだろうか。蒼介は学校にいたときよりはたしかな足取りで地を踏みしめていた。
ふたりがいま歩いている場所はバス道にもなっているようで、これまで何台かの路線バスが脇をかすめていった。
「しばらくはこの道をずっとまっすぐ行くだけだからな」
「俺にスマホは仕舞っておけって言ったくせに、おまえは見てんのかよ」
「仕方ねえだろ。ナビ代わりだよ」
蒼介にスマートフォンの画面を見せる。ナビアプリの指示は十キロ以上道なりに進めと表示されていた。
「いまから十キロ、歩けるか?」
「ああ」
昂輝に尋ねられて、蒼介はふとマサフミを見た。「俺は大丈夫だけど、マサフミは……」
「犬はおれたちより体力あるんじゃねえか。案外長い散歩だってわくわくしてたりしてな」
な? と昂輝はしゃがみ込んでマサフミの頭を撫でた。すると、直後マサフミが先頭を切って歩き出したので、慌ててふたりはそれに続く。
「モタモタしてねえで、さっさと先に進めって言ってんだぜ、きっと」
マサフミはぐいぐいとリードを引っ張ってくる。油断をしていると、昂輝ですら体がよろめきそうになるくらいだ。
「リュック重くないか?」
蒼介が背負っているリュックには、普段の部活の荷物に加えて、先程昂輝が調達してきた飲食物が入っている。彼はそれを文句も言わずに運んでくれていた。
「俺のせいでお前に迷惑かけてんだ。これくらい、運ぶよ」
「迷惑とか言うんじゃねえよ。でも、ありがとな」
そのあとに続く言葉を、昂輝は喉の奥底にしまい込んだ。おかれている状況に、スリルを感じている自分がいる。普段から、パルクールという危険と隣り合わせのような競技に熱中しているのだ。日常の中に紛れている刺激を、すべて取り込んで凝縮したような今を面白いと感じてしまっているとしても、自分の本能に忠実に生きているだけだと言えるのだろうか。
住宅街が立ち並ぶ県道は、突き当たって国道にぶつかった。スマートフォンのナビは、この国道を北に進むように示している。十キロの道程を歩いた二人は、さほどの疲労感もなく、まだ先に進めそうだと頷き合った。
片側四車線もある広大なアスファルトを、長距離トラックのディーゼル音が暴力的に震わせて通り過ぎる。道沿いには、目が眩むほど高輝度なLED看板を掲げたメガチェーンのドラッグストアや、深夜営業のフィットネスジム、煌々と明かりを灯すファミリーレストランが、途切れることなく連なっていた。
そのレストランの看板を見たからだろうか、蒼介の腹が大きく鳴った。彼はそれを誤魔化そうとしたが、その音は昂輝にもマサフミにも聞こえていたようだ。
「腹減ったな」
コンビニエンス エイワを出発してから、ほとんど歩きずくめだった。道中では水を飲んだだけだ。
「ちょっと休憩すっか」
スマホ上の地図を確認すると、細道に入れば、小さな公園があるみたいだ。ふたりは頷き合って、そこを目指した。
誰もいない公園のベンチに座る。マサフミはそばにあった水道の前で跳びはねはじめた。喉が渇いているのだろう。昂輝が蛇口をひねってやると、出てきた水をすごい勢いで舐め取るように飲んでいた。
「おれらもメシにしよう。おにぎりがリュックに入ってるから出してくれよ」
「わかった」
蒼介は、リュックを太腿の上に置いてチャックを開けた。取り出したおにぎりのパッケージに指をかけたが、思うように力が入らない。指先の皮膚が厚くなったような、あるいは分厚い手袋越しに物を触っているような、ひどくもどかしい感覚。野球で培ったはずの繊細な指先の感覚が、砂時計の砂のようにさらさらとこぼれ落ちていくのが分かった。
「あれ? ……手が、うまく動かない」
蒼介の呟きは、遠くで唸りを上げる国道の走行音に掻き消されそうだった。
昂輝はマサフミの頭を撫でる手を止め、蒼介の横顔をじっと見つめた。
「貸せ。おれが開けてやる」
昂輝の手が触れた瞬間、そこから暴力的なまでの熱が伝わってきた。夏の夜気をさらに熱く塗り替えるような、生々しい生命の温度。蒼介はその熱に一瞬だけ安堵したが、同時に、自分の指先すらも言うことを聞かなくなっているのかと、奥歯を噛み締めた。
「ほら、昆布。おまえの大好物だぞ」
「あ、ああ、ありがとう」
蒼介は、昂輝から受け取ったおにぎりを頬張った。米はひんやりと冷たかったが、海苔や具の昆布と重なり合って空腹に染み渡った。ガサガサとがさつな音を立てながら、昂輝も大きな口を開けておにぎりを囓っている。ほんの二口で詰め込んだあと、もぐもぐと咀嚼しながら蒼介の様子をそっと観察する。
蒼介は元々口数が多いタイプではないが、今日はいつにも増して寡黙を貫いている。
「いま、どんな感じだ? おまえの体……」
蒼介がおにぎりを食べ終わるのを待って、体の具合を尋ねる。
「足はずっと水の中に浸しているみたいに冷えている。動かせるけど、ちゃんと意識して動かさないと言うことを聞いてくれないみたいな感じだ」
「おれの手を握り返してみろ」
昂輝はそう言って、蒼介の左手を掴んだ。ほどなくして返ってくる彼の握力は、いつもと変わらないように思える。蒼介も驚いたような表情で、互いに顔を見合わせた。
「あれ? ……さっきは上手く手を動かせなかったのに……」
「いまはどうってことないのか?」
「うん」
蒼介は幼い子供のようにこくりと頷いた。「なんでだろ。メシ食ったからかな」
先程食べたおにぎりは空腹だった胃の腑に落ちていった。食べ進めるうちに、内臓が動き出し、微かな熱が体内に宿るのを感じた。
「……なあ、コウキ。こうしてメシを食ってれば、俺の体もまた熱を作るだろ。そしたら……お前に頼らなくても、呪いの進行を止められるんじゃないか?」
蒼介が縋るように投げかけた言葉に、昂輝は咀嚼を止め、冷ややかな視線を向けた。
「……さあな。でも、おれは多分そんなに甘くねえと思うぞ」
昂輝は、自分でも正解がわからないまま、言葉を吐き捨てた。「さっきのサイトに書いてあっただろ。『他者の持つ生の残火が唯一の楔となる』って。……おまえがさっき手を動かせなくなったのは、おれが離れたからかもしれねえ。メシを食っても、おまえの中の熱は、その影の隙間からどんどん逃げちまってると考えたほうがいい。……バケツの底が抜けてるみたいなもんだ」
昂輝は、蒼介の冷え切った手を力強く握ったまま、その不自然な感触を確かめるように指を動かした。
「おれにも理屈はわかんねえよ。でも、おまえだけじゃダメなんだ。……おれがおまえのそばにいるって事実が重石になってなきゃいけないんだよ」
「……おまえが、重石に」
「そうだ。だから、メシを食って体力つけんのはおまえの義務だけど、おまえをこっち側に繋ぎ止めるのはおれの役目だ。……いいから、もう一個、さっさと食え。食ったら少しでも先に進むぞ」
昂輝の言葉は、確信に満ちた説明などではなかった。それは、親友が消えかけているという異常事態を前にして、自分を奮い立たせるための「言い聞かせ」に近いものだった。
——おれがこいつを救うんだ。
その想いが引き起こした独りよがりの妄想なのか、呪いの進行を食い止めるための正しい推測なのか、いまのふたりにはまだなにも分からなかった。
十分ほどの休息を終え、二人は再び国道へと戻った。
「……マサ、あんまり引っ張るな」
昂輝は、歩きはじめた途端落ち着きを欠き始めたマサフミのリードを短く手に巻きつけた。マサフミは、先ほどから国道の先ではなく、時折、背後の闇や蒼介の足元を気にするように鼻を鳴らしている。ジャーマン・シェパードの鋭い感性は、主人の昂輝さえ気づかないなにかを嗅ぎ取っているかのようだった。
そのときだった。背後の闇から、それまでの長距離トラックの轟音とは明らかに質の違う、抑制されたエンジンの音が近づいてきた。アスファルトの上に、鋭い二条の白い光軸が伸び、二人の影を前方のビルへと長く突き刺した。
白黒のツートンカラーを纏った車両が、歩道の縁石に沿うようにして、滑らかに速度を落とした。ゆっくりと、獲物を吟味するかのような慎重さで、パトカーが二人の真横に並ぶ。ウィーン、という電気的な音と共に、パワーウィンドウが下りた。
車内に座っていたのは、二人とも二十代半ばだろうか、まだ制服の生地に新しさが残っている若い警察官だった。彼らの目は、ベテランのような老獪な受け流しを知らない。その真面目さゆえの鋭い眼差しが、深夜の街を歩く「異物」としての昂輝たちを冷徹に捉えていた。
「はい、ちょっと止まって。こんばんは」
助手席から降りてきた警官が、事務的な、しかし一切の妥協を許さない口調で声をかけてきた。昂輝は足を止め、蒼介とマサフミを自分の体で隠すように立ち塞がる。リードを通して掌から伝わるシェパードの筋肉の強張りが、そのまま自分の神経に同期していく。
「夜分に悪いね。君たちは高校生かな。この時間は、もう補導の対象だよ」
運転席から回ってきたもう一人の警官が、腰の懐中電灯を引き抜いた。カチッ、と音がした次の瞬間、千ルーメンを超える暴力的な白光が、夏の湿った夜気を真っ二つに割り、蒼介の顔面を真っ向から捉えた。
蒼介は眩しさに目が眩み、思わずサッと目を逸らした。
「……君、顔色が尋常じゃないな。体調でも悪いのか?」
「……あ、いや……ちょっと疲れてて……。昼間に野球の、試合があって。負け、たんです」
蒼介の声は、か細かった。疲れているなら家で休まずに、なぜこんな時間に外にいるんだとツッコまれたとしたら、また答えに詰まってしまう。墓穴を掘ったか? と背中に冷や汗が落ちた。
「試合ね。負けたショックか?」
若い警官は、その生真面目さゆえに、蒼介の言葉に深く切り込んではこなかったが、一方で目の前の違和感を放置することができなかった。彼は光の輪を小さく絞り、ゆっくりと、しかし確実に、蒼介の足元へと視線を這わせていく。
店舗看板のネオンが複雑に混ざり合うアスファルトの上。懐中電灯の光が、蒼介の足元に落ちた影を射抜いた。
そこにあるはずの少年の輪郭が、膝から下を完全に失っている。影のような黒い染みは、蒼介の足首に重油のような密度で凝集し、その端がデジタルノイズのように不気味に震えていた。
「……なんだ、これは。おい、今の見たか?」
助手席の警官が、相方に声を投げた。その声には、未知の怪異に対する、生理的な拒絶が混じっていた。
「君、その足……。影が……いや、おい、応援を要請しろ。これは異常だ」
若い警官の指先が、恐怖を秩序で塗り潰そうとするように無線機へと伸びた。
その刹那、マサフミが、深い喉鳴らしと共に、警官に向かって剥き出しの牙を見せた。
「掴まれ、ソウスケっ!」
昂輝の叫びが、深夜の国道の騒音を切り裂いた。昂輝は蒼介の左腕を強引に引き寄せ、半ば担ぎ上げるようにして地を蹴った。正面はパトカーが塞いでいる。だが、昂輝の視界には、メガドラッグストアの巨大な看板の支柱と、隣接する古い雑居ビルの間に、まるで世界が呼吸を止めた隙間のように空いた、街灯のない細い暗がりの路地が映っていた。
「走れっ!」
それは命令に近い叫びだった。感覚を失った蒼介の右足が、石の杭となってアスファルトを削る。昂輝は、蒼介の全体重を自身の遠心力に乗せ、ガードレールを越えて、パトカーが絶対に入り込めない市街地の毛細血管のような暗い路地裏へと、心中するように飛び込んだ。



