心音(パルス)150 〜明日が繋がる走痕〜

 3

 「どうすりゃいいんだよ……」
 八方塞がりだった。昂輝は小さく呟いた。なるべく蒼介の心情を逆撫でしないようにと考えたが、それでも不安を心に押し込めたままでいることはできなかった。
 「……ごめん、俺のせいで……。変なことに巻き込んじまって……」
 「うるせえぞソウスケ。そういうこと言うのは今後一切禁止だ」
 蒼介の言葉尻をひったくるように、昂輝は口を挟んだ。目が合う。その視線はすぐにサッとそらされて、二人のあいだに気まずい沈黙が漂った。
 「おまえがこうなったのには、きっとなにか理由があるはずだ。でもきっとどうにかなる。だから諦めんな」
 「でもどうやって……。どうしようもないんだろ」
 ここで押し問答を続けていても、なにも進まない。昂輝は歩きはじめた。夜の入口に差し掛かった時刻だというのに、相変わらず気温は高く、全身がじんわりと汗ばんでいる。その不快さをいつも通りに感じている余裕もない。ただ、相変わらず寒そうにしている蒼介の肩に、自分が羽織っていたシャツをかけてやる。半袖の、しかも薄手の生地では暖の取りようもないが、気休め程度には役立ちそうだ。
 「よし、まずは『影喰い』について、出来る範囲で調べてみるか」
 二人と一匹は、コンビニエンス エイワの前に設置されているベンチの側まで歩いてきた。店の明かりがぼうっと一行を照らし出し、ただそれだけのことなのに、蒼介はやけに安堵した。状況は変わらないが、店のガラスに映っている自分の姿を見て、まだ日常と繋がっていることを実感する。
 昂輝はベンチに座って、スマートフォンの画面を開いた。ブラウザの検索欄に、『影喰い 噂』と打ち込んでみる。
 「影喰い、永和高校、行方不明……。クソッ、ろくなのが出てこねえ」
 昂輝は忌々しそうに画面をスクロールした。スマートフォンのバックライトが、青白い光で彼の険しい顔を照らし出している。出てくるのは、匿名掲示板の数年前のスレッドや、誰のものかもわからない個人ブログの断片ばかりだ。どこまでが真実でどこからが創作の尾鰭なのかもわからない情報の羅列。だが、今の二人にとっては、それらすべてが毒々しい現実味を帯びて迫ってくる。ガセであっても真実であっても、出てくる情報のひとつひとつにすがりつきたい心地に襲われる。
 蒼介は、昂輝が貸してくれたシャツの裾をぎゅっと握りしめていた。
 アスファルトを白々と照らしている。そこに落ちている自分の影を、蒼介は見たくなかった。見れば、自分の存在が物理的に損なわれている事実を突きつけられるからだ。

 「……なあ、コウキ。俺さ、さっきまで何を考えてたんだっけ」
 蒼介の声は、カサカサに乾いていた。昂輝は指を止め、画面から顔を上げた。どくんと心臓が大きく揺れる。自分が蒼介の言葉に、激しく動揺したことがわかった。
 「はっ? ……おまえ、なに言ってんだよ! 自分のことだろ? なんでわかんねえんだよ!」
 「試合に負けたのは覚えてるんだ。でも、その……そのときに俺がなにを思ってたのかとか、みんなとした話の内容とか……、さっきまで、あんなに鮮明に思い出せてたはずのものが、急に遠くなった気がするんだ。まるで、誰かが書いた小説を読んでるみたいにさ。記憶の中の過去が、自分のことじゃないみたいなんだよ」
 昂輝は言葉を失った。この呪いは、ただ実体が消えてしまうだけということではない。その人間が積み上げてきたものが、この世界から削り取られていくということなのかもしれない。
 ふと、昂輝の目が画面の一箇所で止まった。リンクをタップしてみる。
 それは全国各地に点在している地域の伝承をまとめたと思しき、文字だけが並んでいる地味なサイトだった。
 そこでは、この世に存在している怪談の類いを都道府県別に分けて掲載しているようだった。試しに適当に県を選んでみる。
 昂輝でも聞いたことのある有名なものからそうでないものまで、情報量は申し分なさそうだ。昂輝は期待を込めて自分の住んでいる場所のリンクを押した。
 それは、拍子抜けするくらい簡単に見つかった。まるでなにかに誘導されているような不気味さも感じる。
 サイトには『影喰い伝説』という名称で、怪談が記載されていた。

『——影は、魂をこの世に繋ぎ止めるための錨である。影を喰らうモノに魅入られた暁には、まず己を定義する記憶を失い、やがて重力を失い、最後には世界の隙間へとこぼれ落ちる。ただし、その浸食をいっとき食い止めるには、他者の持つ(せい)の残火が唯一の(くさび)となる。呪いを防ぐには、失われゆく欠片がどこへ運ばれたかを知らねばならない。欠片は、産土(うぶすな)の廃墟、日の当たらぬ深奥(しんおう)へと惹かれゆく。三たびの落日。それを過ぎれば、存在の糸は永久(とわ)に断たれるであろう』

 黙読しても、頭の中になかなか言葉が入ってこず、昂輝は何度かその文章を音読した。虚飾を交えたような表現では、取っ付き難い。しかしこれは手がかりだということは分かる。
 昂輝は、スマートフォンの画面を食い入るように見つめた。
 「……他者の持つ生の残火が唯一の楔となる」
 あらためて声に出して読んだ瞬間、先ほどグラウンドで無意識に行っていた自分の行動の意味を理解した。蒼介の腕を掴み、その冷気に耐えながら彼を引きずったこと。今、自分のシャツを蒼介に貸していること。それらが、図らずも蒼介をこの世に繋ぎ止めるための延命措置になっていたのだ。
 「……生の残火、だと」
 昂輝の掠れた声が、コンビニの室外機の低い唸りに混じって消えた。それは情緒的な意味などではない。単なる「他人の体温」を、呪術的な機能として言い換えただけの、冷酷な生存条件だった。蒼介の肉体から熱が奪われ、存在が凍てついていくのを、昂輝自身の熱を分け与えることで、進行を緩和し続けろと言っているのだ。
 「ソウスケ、これだ。……おれがおまえの近くにいる限り、おまえはまだ消えない」
 昂輝はそう言って、空いているほうの手で、蒼介の冷え切った左手を力任せに握りしめた。
 「……ああ、あったかいな」
 蒼介は眉を八の字に曲げた。だが、その瞳に「助かった」という安堵の色はない。昂輝の手から伝わる熱が、まるで深い海の中で見つけた細い命綱のように、今の自分を辛うじてこの世に繋ぎ止めていることを、彼は生理的な恐怖と共に実感していた。
 「ったく、回りくどい書き方してんじゃねえよ。うぶすなのはいきょ……、みたびのらくじつ……。せめて誰でも分かりやすいように解説くらい入れとけっつーの」
 「なんか、ゲームのダンジョン名にありそうな言葉だな」
 蒼介は苦笑した。昂輝のスマートフォンの画面を横から覗き込んでいる。
 このサイトの管理人が考えたものなのか、はたまたこれが影喰いの呪いを表すために伝わっている文言なのか、散文詩のようなそれを解読するべく、昂輝は頭をフル回転させた。
 「産土ってのは、人が産まれた場所を指す言葉なんだってよ」
 なおも昂輝はスマートフォンを頼りにしている。表示しているのは、辞書サイトだ。
 「……このまま何の対処もしないでいたら、俺のなにもかもがこの世から消えてしまう。それを防ぐためには、俺の影を、取り戻さなきゃいけないってことか」
 蒼介が言葉を継いだ。昂輝は無言で頷き、スマートフォンの画面を消した。暗転したディスプレイに、自分の酷く強張った顔が映り込む。
 「産土の廃墟……。影喰いの呪いの発生源が学校なんだとしたら、この文章が言ってるのは、あの旧校舎跡のことだろ」
 永和高校の生徒なら誰でも知っている。いにしえの時代、今の校舎が建つ前、火災によってその歴史を半ば強制的に閉じられたという、古い木造校舎。立ち入り禁止のフェンスの向こう側で、夏草に飲み込まれながら、今なお朽ち果てていっている場所。あそこが、この影の怪異が生まれた零地点だというのか。
 「三たびの落日……。猶予は三日間ってことか? 三日後の日没までに、おれたちは旧校舎跡までたどり着かないといけねえってわけか」
 「でも、もしかすると、今のこの日の入りが一回目だとも捉えられるよな……」
 昂輝はぐっと言葉に詰まった。蒼介の言うことも一理ある。文章には、『三たびの落日』としかない以上、それが呪いが発動してから七十二時間なのか、タイミングにかかわらず、三回日が沈んだときを指すのかが分からない。大事を取るならば、昂輝が想定しているよりも早く旧校舎跡に辿り着く必要がある、ということだ。
 先程マサフミが吠え立てていた北の方向にある旧校舎跡は、ここからおよそ百キロ離れた山奥にある。その距離を考えただけで途方に暮れたくなる。だが、そうこうしているうちにもどんどん時間は過ぎていく。
 (……やるっきゃねえよな)
 急に昂輝が立ち上がり、コンビニの入り口へと向かったのを、蒼介はぼんやりと見送った。恐怖を感じているはずなのに、その輪郭がどうしてもはっきりしない。代わりに、体の奥がすうすうと冷えるような、実体のない空虚さだけが心の中に広がっていく。  
 昂輝を追おうとベンチから立ち上がろうとした瞬間、蒼介は「おっ」と短く声を漏らした。足裏に伝わっていたアスファルトの硬い手応えが、不自然に遠のいたのだ。自分の体が、まるで見えない水の中に浮かんでいるかのように、ふわりと持ち上がる。背負っていたリュックの重みさえ、今は彼の体を地面に繋ぎ止める役目を果たせていない。そのまま前方に無様に転ぶ。マサフミが「ワン!」と短く吠えて、すぐに駆け寄ってくる。辛うじて取った受け身のおかげで、手のひらを少し擦った程度で済んだ。
 「いてっ……」
 薄皮がめくれて、少しだけ血が滲んでいる。痛覚がぴりぴりとざわめいて、背筋をはしり、脳に突き抜けていく。痛いけれど、痛みを感じるなら、まだ大丈夫なのだろうかとも思う。よたよたと、普段から体幹トレーニングをして鍛えているはずの体軀の持ち主からは考えられない情けなさで、ゆっくりと立ち上がった。
 「ソウスケ!」
 店内から出てきた昂輝は、手に袋を持ったまま、すぐに駆け寄ってきた。シャツを脱いで、黒いタンクトップ一枚になっている彼の引き締まった腕で、さっと体を支えられる。口には出さなかったが、昂輝が離れた途端に再び押し寄せてきていた冷気が体から抜けていく。それだけで、先程目にした文章に、信憑性を感じられた。——真相は分からない。たとえそれが罠だったとしても、縋れるものはそれしかない。
 「とりあえず飲みものとか食いものとか、テキトーに買ってきた。ここでうだうだしてる暇はねえからさ、とりあえず出発するぞ」
 昂輝はそう言って、うーんと背伸びをした。蒼介は黙って昂輝のあとをついてくる。
 しばらくのあいだ、ふたりは無言で歩き続けた。見慣れた町並みだったが、いまはふたりとも、景色の流れに気を取られている余裕はなかった。
 (こうやって一歩一歩ちゃんと歩けば、旧校舎に辿り着くんだ……)
 でもこのペースで間に合うのだろうかと、昂輝の脳裏に不安がよぎった。車道を見るふりをして、蒼介の様子を観察する。
 「ソウスケ、感情が顔に出過ぎな。おまえ、よくそんなんでチームを背負うエースになれたもんだな」
 せめて場を和まそうと気を遣ったつもりだった。蒼介の肩に手を回して、軽口を叩く。
 「ご、ごめん……」
 返ってきた言葉は、期待どおりのものではなかった。そのとき蒼介の様子を見た昂輝の記憶の中に、ふいに蘇ってきたのは、ふたりがまだ小学生だった頃の記憶だった。

 野球をはじめる前の蒼介は、基本的には控えめな性格だった。自分から前に出ず、昂輝の後ろに隠れるようにくっついていた。
 小学校の休み時間や放課後、校庭ではじまるドッジボールに、昂輝はいつも蒼介と共に参加していた。おとなしい性格だからといって、蒼介の運動神経が鈍かったわけではない。ガキ大将が投げる剛速球を器用に避けたり、あるいは誰かを守るため、ボールを体いっぱい使って受け止めたりしていた。蒼介の性格が出るのは、そのあとだ。
 「……コウキ」
 その頃の蒼介は、昂輝よりも背が低かった。だから彼は上目遣いで名前を呼んでくるのだ。
 「蒼介! 投げろ! 狙えよ!」
 味方の少年たちが一斉に囃し立てた。ボールを持った蒼介は、ヒーローになれるチャンスを目の前にして、完全に硬直していた。ボールを強く抱え込み、唇を戦慄かせ、誰に投げていいのか、投げたらどうなるのかを考えて、パニックに陥っていた。
 結局、蒼介はボールを投げる代わりに、それを足元にポロリと落とした。
 「……ご、ごめん。手が滑った」
 そう言って下を向いた彼に、周囲は失望の声を浴びせた。
 「なんだよ、おまえ。逃げてばっかだな」
 その言葉に蒼介が泣き出しそうになったとき、昂輝は落ちたボールを拾い上げ、代わりに相手チームのエースの胸板へ突き刺すような球を投げ込んだ。
 「おれが投げたんだから文句ねえだろ!」
 感情のままに怒鳴って、蒼介の手を引いて校門まで走った帰り道。
  蒼介はやっぱり、消えそうな声で「ごめん、コウキ。俺、だめだな」と謝ったのだ。

 そんな蒼介が変わりはじめたのは、小学五年生のときに、校内の掲示板に貼られていた野球クラブメンバー募集のチラシを見たことがきっかけだった。意外にも、野球をやりたいと言い出したのは蒼介で、昂輝はその流れで一緒にチームへ加入することとなった。
 蒼介が初めてマウンドに立ったのは、野球をはじめて半年が経った頃だった。彼が左利きだからという理由で、投手をやってみろと命じられたのだ。
 最初はやはり尻込みをして、出来ることならやりたくないというふうにもじもじしていた。そんな蒼介の背中を押したのは、昂輝だった。
 「カントクは、おまえの可能性を感じてああ言ってくれたんだろうからさ、ごちゃごちゃ悩んでねえで、それに応えてやればいいじゃん」
 渋々、しかし怒鳴られるのは嫌なのだろう、駆け足でマウンドに向かった蒼介の背中を見送ったのを、今でも覚えている。クラブ内の紅白戦、昂輝と蒼介は別々のチームだったが、心配でたまらなくなって、ずっとマウンドを凝視していた記憶がある。
 最初は緊張でがちがちに固まり、表情も強張っていた蒼介が、ひとりふたりと三振を奪っていくにつれて、動きがスムーズになったのがベンチからでもわかった。イニングが終わって、仲間に褒められながら向こうのベンチに戻っていく蒼介には、幾分か笑顔もみられた。
 それまでは昂輝の陰に隠れがちだった蒼介が、自分の秘めたる才能に気づき、より野球に打ち込んでいく。——親友の活躍を嬉しく思うのと同時に、ちょっとだけ寂しくなった事実は、今もまだ昂輝の心の内だけに秘められている感情だった。