シルバーリングの微熱




──今夜は雪が降る予報です。


近頃の天気予報はよく当たる。

カーテンの隙間から窓の外を見れば、小さな白銀の粒が地上に向かってふわりふわりと舞い降りていく。

私こと水川小雪(みずかわこゆき)は間も無くやってくる待ち合わせの時間を気にしながら、クローゼットの奥に締まっていた小さな缶を取り出した。

元々お菓子が入っていたその缶は両手に収まるサイズで中央に銀色のガラスの靴が描かれている。

この缶をクローゼットの奥にしまい込んだのはもう三年前だ。

「懐かしい……」

指先に少し力を込めれば、パカっと軽快な音がしてその中に閉じ込めていた思い出の数々が姿を現した。


初めて貰った手紙、高校卒業時に貰った第二ボタン、一緒に行ったテーマパークで買ったお揃いのキーホルダー、顔を寄せ合った笑顔の写真たち。 


「……やっぱ私も智広(ともひろ)も若……」

高校三年生から六年間付き合った岩瀬智広(いわせともひろ)と別れたのは今から三年前だ。

互いに社会人になり、遠距離になったことが1番の原因だったように思う。

初めての一人暮らしに仕事は覚えることが沢山で、食べて寝て働いての繰り返しで正直言ってその頃の私に、恋愛に割く時間はほとんど残っていなかった。

智広からのLINEに返信する回数も減って、土日は溜まった家事をして疲れを取る為、睡眠を優先するようになった。

たまの外食も同僚といくことが多くなって、地方に住む智広の一人暮らしの部屋へ行くことも都内の私の家に来てもらうこともなくなった。

このままじゃいけない、そう思えば思うほど智広との恋が重たくなった。それでも別れるつもりはなかった。この恋と智広が私の心の支えでもあったから。

けどある日、仕事が上手くいかなくて苦しくてどうしようもなくて深夜、智広に電話をした。

いますぐに会いたいと泣きながら初めて我儘を言った。

聞き上手の智広は私の話をただ静かに優しく聞いてくれたが、明日も仕事があるからどうしても行けないと言った。

その時、私の中の心の一部分があっけなく崩れた感覚がしたのをよく覚えている。

頭では勿論わかってる。

もう大人と呼ばれる部類の人間なのだから、ちゃんと大人らしく日々を過ごさなければ社会から弾き出されてしまう。

会社を休んでまで恋人に会いに行くなんて物凄く馬鹿げたことであり稚拙だと言うこともわかっていた。

でもその夜は、どうしてもどうしても彼に会いたかった。私を選んで欲しかった。一番に考えて欲しかった。なぜそこまで頑なになっていたのか自分でもいまだにわからない。

『ごめんな、小雪』

苦しげにそう言った彼の声はいまだに鮮明に思い出せる。智広はちっとも悪くない。悪いのは私の方だ。

そうわかっているのに、その夜を境に私にとっての智広という存在があやふやになってしまった。

辛い時にそばにいてくれるのが恋人なんじゃないだろうか。
滅多に口に出さない我儘を本当に好きなら無下にしないのではないだろうか。
本当に智広は私を好きなんだろうか。
この関係は惰性なんじゃないだろうか。

結果的に恋人より仕事を選んだ酷い男だという認識が芽生えたのは確かで、この恋の結末を全て智広のせいにすることで、私は自分の未熟で生ぬるく弱い自分を正当化しようとしたんだと、今になっては思う。


──『別れよう』

電話で声を聞けば心が揺らぐかもしれないと思ってLINEにした。智広もきっとそれをわかっていたんだと思う。
私の送ったLINEに既読がついて一週間後に『わかった』とだけ返事がきて智広とはそれっきりだ。

「もう三年、されど三年か」

小さく呟いた声は誰にも届くことなくワンルームの部屋に寂しく響いた。

私は寂しさを紛らわせるように口角を少しあげると、缶の中の思い出たちを一つずつ丁寧に心の中から掬うように取り出していく。

思い出のひとつひとつを目で見て触れれば、その時の情景や感情を鮮やかに思い出すことができる。

彼のことが本当に大好きだったから。

少女漫画に出てくるような自転車の二人乗り、公園のベンチで夕陽に照らされて初めてのキス。
夏祭りで二人で浴衣を着てヨーヨー片手に、焼きそばをシェアしながら見上げた花火。
クリスマスにテーマパークでおそろいのカチューシャをつけて、寒空の下で煌びやかなパレードを見ながらはしゃいだ夜。

数え上げたらキリがない、大切な初恋の思い出たちだ。

そして最後の一枚の写真を取り出せば、目当てのものが静かに姿を現した。

「……あった……」

私は箱の底から現れたそれを覗き込むようにして、優しく指先で摘んで取り出した。それは小さな淡い水色の巾着袋。

紐を解いてそっとひっくり返せば、手のひらの上に7号のシルバーリングがころんと乗っかった。

「あ。すごいくすんでる」

記憶の中では、まるで夜空の星屑を落っことしたかのように白銀に輝いていたシルバーリングは、手入れをしなかったせいで見事な灰色だ。

私はリングをもってテーブルに座ると、暫く見つめた。くすんで灰色になったリングはいつかの夜、蹲って泣いていた私にどこか似ている。

「磨けば……また綺麗に光るかな」

交際一年の記念日に智広がラーメン屋のバイト代で買ってくれたのがこのシルバーリングだ。

内側の刻印にはシンプルにK&Tと彫られていてそのイニシャルが表しているのは勿論、小雪と智広。

いつも隣に居られるように、と私の右手の薬指に指輪を嵌めながら恥ずかしそうにそう言った智広の顔が鮮明に脳裏に浮かんだ。

「……すごく好きだった……のにね」

でも手放した想いと引き換えに、いまだからこそわかることもある。

初めはキラキラしていた真っ白な恋心は大人になる過程でもがき苦しむうちに、暗くくすんでしまった。

好きだけじゃ大人にはなれない。

じゃあどうすれば大人になれるのか、どこからが大人なのか、いくら考えてもその境界線だけはいまだにわからない。

ただわかるのは空を飛べる立派な翼はあっても上手く飛べないのなら、それはまだちゃんとした大人とは言えないということだけ。

大人になれないのなら、無理になろうとしなくても良かったのに、恋も仕事もうまくやらなきゃと焦って空回りして、一番大事だった想いを手放してしまった。

私は小さくため息を吐くと、手の中のシルバーリングをそっと握った。

金属独特の小さな冷たさがすぐに手のひらの熱で緩和されていく。そしてわずかに熱を帯びた指輪を再び見つめた時、テーブルの上に置いていたスマホが震えた。

──『もうすぐ着くから』

待ち合わせの時間まであと十分。

律儀な彼はいつも待ち合わせの五分前に来ることを思い出して、私はわずかに口元を緩めた。

変わらないことがあるのなら、変わらない想いがあってもいい。

受け取ってもらえなくても拒絶されても、忘れられない強い想いなら大丈夫。

いくら時が流れて埃をかぶってくすぶって灰色になっても、もう一度見つめ直して向き合って、優しく磨いてあげればきっと綺麗になる。

またキラキラと輝きだせる。

お気に入りの黒のロングコートを羽織り、姿見で自身を映してからブーツを履くと私は部屋を出て鍵をかけた。

鼓動が雪の降る速度よりも速くなっていく。

「……はぁ……」

緊張を和らげるように息を吐けば白くまあるい吐息は雪と混ざってすぐに消えていく。

さっきよりも雪の粒は少し大きくなっていて、この調子なら明日にはうっすら積もるだろう。

私は握りしめていた手をそっと開く。手のひらの上のシルバーリングに雪が触れて溶けていく。


──私は今から三年ぶりに智広に会う。

キッカケは二週間前に行われた同級生の結婚式の二次会だった。

お祝いごとのため、互いに無視する訳にもいかず辿々しく『久しぶり』という無難な挨拶から入って、なんとなくその場の流れでLINEを交換した。

なんとなくと言いつつも心の底では少しだけ期待していたから、彼から二人で会わないかと連絡が来た時はすぐに返事をした。

話したいことも謝りたいことも、伝えたいことも沢山ある。

何をどこから話せばいいのかなんてわからないし、正直に言えば彼と向き合うのがこわい気持ちも大いにある。

それでも会いたい。もう一度伝えたい。

天邪鬼で自分勝手で間違えてばかりの私だけど、また彼の隣にいることができるのだとしたら、もう間違えたくない。

まだ大人になりきれない私だけど、あの頃よりは少しは空を飛ぶのも上手になったと思うから。


エンジンの音が聞こえてきて、視線を下に向ければ、アパートの下に一台の車が緩やかに停車する。

私ははやる気持ちを抑えながら階段を一歩ずつゆっくりと降りていく。

そして最後の一段を降りると、ようやく右手の薬指にそれをそっと嵌めた。

明日、この街が銀世界に染まる頃、このシルバーリングはどんな風に色を変えているんだろうか。熱を帯びているだろうか。


雪が頬に触れてじんとする。
願うことはひとつだけ。

──私たちの恋がまだ熱を失ってはいないと信じていたい。





2025.1.27 遊野煌