心音(パルス)150 〜明日が繋がる走痕〜



 懸垂をしていた。本来ならば鉄棒などを用いて行うのが一般的なそのトレーニングを、真壁昂輝は校庭の藤棚の梁にぶら下がっておこなっていた。
 藤棚の古い梁は、握り込むたびに乾燥した木の鳴る音を立てる。指先の皮膚がささくれに食い込み、手の平に伝わる不規則な凹凸が、昂輝の意識を其処に繋ぎ止めていた。
 一、二、三——。一定のリズムで自らの身体を引き上げる。シャツ越しに広背筋が強く収縮し、肩甲骨が複雑な動きを繰り返す。
 昂輝にとって、この肉体の駆動こそが、自分との対話だった。チームスポーツのように、誰かと声を掛け合う必要はない。ただ自分の重力を感じ、それを筋肉の力でねじ伏せる。その単純な反復が、彼の内側を静かに研ぎ澄ませていく。
 昂輝は、野球部員ではない。中学の始めに野球を辞めて以来、彼は特定の組織に属することをしなかった。代わりに選んだのが、パルクールという、自分の肉体ひとつで世界を「線」として繋いでいく行為だった。
 真壁昂輝と佐野蒼介は、保育園からの幼馴染みだ。
 たとえば隣同士の家の玄関から同時に顔を出し、朝の空気の冷たさを共有する。たとえば学校の帰り道、夕闇に染まり始めた歩道で、どちらからともなく合流し、とりとめもない話をしながら並んで歩く。それは彼らにとって、約束でも義務でもなく、物心がつく前からの習慣のような、ありふれた日常の断片だった。
 だから、今日も昂輝はここにいた。グラウンドを囲むフェンスの向こう側。野球部の連中が、自分たちの物語を終えて、抜け殻のような顔をして去っていくのを、藤棚の上から眺めていた。
 夏休みがはじまったばかりの、人気のない校庭。
 昂輝は、家の愛犬であるジャーマン・シェパードのマサフミを連れていた。
 夕方の犬の散歩のついでに、一緒に家に帰る。——それがここ最近の、昂輝が蒼介と会うための口実だった。
 本来なら犬を連れての校内への立ち入りなど、見つかり次第すぐに咎められるところだが、負けた直後の野球部員たちは、誰も昂輝や犬を気にする余裕など持っていなかった。職員室に残っている教師たちも、夏休みだからいいかとやけに呑気にかまえて、彼らの存在を黙認しているようだった。
(……ソウスケのやつ、まだあそこにいやがるな)
 最後の一回。梁を掴む力を緩めて地面に降り立つ。足裏に伝わる衝撃を膝でいなし、昂輝はふうっと息を吐いた。
 藤棚のベンチの陰で、大人しく座っていたマサフミが、昂輝の着地に合わせて静かに立ち上がった。賢い犬だ。自分たちが誰を待っているのか、そして、今この場所に漂っている空気がどれほど重苦しいものかを理解しているかのように、マサフミは一度だけ短く鼻を鳴らした。
「待たせたな、マサ。あいつを拾って帰るぞ」
 昂輝はベンチに置いていた水筒を煽り、マサフミのリードを握り直した。校舎の影が、グラウンドの端からじわじわとマウンドの方へ向かって這い寄っている。空は燃えるような茜色から、急速に深い藍色へと塗り替えられようとしていた。

グラウンドを囲むフェンスの向こう側。誰も座っていないベンチや、無造作に転がったままのトンボ。その中心、マウンドの上に、ぽつんと背番号一の背中があった。
 昂輝はグラウンドの入り口で一度足を止める。もうすぐ陽が陰るというのに、三十度をゆうに超える、うだるような熱気。陽炎さえ見えそうな光源の中、マウンドに立つ蒼介の周囲だけが、空気が不自然に停滞しているように見えた。
 今日の試合の展開を現地で観ていた昂輝は、勿論その結果も知っている。傷心している蒼介を前にして、なるべくそれに触れないようにするべきかと考えたが、まったくなにも言わないのは、気を遣っていることがバレバレだ。
「ようソウスケ、そろそろ落ち着いたか?」
 自分なりに言葉を選んだ昂輝の声が、静まり返ったグラウンドに低く響いた。
 蒼介の背中が、わずかにピクリと震える。しかし、彼はすぐには振り返らなかった。
「……ああ、コウキか」
 数秒の沈黙の後、ようやく漏れた声はひどく掠れていた。
 ゆっくりと振り返ったその顔は、土埃と乾いた涙の跡で汚れている。それ以上に昂輝の目を引いたのは、その瞳の奥にある——いや、あるいはなにもない——虚ろな表情だった。
つい数時間前まで、マウンドで誰よりも激しい熱を放ち、平均球速一五〇キロの球を投げ込んでいたエースの面影はどこにも見えなかった。
「なんだよ。マサフミまで連れてきて」
 蒼介は力なく笑おうとしたが、その口角は引き攣ったまま、うまく上がらない。昂輝は、あえてマウンドの赤土を無造作に踏みしめ、蒼介のすぐそばまで歩み寄った。
「母さんが、あんまり遅くなるなら夕飯の支度が狂うから、おまえを連れ戻してこいってうるさいんだ。マサフミの散歩ついでに寄ったら、おまえがまだここにいるのが見えたからさ」
 昂輝はわざとぶっきらぼうに言い、足元のリードを少し緩めた。マサフミは暑さに辟易したように、ハァハァと荒い息を吐きながら、蒼介の足元に力なく座り込んだ。
「……そっか。もうそんな時間か」
 蒼介は空を仰いだ。どこまでも高い静寂が広がっている。
さっきまで自分の耳を支配していたはずの、地鳴りのような歓声も、ブラスバンドの音も、今はもうどこにもなかった。
「……コウキ」
「なんだ」
「野球がない夏休みって、こんなに静かだったんだな。……変な感じだ。明日から、何時に起きればいいのかも分かんねえわ」
 夕方だというのに、蝉時雨はまだ降り注いでいる。周りの状況を静かだと表すには、少し騒がしいくらいだ。それなのに蒼介が静かだと言ったのは、彼がこれまで過ごしていた野球部での環境が、あまりにも騒がしかったからなのかもしれない。
 蒼介は、自分の右手をじっと見つめた。何度もマメが潰れ、硬くなった掌。その指先が、力なく震えている。
 昂輝はその震えから目を逸らすように、足元に転がっていた球を拾い上げた。何度もフェンスを叩いて転がっていた、練習球だ。
「何時でもいいだろ。寝たきゃ昼まで寝てりゃいい。……おまえ、今までまともに休みなんてなかったんだからな」
 昂輝は拾ったボールを蒼介の胸元に軽く投げた。
 受け取った蒼介の動作は、驚くほど緩慢だった。いつもなら無意識に完璧な位置で捕球するはずのその手が、わずかに出遅れ、球が胸板に当たってからようやくそれを包み込む。
「……悪い。なんか、まだ身体が重いわ。なにもかも出し切ったっていうか、中身が全部どっかいっちまったみたいだ」
 蒼介は力なく笑い、ボールをグラブの中に押し込んだ。
「中身がカラなら、飯でも食って詰め込みゃいいだろ。ほら、さっさと着替えてこい。マサフミもこの暑さで限界みたいだぜ」
 昂輝はマサフミのリードを短く持ち直し、グラウンドの出口へと顎をしゃくった。
「とりあえず、もうそんなとこに突っ立ってねえで、あそこまで歩けよ。立ちっぱなしだと足に血が溜まって余計にダルくなるぞ」
「……わかってるよ」
 蒼介はのろのろと動き出し、マウンドの傾斜を下りた。一歩踏み出すたびに、スパイクの底で赤土が砕ける乾いた音が響く。
「明日、どうすんだよ。暇だろ」
「明日? ……ああ、そうか。明日から、もう部活に来なくていいんだな」
「海でも行くか。マサも連れていって、泳がせてやろうぜ」
「海……。焼けるぞ、この暑さで」
「今さらだろ。おまえ、もうこれ以上焼けないくらい真っ黒じゃねえか。それともなんだ、悲劇のエース様はこれからモテるために、肌のケアでも気にしてんのか?」
 昂輝がニヤリと笑うと、蒼介も力なく、けれど確かに小さく鼻で笑った。
「……そんなんじゃねえよ。マサフミはいいよな、泳げて」
「あいつ、泳ぐっていうか溺れてるみたいに見えるけどな。バシャバシャうるさいんだよ」
 足元のマサフミが、自分の名前を呼ばれたのを察して、昂輝の膝を鼻先で突いた。「早く歩け」とでも言いたげな急かし方に、昂輝は「はいはい」と適当に応じる。
「今日、ウチの晩メシ、餃子だってさ。母さんが気合入れて三桁は包むって言ってたぞ」
「三桁って……誰が食うんだよ、そんなに」
「半分はおれ、あと半分はおまえだ。どうせガラにもなく食欲ねえとか思ってんだろうけど、腹は減ってんだろ」
「……俺、そんなに食えねえよ。今は」
「食え。食わないとマサに全部横取りされるぞ。ほら、こいつさっきからお前のこと餃子の種かなんかだと思ってんじゃねえか」
 マサフミがタイミングよく「ふんっ」と鼻を鳴らした。
「……マサフミ、俺は餃子じゃねえよ。それにお前は餃子なんか食えねえだろ」
「ほら、さっさと着替えてこい。部室の鍵、まだ開いてるんだろ?」
 昂輝が指差した先には、夕闇に沈みかけた古い部室棟があった。
 蒼介は一度だけ、遠くに見えるスコアボードを振り返った。もうそこに、自分たちの点数が刻まれることはない。
「……おう。ちょっと待ってろ、すぐ戻る」
 蒼介はいつもの癖で、少しだけ早足になって部室へと向かった。昂輝はそれを追わず、入り口のフェンスに背を預けて、マサフミの頭を撫でながら待つことにした。
 部室の扉を開けると、昼間の熱気が逃げ場を失ったまま閉じ込められていた。
 湿った土と、制汗スプレーと、使い込まれた革の匂い。いつもは部活終わりで騒がしいはずの空間は、今は驚くほどひっそりとしている。孤独を突きつけてくるかのような静寂が、心の奥底にまで染み渡ってきた。
 蒼介は自分のロッカーの前で立ち止まった。『佐野』と書かれた古びたシールが、端の方から少し剥がれかけている。蒼介はそれをひと思いに剥がして、ゴミ箱に捨てた。
ベンチに腰を下ろし、スパイクの紐をほどく。ひとつひとつの所作を、もう明日からはすることはないんだと思うと、また悲しくなった。
「……あいつ、海とかマジかよ」
 気を紛らわすべく、昂輝とのさっきの会話を思い出した蒼介は、小さく言葉を吐き捨てた。こんなに肌もユニフォームも真っ黒になるまで野球に捧げてきた夏に、今さら日焼けもなにもない。野郎ふたりと犬一匹で海に行って、なにをすると言うのだ。
そんな提案をしてくるのが、いかにも昂輝らしかった。親友の感傷に浸るために海に行こうと提案しているのではない。きっと口から出任せに、あるいは自分が行きたいがために口にしただけだろう。——あいつにとっての佐野蒼介は、背番号一のエースでもなければ、悲劇の主役でもない。ただの幼馴染みの「ソウスケ」なのだ。
 汗を吸って肌に張り付いたユニフォームを脱ぎ捨て、鞄に入っていたTシャツに着替える。
ふと視線を落とすと、ロッカーの隅に半分だけ中身の残ったスポーツ飲料のペットボトルが置かれていた。誰の飲み残しかはわからない。明日になれば、自分はもうこの部屋を使うことはないのだという実感が、余計にじわじわと胸の奥に広がっていく。
 蒼介は荷物をまとめ、部室の電気を消した。一気に視界が暗くなり、窓から差し込む夕闇の紫だけが、床に残された泥の足跡を照らしていた。
 外に出ると、フェンスに背を預けた昂輝が、スマホをいじりながら待っていた。マサフミは地面に顎をつけ、退屈そうに尻尾を動かしている。
「おせえぞ、ソウスケ。おれ、腹減って死にそうだよ」
「……だから、すぐ行くって。お前、ほんとせっかちだな」
 蒼介はバッグを肩にかけ直し、昂輝の隣に並んだ。
「ほら、マサ、行くぞ。ソウスケが餃子食う気になったってよ」
 昂輝がリードを引くと、マサフミは待ってましたとばかりに立ち上がり、二人の先を歩き始めた。
「……あ、そうだ。ソウスケ、親父さんから聞いたけどさ。お前、新しいグラブ買うって言ってなかったっけ」
「え? ああ……。あれな、優勝したら買ってもらう約束だったんだよ」
 蒼介は少しだけ肩の荷物を揺らした。試合に勝っていたら、今頃はその約束が現実になるかどうかの興奮の中にいたはずだった。だが、いまの蒼介は、新しいグラブが手元に来たとしても、それを使って野球をする自分の姿が思い浮かばなかった。
「なんだよ、買ってもらえよ。負けたから無しなんて、親父さんもそんなケチなこと言わねえだろ」
「いや、いいよ。もう……当分使わないし」
「当分って……。そりゃあ、これからは受験とかで忙しくなるだろうけど、おまえは大学でも野球、やるんだろ?」
 蒼介は言葉を詰まらせた。先のことを考える余裕なんて、今の蒼介には一ミリも残っていない。昂輝が当然のように「次」を口にすることに、少しだけ胸の奥がざわついた。
「……お前、パルクールの大会いつなんだよ。人の心配ばっかしてないで、自分のトレーニングしろよ」
 だから蒼介は、慌てて話題をすり替えた。
「ハハッ、おれはまだそういうのはやらねえよ。それにいまは、これからの人生がかかってる大事な時期だ。そんなときに怪我でもしてみろ。そうなったらおれはいまの自分を一生恨むだろうよ」
「普段、パルクールをするのはいいのかよ」
「おれは自分の力を信じているけど、過信はしてねえ。おまえの言う『大会』に出場したら、おれは間違いなく緊張するだろ。それでいつも通りの力が出せなくなって、怪我するかもしれねえからな」
 昂輝はこうして、たまに行動が慎重になるきらいがある。
「そんな臆病者みたいなこと言うくせに、お前はよくあんな人間離れしたことが出来るよな」
 褒めているのか貶しているのかどちらとも取りづらい蒼介の言葉に、昂輝は肩をすくめて、アスファルトの亀裂を避けるように軽くステップを踏んだ。
「飛べる確信があるから飛ぶんだよ。お前みたいに指先の皮が剥けるまで投げたり、ボロボロになってもマウンドに居座り続けるような無茶とは、根っこが違うんだ」
 昂輝はマサフミのリードを指に巻き直し、少しだけ前を歩く。校庭の電柱に貼られた、色褪せた貼り紙が風にパタパタと音を立てている。その横を通り過ぎるとき、昂輝は指先で軽くその柱を叩いた。金属の乾いた音が、湿った夕方の空気に吸い込まれていく。
「おれにとってのパルクールはさ、自由になるための手段であって、自分を壊すための儀式じゃねえからな。だから、壊れる可能性があるときは、さっさと逃げる。それがおれのルールだ」
「……逃げる、か」
「そうだよ。逃げるのは悪いことじゃねえ。……まあ、おまえには一番難しいことなんだろうけどな」
 昂輝は振り返らずにそう言った。蒼介は、肩に食い込むリュックの重みを逃がそうとストラップを強く握りしめた。リュックの中には、泥だらけのユニフォームと、役目を終えたグラブが詰まっている。その物理的な重さが、今の自分をこの場所に繋ぎ止めている唯一の重石のように感じられた。
「あ、コンビニ寄るぞ。マサの骨ガムがなくなりそうなんだ」
 昂輝が指差したのは、校門を出た先にある、看板の蛍光灯がひとつだけチカチカと瞬いている商店だった。
『コンビニエンス エイワ』
永和高校の生徒や教員たちがこぞって利用しているから潰れていないような、コンビニとは名ばかりの個人商店だ。
「その前に部室の鍵、返さないと」
「そうだな、行ってこい」
 部室をあとにして、校舎へと続く緩やかな坂道を歩きはじめる。ランニングで毎日のようにこの坂を走った。蒼介の頭の中に、そんな茶飯事がふいによぎった。当たり前だったことが、これからは当たり前ではなくなる瞬間を実感する。くよくよと落ち込んでいてもなにも変わらないことも分かっているのに、気持ちに踏ん切りをつけるには、まだ時間が足りなかった。

 昂輝はマサフミのリードをぶら下げたまま、ときおり道端の植え込みを足先でつつきながら歩いていた。
「なあ、ソウスケ。お前、さっきから一言も喋らねえけど、試合に負けたことしか考えてねえんだろ」
「……ああそうだよ。悪いか」
「いや、わりいな。こんなときに、おまえにかけてやれる気の利いた言葉が思い浮かばねえんだ。元気出せよとか気にすんなとか言っても、嘘っぽいしな」
 昂輝の弁解に、蒼介は鼻を鳴らして応えた。足元のマサフミは、家路を急ぐように規則正しい足音を立てている。チャカ、チャカ、と爪がアスファルトを叩く。
 ふと、蒼介は自分の肩に食い込むリュックの重みが、妙に増したような気がして肩をすくめた。負けた直後の疲労のせいだろう。肉体的な疲労より、精神的な疲労のほうが、より体の動きに影響を及ぼしやすいと、いつだったか聞いたことがある。
身体の感覚が少しずつ麻痺していって、自分の足で地面を蹴っている実感が薄れていくような、そんな奇妙な浮遊感があった。
「……なんか、今日、長くねえか」
「あ? なにがだよ。試合が長かったのは事実だけどな」
「いや……ここから校舎までの距離だよ。いつも、こんなに遠かったっけ」
 歩いても歩いても、昇降口に辿り着く気がしない。そればかりかまだ道程の半分にも到達していない。感覚的にはもう何分も足を動かしている。だが昂輝は、なんとも思っていないみたいだ。
 いつもなら何気なく通り過ぎる風景が、今は妙に鮮明に見えた。ふと目に入った桜の木。その葉の一枚一枚の輪郭が、西日に透けて、剥製のように動かない。
「疲れてんだよ、ソウスケ。はやく帰って飯食って、今日はちゃんと湯舟に浸かって早く寝ろよ」
 昂輝はそう言って、マサフミの頭を軽く叩いた。
「ほら、見てみろよ。マサフミだって、おまえに合わせていつもよりノロノロ歩いて——」
 昂輝の言葉が途切れた。マサフミが、突然足を止めたからだ。なにかを見つけたわけではない。威嚇するわけでもない。ただ、校舎へと続く道の途中で、糸が切れたようにその場に立ち止まった。
「……マサ? どうした」
 昂輝がリードを引くが、マサフミは動かない。首を低く下げ、じっと地面を凝視している。蒼介も、思わず足を止めた。蝉の声が、遠くで鳴り続けている。けれど、自分たちの周囲だけが、まるでガラスのドームで覆われたように、音が遠ざかった気がした。
「……暑さで、参ったのかな」
 蒼介の呟いた声が、湿った空気の中に重く沈む。
 昂輝はマサフミの様子を伺うために腰を落としたが、その視線はすぐに、蒼介の背後にある校舎の方へと向けられた。
「……風が止まったな」
 言われてみれば、確かにそうだった。あれほど肌をなでていた熱い風の気配がない。
 直感が、なにかがおかしいと警鐘を鳴らしている。
 まだその違和感が何なのかはわからない。日常の歯車が、一目盛だけ、決定的にズレたような感覚。蒼介は、無意識にぶるっと身震いをした。
「行こう、ソウスケ。……なんか、今のうちにここから出たほうがいい気がする」
 昂輝の声から、先ほどまでの軽妙なトーンが消えていた。彼はマサフミを強引に引っ張って、再び歩き出す。蒼介もそれに続くが、アスファルトを踏みしめる自分の影が、いつもより重くて、歩くために足底を道から引き剥がすのにひどく力がいるような、そんな錯覚が恐怖となり、じわじわと彼の心を侵食しようとしていた。