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「寒い……」
声が落ちた。蒼介は突然身を縮こませて、ガクガクと震えはじめた。自分の体を抱きしめるかのように胴にまわした腕には、ぷつぷつと鳥肌が立っている。
「おい、ソウスケ!」
昂輝が叫んだ。ふらついた蒼介を抱きとめる。手のひらが蒼介の腕に触れた途端、「いっ!?」と声が跳ねた。
「……ソウスケ、おまえ……」
絶句する。野球のユニフォームに身を包んでいたときは汗ばんでいた蒼介の腕が、いまはさらりと乾いている。それだけならば、着替えたときに汗を拭ったからだろうと解釈できるが、それ以上に昂輝を驚かせたのは、皮膚の冷たさだった。
「なっ、なんで、こんなに冷たくなってんだよ!」
昂輝の声が上ずった。蝉時雨は、さっきと変わらず鼓膜を突き刺すほどに騒がしい。昂輝自身はずっと変わらず、うだるような暑さを感じている。明らかに様子がおかしいのは、蒼介だけだった。
「だっ、大丈夫か!?」
「……コウキ……、く、くる……なっ」
蒼介の歯の根が合わず、言葉がまともに形を成さない。恐怖に表情を歪ませたまま、「あ、あ、」と彼が指差そうとした足元。そこに目を疑うような光景が広がっていた。
西日に従えば、影は長く正門の方へ伸びているはずだった。しかし、アスファルトに落ちた蒼介の影は、物理法則をあざ笑うかのように彼の足首へと凝集し、ドロリとした重油のような密度で盛り上がっていた。
「グルルル……ッ!」
マサフミが、昂輝もこれまでに聞いたことがないような、喉を押し潰したような声で鳴いた。
主である昂輝にさえ牙を剥きかねないほどの、剥き出しの恐怖。マサフミは後ずさりしながら、蒼介の足元に広がる黒い染みを、警戒と怯えの混じった目で見据えていた。
「影が……剥がれている?」
昂輝が呟いた瞬間、蒼介の影の輪郭がひらりと揺れた。
風などは吹いていない。それなのに、黒い紙片のような影の端が、アスファルトから浮き上がり、這いずるような動作で蒼介の脛へと取り付いた。触れられた箇所から、蒼介の肉体がわずかに透けたように見えた。
「うっ、うあっ……っ、なんだこれ!」
狼狽する蒼介の視線は、助けを求めるかのように昂輝を射止めていた。突然のことで、昂輝は理解が追いつかず、ごくりと唾を飲み込むことしかできなかった。しかし、蒼介と目が合うと、ハッと我に返って、救出を試みた。
「つっ、つかまれ!」
昂輝はそう言って、蒼介の腕を引っ張る。まるで手のひらを氷の中に突っ込んだかのように冷気が突き刺さる。普段、体温は他の人よりも高いという自覚があったが、その熱が、根こそぎ吸収されていくような、そんな感覚を抱いた。
蒼介は瞳を震わせて、纏わりついてきた影を振りほどこうと、足をばたつかせている。地団駄を踏むようなその仕草では、脛に絡みつく異物は取り除けなかった。むしろ、彼のふくらはぎをぎゅっと締め付けるかのように、みしみしと拘束力は強くなっていく。
怪談話でよくある、亡霊が生者を海の中に引っ張り込もうとして体に這い纏わってくる光景に似ていた。
「コウキっ……」
蒼介が声を震わせて、助けを懇願している。そんな弱々しい彼を見るのは初めてだった。
「チクショウ! てめえ、なんだよ! ソウスケから離れろよ!」
昂輝は無我夢中で叫んだ。いまや蒼介の太腿にまで到達した影を、力ずくで引き剥がそうとする。氷を素手で掴んでいるような感覚。手のひらがヒリヒリとかじかんで、感覚が無くなりそうだ。得体の知れない物体に対して、何の知識もないせいで、思いつく限りの衝動的な行動をしなければならない。たとえそれが、自分の体を傷つける行為だったとしても、だ。
ジュッという、ものが焦げたときと似たような音がして、昂輝の手が触れた箇所だけ、影が蠢いた。
マサフミがけたたましく吠えはじめたのは、そのときだった。
「おい、マサ! どうしたんだよ!」
驚いて足元を見ると、普段なら昂輝の指示を待つはずの賢いシェパードが、今は主人のことなど目に入らない様子で、北の空——遥か遠くの山影が重なる方角を睨みつけ、狂ったように吠え立てていた。
「マサ! 落ち着けって!」
昂輝がリードを引くが、マサフミは一歩も動かない。昂輝に抗って前脚を突っ張り、彼の視線の先に、なにかが見えているかのように牙を剥いている。
自らの影に取り込まれそうになっている親友と、自分には見えないなにかに向かって激しく威嚇している愛犬に挟まれて、昂輝は心臓が飛び出そうなほどにパニックになっていた。
落ち着け落ち着けと、必死に心の中で自分に言い聞かせる。背中にはじんわりと冷や汗をかいているのが分かった。
(おれまでおかしくなっちまったら、もうどうしようもなくなるぞ……)
早鐘を打つ心を落ち着かせるために、昂輝は深呼吸をした。
チャリンと音がして、蒼介が手に握っていた部室の鍵が落ちた。それを見てようやく、自分たちは職員室に鍵を返しにいく途中だったのだと思い出す。いつかの代の部員が付けたのだろう、野球ボールのキーホルダーが繋がれている。身動きのとれない蒼介の代わりにそれを拾い上げる。
「大丈夫だからな、ソウスケ。おれが、なんとかしてやる」
この状況を打破する策などが思い浮かんだわけでもない。不可解なことに巻き込まれて不安に駆られているのは、自分もおなじだ。だけど、少なくとも昂輝のほうが『助ける』側に立っているのは事実で、そんな自分を叱咤するためにも、蒼介を落ち着かせるためにも、無理に笑ってみせるしか、方法が思いつかなかった。
「寒い……」
声が落ちた。蒼介は突然身を縮こませて、ガクガクと震えはじめた。自分の体を抱きしめるかのように胴にまわした腕には、ぷつぷつと鳥肌が立っている。
「おい、ソウスケ!」
昂輝が叫んだ。ふらついた蒼介を抱きとめる。手のひらが蒼介の腕に触れた途端、「いっ!?」と声が跳ねた。
「……ソウスケ、おまえ……」
絶句する。野球のユニフォームに身を包んでいたときは汗ばんでいた蒼介の腕が、いまはさらりと乾いている。それだけならば、着替えたときに汗を拭ったからだろうと解釈できるが、それ以上に昂輝を驚かせたのは、皮膚の冷たさだった。
「なっ、なんで、こんなに冷たくなってんだよ!」
昂輝の声が上ずった。蝉時雨は、さっきと変わらず鼓膜を突き刺すほどに騒がしい。昂輝自身はずっと変わらず、うだるような暑さを感じている。明らかに様子がおかしいのは、蒼介だけだった。
「だっ、大丈夫か!?」
「……コウキ……、く、くる……なっ」
蒼介の歯の根が合わず、言葉がまともに形を成さない。恐怖に表情を歪ませたまま、「あ、あ、」と彼が指差そうとした足元。そこに目を疑うような光景が広がっていた。
西日に従えば、影は長く正門の方へ伸びているはずだった。しかし、アスファルトに落ちた蒼介の影は、物理法則をあざ笑うかのように彼の足首へと凝集し、ドロリとした重油のような密度で盛り上がっていた。
「グルルル……ッ!」
マサフミが、昂輝もこれまでに聞いたことがないような、喉を押し潰したような声で鳴いた。
主である昂輝にさえ牙を剥きかねないほどの、剥き出しの恐怖。マサフミは後ずさりしながら、蒼介の足元に広がる黒い染みを、警戒と怯えの混じった目で見据えていた。
「影が……剥がれている?」
昂輝が呟いた瞬間、蒼介の影の輪郭がひらりと揺れた。
風などは吹いていない。それなのに、黒い紙片のような影の端が、アスファルトから浮き上がり、這いずるような動作で蒼介の脛へと取り付いた。触れられた箇所から、蒼介の肉体がわずかに透けたように見えた。
「うっ、うあっ……っ、なんだこれ!」
狼狽する蒼介の視線は、助けを求めるかのように昂輝を射止めていた。突然のことで、昂輝は理解が追いつかず、ごくりと唾を飲み込むことしかできなかった。しかし、蒼介と目が合うと、ハッと我に返って、救出を試みた。
「つっ、つかまれ!」
昂輝はそう言って、蒼介の腕を引っ張る。まるで手のひらを氷の中に突っ込んだかのように冷気が突き刺さる。普段、体温は他の人よりも高いという自覚があったが、その熱が、根こそぎ吸収されていくような、そんな感覚を抱いた。
蒼介は瞳を震わせて、纏わりついてきた影を振りほどこうと、足をばたつかせている。地団駄を踏むようなその仕草では、脛に絡みつく異物は取り除けなかった。むしろ、彼のふくらはぎをぎゅっと締め付けるかのように、みしみしと拘束力は強くなっていく。
怪談話でよくある、亡霊が生者を海の中に引っ張り込もうとして体に這い纏わってくる光景に似ていた。
「コウキっ……」
蒼介が声を震わせて、助けを懇願している。そんな弱々しい彼を見るのは初めてだった。
「チクショウ! てめえ、なんだよ! ソウスケから離れろよ!」
昂輝は無我夢中で叫んだ。いまや蒼介の太腿にまで到達した影を、力ずくで引き剥がそうとする。氷を素手で掴んでいるような感覚。手のひらがヒリヒリとかじかんで、感覚が無くなりそうだ。得体の知れない物体に対して、何の知識もないせいで、思いつく限りの衝動的な行動をしなければならない。たとえそれが、自分の体を傷つける行為だったとしても、だ。
ジュッという、ものが焦げたときと似たような音がして、昂輝の手が触れた箇所だけ、影が蠢いた。
マサフミがけたたましく吠えはじめたのは、そのときだった。
「おい、マサ! どうしたんだよ!」
驚いて足元を見ると、普段なら昂輝の指示を待つはずの賢いシェパードが、今は主人のことなど目に入らない様子で、北の空——遥か遠くの山影が重なる方角を睨みつけ、狂ったように吠え立てていた。
「マサ! 落ち着けって!」
昂輝がリードを引くが、マサフミは一歩も動かない。昂輝に抗って前脚を突っ張り、彼の視線の先に、なにかが見えているかのように牙を剥いている。
自らの影に取り込まれそうになっている親友と、自分には見えないなにかに向かって激しく威嚇している愛犬に挟まれて、昂輝は心臓が飛び出そうなほどにパニックになっていた。
落ち着け落ち着けと、必死に心の中で自分に言い聞かせる。背中にはじんわりと冷や汗をかいているのが分かった。
(おれまでおかしくなっちまったら、もうどうしようもなくなるぞ……)
早鐘を打つ心を落ち着かせるために、昂輝は深呼吸をした。
チャリンと音がして、蒼介が手に握っていた部室の鍵が落ちた。それを見てようやく、自分たちは職員室に鍵を返しにいく途中だったのだと思い出す。いつかの代の部員が付けたのだろう、野球ボールのキーホルダーが繋がれている。身動きのとれない蒼介の代わりにそれを拾い上げる。
「大丈夫だからな、ソウスケ。おれが、なんとかしてやる」
この状況を打破する策などが思い浮かんだわけでもない。不可解なことに巻き込まれて不安に駆られているのは、自分もおなじだ。だけど、少なくとも昂輝のほうが『助ける』側に立っているのは事実で、そんな自分を叱咤するためにも、蒼介を落ち着かせるためにも、無理に笑ってみせるしか、方法が思いつかなかった。



