心音(パルス)150 〜明日が繋がる走痕〜


 1

 高校最後の夏が終わった。
 どれだけ涙を流しても、悔しさに心をすり減らしても、過ぎ去った時間は戻らない。
 佐野蒼介は、ひとり、立ち慣れたマウンドの上に立っていた。自分の高校のホームグラウンドだ。
 こめかみから流れてきた汗が顎から滴り、彼はそれを手の甲で拭った。土に汚れた背番号一のゼッケンは、まだ背中に着いているのに、既にそこから剥がれ落ちた遺芳であるかのように、もはや何の意味も成していない。
 空を飛ぶ鳥たちのさえずりが鮮明に聞こえるほどに静まりかえったグラウンドで、蒼介は手の中の白球をぎゅっと握りしめた。無意識に指先がボールの縫い目を探る。何度も指にかかり、指先の皮を厚く硬く変えてきた、馴染み深い感触が蒼介の脳を揺する。安心する。今はまだ、その感覚を覚えている自分に安心した。
 振りかぶって投げる。これまでなら、その球を受けてくれていた女房役の男は、もういない。蒼介同様、目を真っ赤に腫らしながらもチームのエースを鼓舞し、またチームメイトを気遣っていた彼は、最後のミーティングが終わるなり、そそくさと帰宅していった。いつまでも未練がましくグラウンドに残っているのは、蒼介ひとりだけだった。
 全身のバネを使って放たれたはずの白球は、意思を失った石ころのように空を切り、フェンスを叩いた。
 捕球音のない投球は、ひどく間抜けだった。空気を切り裂く唸りも、フェンスに当たって跳ね返る音も、すべてが虚空に吸い込まれていく。いつもの癖で、返球を待つために掲げた右手は、行き場を失って力なく垂れ下がった。
 コロコロと地面を転がる球を呆然と見つめながら、もう自分が放った球をこちらに投げ返してくれるやつはいないのだと痛感する。鼻の奥がツンと痛くなって、蒼介はまた顔をぐしぐしとこすった。

 朝目覚めたときは、明日以降も、仲間たちと大好きな野球を続けられると思っていた。今日の試合に勝てば決勝進出。それは蒼介たちが通っている県立永和高等学校野球部史上初の快挙になると期待されていた。
 試合が進むにつれて、スタンドの応援席からは段々と諦念の気が漂ってきているのが、マウンドからでも分かった。あのとき、圧倒的な点差を突きつけられてもなお、それを覆せると信じていたのは、自分だけだったのか。
 そんなことはないはずだと、蒼介は自分の頭に浮かんだ考えをすぐに打ち消した。

「くそっ……くそっ……」
 心の中には色々な感情が渦巻いている。蒼介が持ち合わせている語彙で例えられる気持ちや、それだけでは上手く言い表せないものまで、彼自身もすべてを理解出来てはいなかった。だから口から漏れたのは、直感的な感情ともいえるものだった。
 昨年も、そして一昨年も、自分たちは聖地を目指していた。そのときも手が届かず、敗退した。それだけを鑑みれば、今とおなじ境遇に立っているはずだ。だのに悔しさの濃さが過去と比べものにならないのは、今年は自分たちがより主役に近い立場だったからだろう。
 ——今年こそは俺たちが栄光を掴む。
 仲間たち全員でたしかに誓い合った日のことは、今でもありありと覚えている。
 あの日。照りつける太陽の下で交わした言葉は、熱を持ったまま蒼介の胸に刻まれていた。
 「絶対にみんなで甲子園に行こう。俺たちが、この学校の歴史を塗り替えるんだ」
 そんな大それた目標を皆で口にして、泥にまみれたユニフォームの袖で汗を拭いながら、円陣を組んだあの一体感は、肌が覚えている。
 蒼介にとって野球は、単なるスポーツではなかった。球を握り込んだときに指先から一体となる感覚。放つ一球一球が、自分を野球に繋ぎ止めるための、鎖となりつつあった。
 マウンドに立てば、自分を中心に世界が創り上がっていくような感覚に陥った。捕手の構えるミット、打者の張り詰めた空気、スタンドからの地鳴りのような歓声。それらすべてが、蒼介の心臓を叩き、血肉を沸かせた。どれほど過酷な練習も、エースという座を守るためなら、甘美な報いにさえ思えた。
 だが、現実のなんと残酷なことか。己の限界を超えて、血の滲むような努力を積み重ねたとしても、そこに望んだ結果がついてくるとは限らない。
 栄光の頂を目指し、数多の球児たちが、皆おなじように昨日よりも今日、今日よりも明日と、能力の向上を図っているのだ。
 蒼介たちに挑戦しうる力がなかったわけではない。ただ一度、自分たちより強いやつらとぶつかってしまった。命運が決まるのは、たったそれだけのことがきっかけになったりもするのだ。