2
根拠のない噂を真に受けるのは苦手だった。野球というスポーツは、投げて打つだけの単純なものではなく、常に数字と結果に支配されている。球速、打率、防御率。指先に伝わるボールの縫い目の感触や、踏みしめたときのマウンドの土の硬さ。そうした確かな手応えだけを信じてきた蒼介にとって、出所のわからない怪談など、練習時間の無駄でしかなかった。だが、いま自分の足首を締め上げている影の、この凍てつくような冷たさを、事実として感じている。目に見えぬものならまだしも、自分の身に降りかかっている怪異に対して、『これは気のせいだ』と片付けられるような気概は持ち合わせていなかった。
昂輝は、蒼介の代わりに鍵を返しにいってくれていた。影はまだ足首でうねうねと蠢いていて、制服の上から体を締め付けようとしている。そこから発生する冷気に力を奪われているのか、思うように歩き出せなかったため、「ここでマサと待ってろ」と、昂輝は言い残していったのだ。
夏休みということもあってか、他の部活の生徒たちはとっくに帰ってしまったらしく、辺りには誰もいない。喧騒のない校内は、すっかり静まりかえっていて、ちょっとした物音が聞こえるだけでも不気味だった。
「……マサフミ、ごめんな」
昂輝が連れているこの犬は、ときに自分たちより聡いのではないだろうかと思うことがある。獰猛に吠えるのはやめたが、未だ顔は北の方角を見つめたままだ。そんなマサフミが、蒼介の呟きに反応して、手の甲をぺろりと舐めてきた。そしてぴったりと体を寄せてくる。蒼介の体の異変を察知しているかのような振る舞いだった。
永和高校には、俗に『影喰い』と呼ばれる怪談が存在する。
『ただの暇つぶしの怪談だと思っていた。いや、そう思いたかったんだ』
永和高校のいたる場所で、その話は形を変え、尾ひれをつけて囁かれていた。
昼休みの騒がしい教室の隅で、あるいは部活終わりの薄暗い渡り廊下で、誰かが冗談めかして話し始め、他の誰かが「縁起でもない」と笑い飛ばす。それが、この学校の日常的な光景だったはずだ。
「ねえ、三年の先輩から聞いたんだけど、三年二組の教室の真ん中には、不自然なスペースが空いてるそうよ。明らかにそこに机があったような感じなんだけど、ちゃんとクラスメイトは全員いるし、なんでそこが空いているのか、誰も分からないんだって」
去年の秋、同じクラスの女子生徒たちが怪訝な顔でヒソヒソと話していたのを覚えている。
その日の放課後、蒼介は気になって、先輩に用事があるふりをして三年生の教室を訪れてみた。
開かれた扉の向こうに見えたのは、教室の真ん中に一人分のスペースが、確かに空いている様子。それが何であるかを、蒼介は誰にも聞けなかった。
そしてまた別の日。サッカー部の奴らが教室で震えながら見せ合っていた、スマホの画像を、蒼介も見たことがある。
「これ、合宿の集合写真なんだけどさ。……この、前列の端。ここ、一人分だけ不自然に空間が開いてないか? ほら、見てみろよ。隣のキャプテンの肩に、誰かの指先だけが残ってるんだ。でも、名簿を見ても、欠席者は一人もいねえし、これってもしかして心霊写真なんじゃねえの?」
スマホを持った生徒も、周りのクラスメイトたちも、その不可解な画像に慄いていた。やがて近くで話を聞いていたパソコン部の男子が、「そんなの、今時はAIで作れちゃうから、信憑性は分からないよな」と言ったから、一同は興醒めしてしらけてしまったが、『影喰い』によって消えた何者かの残痕がそこに写っている可能性は潰えたわけではないと、誰もが密かに思っていた。
「蒼介、待たせたな!」
背後から昂輝の声がして、蒼介はハッと我に返った。振り返る動作が緩慢だという自覚を持ちながら、昂輝を見留める。長年見慣れたはずの親友と目が合って、蒼介はなぜか妙に安心した。
「立てるか?」
昂輝の問いかけに曖昧に頷く。足は、相変わらず冷水に浸しているかのような感覚だったが、まだ言うことは聞くようだ。昂輝に肩を支えられて、そっと立ち上がった。
「この馬鹿みてえな状況が、みんなの言ってた『影喰い』だってことか?」
昂輝も、怪談の存在は知っている。他の生徒たちに混じって騒ぎ立てるような真似はしなかったが、そんな彼にも心当たりがあるのだから、永和高校の生徒たちに流布された噂の存在感は相当なものだ。
そして皮肉なことに、目の前で親友が巻き込まれているさまをみて、信じがたい与太話は現実のものであったと、認めざるを得なかった。
不安に瞳を揺らしながら、自分の足元を見つめている蒼介は、日中、球場で見た姿とは別人のようだった。
背中が小さく見える。マウンドに立って、相手の打者を三振に打ち取っているときの蒼介とは大違いだ。
「お、俺……どうなっちゃうんだ……」
噂の通りに事が進むのだとしたら、蒼介の存在は、この世から消えてしまうのだろう。
「勝手に弱気になってんじゃねえ! これが試合だったら、まだ始まってもねえだろ!」
昂輝の声は怒鳴るようだったが、その裏側には隠しようのない震えが混じっていた。
蒼介を支える昂輝の腕は、先ほどからずっと、焼けるような冷気——氷点下の液体に直接触れているような、刺すような感覚に晒されている。
「……おれを見ろ、ソウスケ。おまえ、まだここにいるだろ。マメだらけの手も、足も、ちゃんとあるだろ」
昂輝は自分にも言い聞かせるように、蒼介の胸ぐらを掴んだ。だが、蒼介の視線は虚空を泳いでいる。
影が膝を越え、太腿へと這い上がってきた瞬間、蒼介の口から「ひっ」と短い呼気が漏れた。それは悲鳴というより、肺から無理やり空気が絞り出されたような、生理的な拒絶の音だった。
影が触れた箇所のズボンの生地が、墨汁をこぼしたようにどす黒く変色し、その内側にあるはずの彼の脚の輪郭が、陽炎のようにぼやけて、背後のアスファルトが透けて見えはじめている。
「コウキ……、俺、足が、重いんだ。石になったみたいな……、いや、違う、地面に吸い込まれてるみたいな感じだ」
試合に負けた瞬間に感じた、胸の奥にぽっかりと空いた大きな穴。自分を自分たらしめていたチームのエースという唯一の重石を失ったその空洞を、このドロリとした不浄な影が埋めようとしているのか。自分という存在が、パズルのピースをひとつ抜き取るように、世界から「なかったこと」にされようとしている感覚。
昂輝は、自分の足元から力が抜けていくのを感じた。パルクールで培った身体感覚が、「この場所から今すぐ、あらゆる理屈を捨てて逃げろ」と警鐘を鳴らしている。だが、目の前の親友は、文字通り地面に根を張ったように動かない。
「離せ、コウキ。……お前まで、冷たくなる」
「うるせえ! 黙ってろ!」
昂輝は、蒼介の腰に腕を回し、全身のバネを、彼をこの呪われた地点から引き剥がすためだけに注ぎ込んだ。
次の瞬間、バリッという、肉が裂けるような、あるいは空間そのものが破壊されるような不快な音が響いた。
衝撃と共に、二人の体は後方の、まだ西日が残る乾いたアスファルトの上へと無様に転がった。
静寂。
遅れて、蝉時雨が耳鳴りのように戻ってくる。
蒼介は仰向けに倒れたまま、真っ赤に染まった空を、焦点の合わない瞳で凝視していた。
「……ハァ、ハァ……、っ、クソが……」
昂輝が這いつくばったまま、激しく震える自分の手を見た。蒼介に触れていた手のひらは凍傷にかかったように白く変色し、感覚が消失している。
蒼介は、自分の下半身を、確かめるように震える手でなぞった。
……ある。
感覚は鉛のように重く、他人の脚を触っているような違和感があるが、肉体はまだ、そこにある。
だが、安堵はなかった。
アスファルトに落ちた蒼介の影を見た昂輝は、絶句した。
そこにある影は、先ほどまでの異常な蠢きこそ消えていたが、その輪郭はガタガタに崩れ、まるで飢えた獣に端から食い千切られたかのように、不自然に欠落していた。
「……ああ」
蒼介が力なく声を漏らした。
自分は助かったのではない。ただ、完全に飲み込まれる前に、無理やり引きちぎられただけなのだ。
影の欠片と共に、何かが奪われた。
マウンドの上で白球を握りしめていたあの感覚、指先に残っていた縫い目の感触。
それが、まるで数十年も前の古い映画のワンシーンのように、急速に自分とは無関係な「誰かの記憶」へと色褪せていく。
「……とにかく、ここから出るんだ」
昂輝は掠れた声で言い、感覚のない手でマサフミのリードを握り直した。マサフミは吠えるのをやめていたが、その尻尾は股の間に巻き込まれ、激しく震えている。
校門を抜けるとき、蒼介は一度だけ振り返った。
夕闇に沈む永和高校。誰もいないグラウンドのマウンドに、一瞬だけ、「誰か」の黒い影が、こちらをじっと見つめて立っているような気がした。
だが、目を凝らすと、そこにはただ、夕闇が澱んでいるだけだった。
根拠のない噂を真に受けるのは苦手だった。野球というスポーツは、投げて打つだけの単純なものではなく、常に数字と結果に支配されている。球速、打率、防御率。指先に伝わるボールの縫い目の感触や、踏みしめたときのマウンドの土の硬さ。そうした確かな手応えだけを信じてきた蒼介にとって、出所のわからない怪談など、練習時間の無駄でしかなかった。だが、いま自分の足首を締め上げている影の、この凍てつくような冷たさを、事実として感じている。目に見えぬものならまだしも、自分の身に降りかかっている怪異に対して、『これは気のせいだ』と片付けられるような気概は持ち合わせていなかった。
昂輝は、蒼介の代わりに鍵を返しにいってくれていた。影はまだ足首でうねうねと蠢いていて、制服の上から体を締め付けようとしている。そこから発生する冷気に力を奪われているのか、思うように歩き出せなかったため、「ここでマサと待ってろ」と、昂輝は言い残していったのだ。
夏休みということもあってか、他の部活の生徒たちはとっくに帰ってしまったらしく、辺りには誰もいない。喧騒のない校内は、すっかり静まりかえっていて、ちょっとした物音が聞こえるだけでも不気味だった。
「……マサフミ、ごめんな」
昂輝が連れているこの犬は、ときに自分たちより聡いのではないだろうかと思うことがある。獰猛に吠えるのはやめたが、未だ顔は北の方角を見つめたままだ。そんなマサフミが、蒼介の呟きに反応して、手の甲をぺろりと舐めてきた。そしてぴったりと体を寄せてくる。蒼介の体の異変を察知しているかのような振る舞いだった。
永和高校には、俗に『影喰い』と呼ばれる怪談が存在する。
『ただの暇つぶしの怪談だと思っていた。いや、そう思いたかったんだ』
永和高校のいたる場所で、その話は形を変え、尾ひれをつけて囁かれていた。
昼休みの騒がしい教室の隅で、あるいは部活終わりの薄暗い渡り廊下で、誰かが冗談めかして話し始め、他の誰かが「縁起でもない」と笑い飛ばす。それが、この学校の日常的な光景だったはずだ。
「ねえ、三年の先輩から聞いたんだけど、三年二組の教室の真ん中には、不自然なスペースが空いてるそうよ。明らかにそこに机があったような感じなんだけど、ちゃんとクラスメイトは全員いるし、なんでそこが空いているのか、誰も分からないんだって」
去年の秋、同じクラスの女子生徒たちが怪訝な顔でヒソヒソと話していたのを覚えている。
その日の放課後、蒼介は気になって、先輩に用事があるふりをして三年生の教室を訪れてみた。
開かれた扉の向こうに見えたのは、教室の真ん中に一人分のスペースが、確かに空いている様子。それが何であるかを、蒼介は誰にも聞けなかった。
そしてまた別の日。サッカー部の奴らが教室で震えながら見せ合っていた、スマホの画像を、蒼介も見たことがある。
「これ、合宿の集合写真なんだけどさ。……この、前列の端。ここ、一人分だけ不自然に空間が開いてないか? ほら、見てみろよ。隣のキャプテンの肩に、誰かの指先だけが残ってるんだ。でも、名簿を見ても、欠席者は一人もいねえし、これってもしかして心霊写真なんじゃねえの?」
スマホを持った生徒も、周りのクラスメイトたちも、その不可解な画像に慄いていた。やがて近くで話を聞いていたパソコン部の男子が、「そんなの、今時はAIで作れちゃうから、信憑性は分からないよな」と言ったから、一同は興醒めしてしらけてしまったが、『影喰い』によって消えた何者かの残痕がそこに写っている可能性は潰えたわけではないと、誰もが密かに思っていた。
「蒼介、待たせたな!」
背後から昂輝の声がして、蒼介はハッと我に返った。振り返る動作が緩慢だという自覚を持ちながら、昂輝を見留める。長年見慣れたはずの親友と目が合って、蒼介はなぜか妙に安心した。
「立てるか?」
昂輝の問いかけに曖昧に頷く。足は、相変わらず冷水に浸しているかのような感覚だったが、まだ言うことは聞くようだ。昂輝に肩を支えられて、そっと立ち上がった。
「この馬鹿みてえな状況が、みんなの言ってた『影喰い』だってことか?」
昂輝も、怪談の存在は知っている。他の生徒たちに混じって騒ぎ立てるような真似はしなかったが、そんな彼にも心当たりがあるのだから、永和高校の生徒たちに流布された噂の存在感は相当なものだ。
そして皮肉なことに、目の前で親友が巻き込まれているさまをみて、信じがたい与太話は現実のものであったと、認めざるを得なかった。
不安に瞳を揺らしながら、自分の足元を見つめている蒼介は、日中、球場で見た姿とは別人のようだった。
背中が小さく見える。マウンドに立って、相手の打者を三振に打ち取っているときの蒼介とは大違いだ。
「お、俺……どうなっちゃうんだ……」
噂の通りに事が進むのだとしたら、蒼介の存在は、この世から消えてしまうのだろう。
「勝手に弱気になってんじゃねえ! これが試合だったら、まだ始まってもねえだろ!」
昂輝の声は怒鳴るようだったが、その裏側には隠しようのない震えが混じっていた。
蒼介を支える昂輝の腕は、先ほどからずっと、焼けるような冷気——氷点下の液体に直接触れているような、刺すような感覚に晒されている。
「……おれを見ろ、ソウスケ。おまえ、まだここにいるだろ。マメだらけの手も、足も、ちゃんとあるだろ」
昂輝は自分にも言い聞かせるように、蒼介の胸ぐらを掴んだ。だが、蒼介の視線は虚空を泳いでいる。
影が膝を越え、太腿へと這い上がってきた瞬間、蒼介の口から「ひっ」と短い呼気が漏れた。それは悲鳴というより、肺から無理やり空気が絞り出されたような、生理的な拒絶の音だった。
影が触れた箇所のズボンの生地が、墨汁をこぼしたようにどす黒く変色し、その内側にあるはずの彼の脚の輪郭が、陽炎のようにぼやけて、背後のアスファルトが透けて見えはじめている。
「コウキ……、俺、足が、重いんだ。石になったみたいな……、いや、違う、地面に吸い込まれてるみたいな感じだ」
試合に負けた瞬間に感じた、胸の奥にぽっかりと空いた大きな穴。自分を自分たらしめていたチームのエースという唯一の重石を失ったその空洞を、このドロリとした不浄な影が埋めようとしているのか。自分という存在が、パズルのピースをひとつ抜き取るように、世界から「なかったこと」にされようとしている感覚。
昂輝は、自分の足元から力が抜けていくのを感じた。パルクールで培った身体感覚が、「この場所から今すぐ、あらゆる理屈を捨てて逃げろ」と警鐘を鳴らしている。だが、目の前の親友は、文字通り地面に根を張ったように動かない。
「離せ、コウキ。……お前まで、冷たくなる」
「うるせえ! 黙ってろ!」
昂輝は、蒼介の腰に腕を回し、全身のバネを、彼をこの呪われた地点から引き剥がすためだけに注ぎ込んだ。
次の瞬間、バリッという、肉が裂けるような、あるいは空間そのものが破壊されるような不快な音が響いた。
衝撃と共に、二人の体は後方の、まだ西日が残る乾いたアスファルトの上へと無様に転がった。
静寂。
遅れて、蝉時雨が耳鳴りのように戻ってくる。
蒼介は仰向けに倒れたまま、真っ赤に染まった空を、焦点の合わない瞳で凝視していた。
「……ハァ、ハァ……、っ、クソが……」
昂輝が這いつくばったまま、激しく震える自分の手を見た。蒼介に触れていた手のひらは凍傷にかかったように白く変色し、感覚が消失している。
蒼介は、自分の下半身を、確かめるように震える手でなぞった。
……ある。
感覚は鉛のように重く、他人の脚を触っているような違和感があるが、肉体はまだ、そこにある。
だが、安堵はなかった。
アスファルトに落ちた蒼介の影を見た昂輝は、絶句した。
そこにある影は、先ほどまでの異常な蠢きこそ消えていたが、その輪郭はガタガタに崩れ、まるで飢えた獣に端から食い千切られたかのように、不自然に欠落していた。
「……ああ」
蒼介が力なく声を漏らした。
自分は助かったのではない。ただ、完全に飲み込まれる前に、無理やり引きちぎられただけなのだ。
影の欠片と共に、何かが奪われた。
マウンドの上で白球を握りしめていたあの感覚、指先に残っていた縫い目の感触。
それが、まるで数十年も前の古い映画のワンシーンのように、急速に自分とは無関係な「誰かの記憶」へと色褪せていく。
「……とにかく、ここから出るんだ」
昂輝は掠れた声で言い、感覚のない手でマサフミのリードを握り直した。マサフミは吠えるのをやめていたが、その尻尾は股の間に巻き込まれ、激しく震えている。
校門を抜けるとき、蒼介は一度だけ振り返った。
夕闇に沈む永和高校。誰もいないグラウンドのマウンドに、一瞬だけ、「誰か」の黒い影が、こちらをじっと見つめて立っているような気がした。
だが、目を凝らすと、そこにはただ、夕闇が澱んでいるだけだった。



