にいちゃんと俺は、喧嘩という喧嘩をほとんどしたことがない。たぶん、にいちゃんの心が海のように広いからだと思う。
優しくて、真面目で、まっすぐなにいちゃん。
それは出会った小学生の頃から、変わらない。
対して、俺は負けず嫌いなくせに、泣き虫で、しょっちゅうベソをかいていた。にいちゃんと出会った頃なんて、さぞかし面倒くさかっただろう。
だけど、にいちゃんはどれだけ俺が泣いても、面倒くさがらなかった。
むしろ、俺を大事にしてくれた。
「ほら、これね。僕の名前と似てるシール。ちがやは僕の弟になったから、これ弟の証!」
天使みたいに笑いながら、泣いてる俺に自分のお気に入りのシールをくれたっけ。あれがとても嬉しくて、俺はあの日から、ワクワクマンシールを集め始めたんだ。
未だ、脳裏にあの笑顔が浮かぶっていうのに──今、俺の目の前には怒り顔のにいちゃん。
俺はもう「え、えっと……?」と、戸惑うしかなかった。
やばい。なんか、胃もキリキリしてきたんだけど……。
でも、よく見たら、にいちゃんと目が合わない。すぐに、にいちゃんが俺ではなく、後ろを見ていることに気づいた。
「久登、千茅に何した」
「何もしてないよ」
久登先輩の声が、俺の後ろから聞こえてくる。さっきまでの『ちぃちゃん』呼びしていた柔い声色とは違う。その口調は妙に落ち着いた、優等生のものだ。
猫かぶりモード、オンってところらしい。
「俺が、何も分からないと思ってる?」
「ただ助けただけだよ。千茅くんが、走ってくる集団にぶつかられそうだったから、咄嗟に支えただけ」
「それだけ?」
「うん。それだけ。でも、和久を誤解させちゃったなら、ごめんね」
「……ほんとに?」
にいちゃんの声は低いままで、久登先輩を疑っているようだった。まるで、浮気を咎めるカップルの彼女みたいだ。
ん? もしかして……これって……そういうこと?
俺はようやく、二人が自分のせいで仲違いしかけていることに気づいた。
久登先輩の一方通行かと思っていたけど、違ったらしい。
たぶん今、俺は当て馬ってやつになっている。
なんでそんな風に思ったのかというと──心当たりだらけだったからだ。
まず、にいちゃんは昔、「俺は男も女も、どっちも好きなんだよね」って、家族全員の前で、さらっと言ったことがある。
父さんも母さんも、すんなり受け入れたし、俺もそっかって思った。
だって、にいちゃんは、あまりに綺麗だ。全人類が好きになってもおかしくないし、にいちゃんは優しさに溢れている。男も女も関係なく、誰を好きになっても、おかしくないなって思ったから。
ただ、にいちゃんは美しすぎるあまり、中学の頃に仲良くしていた友達がストーカー化した。それ以来、人との距離感に、やたらと敏感になってしまった。
だけど、あのクリスマスの日に、信頼しきったみたいに、久登先輩の肩に寄りかかって眠っていたのを俺だけは知っている。
きっと、にいちゃんは久登先輩に好意がある。
だから今、俺が久登先輩といることに、ヤキモチ妬いているのだろう。
そして、久登先輩も先輩で、にいちゃんが好きに違いないと俺は睨んでいる。
だから、面倒なブラコンの俺から、久登先輩は攻略しようとしてるんだろう。俺がラスボスポジって、なんか面白いけど、そうじゃなければ平凡な俺にこんなに構うわけがない。
つまるところ、二人は両思いってことだ。
俺はにいちゃんが大好きだし、本当はこの猫かぶりな先輩を少々、受け入れられない気持ちがある。だけど、にいちゃんの幸せを願うのが、良い弟ってもんだよな。うん。
人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んじまえ、なんて言うし、ラスボスも弁えねば。
「にいちゃん、ほんとに、助けてもらっただけだから。ほら、俺、にいちゃんの弁当のご飯、丸腰で持ってきたからさ。メッセージ送ったけど、見てない?」
俺は慌てて、腕に抱えていた内蓋だけ被せた弁当箱を、にいちゃんに見せた。すると、にいちゃんは何度か瞬きをしてから、ぽつりと「ごめん、見てなかった」と言う。
でも、にいちゃんは機嫌を直してくれたみたいだ。安堵したように、いつもみたくふにゃっと愛らしく笑ってくれた。
「えぇ〜、千茅。俺のためにわざわざ持って来てくれたの? 俺が行けばよかったのに、ごめんね。ほんと、千茅は優しいなぁ」
にいちゃんは俺に近づいてきて、そっと頭を撫でてくれる。
ほんの少し、にいちゃんは俺より小さい。でも、懐は俺よりもずっと、大きかった。
「いや、優しくないよ。ごめんな、にいちゃん。俺が弁当包むのミスったから、にいちゃんとこにおかず二個いったんだし」
「ううん。千茅が謝る必要ないよ。むしろ、すぐに気づかなくてごめんね。俺がトイレ行ってたから……」
にいちゃんはそう言いながら、俺の手から弁当を受け取ってくれる。
「じゃあ、今、俺の方に千茅のおかずがあるんだよね」
「うん」
「ちょっと待っててね、取ってくるから」
にいちゃんはすぐに教室の方に向かって行った。
けど、その前に、チラと久登先輩を見たにいちゃんの目が、獲物を狩る猛禽類のように鋭く見えた。
えっと……今のは、俺の見間違えだろうか。
目をゴシゴシ擦って、にいちゃんの後ろ姿を見る。うん。すらっとしたにいちゃんは、いつ見ても綺麗だ。大丈夫。
あれは見間違え──そう思っていたら、ブブッとブレザーのポケットに入れたスマホが震えた。
一度ならず、何度も。スタンプでも連打されてるみたいに。
もしかして、相嶋と山本から早く帰ってこいって言われてるのかも。
俺はポケットからスマホを取り出して、画面を見た。
「ん……? って、え?」
俺の目に映るのは、画面に何度も表示される『白川久登さんからスタンプが送られました』の文字。
振り返ったら、久登先輩がなぜか、スマホを連打していた。
いやいや、待て待て。何してんだ、この人。
優しくて、真面目で、まっすぐなにいちゃん。
それは出会った小学生の頃から、変わらない。
対して、俺は負けず嫌いなくせに、泣き虫で、しょっちゅうベソをかいていた。にいちゃんと出会った頃なんて、さぞかし面倒くさかっただろう。
だけど、にいちゃんはどれだけ俺が泣いても、面倒くさがらなかった。
むしろ、俺を大事にしてくれた。
「ほら、これね。僕の名前と似てるシール。ちがやは僕の弟になったから、これ弟の証!」
天使みたいに笑いながら、泣いてる俺に自分のお気に入りのシールをくれたっけ。あれがとても嬉しくて、俺はあの日から、ワクワクマンシールを集め始めたんだ。
未だ、脳裏にあの笑顔が浮かぶっていうのに──今、俺の目の前には怒り顔のにいちゃん。
俺はもう「え、えっと……?」と、戸惑うしかなかった。
やばい。なんか、胃もキリキリしてきたんだけど……。
でも、よく見たら、にいちゃんと目が合わない。すぐに、にいちゃんが俺ではなく、後ろを見ていることに気づいた。
「久登、千茅に何した」
「何もしてないよ」
久登先輩の声が、俺の後ろから聞こえてくる。さっきまでの『ちぃちゃん』呼びしていた柔い声色とは違う。その口調は妙に落ち着いた、優等生のものだ。
猫かぶりモード、オンってところらしい。
「俺が、何も分からないと思ってる?」
「ただ助けただけだよ。千茅くんが、走ってくる集団にぶつかられそうだったから、咄嗟に支えただけ」
「それだけ?」
「うん。それだけ。でも、和久を誤解させちゃったなら、ごめんね」
「……ほんとに?」
にいちゃんの声は低いままで、久登先輩を疑っているようだった。まるで、浮気を咎めるカップルの彼女みたいだ。
ん? もしかして……これって……そういうこと?
俺はようやく、二人が自分のせいで仲違いしかけていることに気づいた。
久登先輩の一方通行かと思っていたけど、違ったらしい。
たぶん今、俺は当て馬ってやつになっている。
なんでそんな風に思ったのかというと──心当たりだらけだったからだ。
まず、にいちゃんは昔、「俺は男も女も、どっちも好きなんだよね」って、家族全員の前で、さらっと言ったことがある。
父さんも母さんも、すんなり受け入れたし、俺もそっかって思った。
だって、にいちゃんは、あまりに綺麗だ。全人類が好きになってもおかしくないし、にいちゃんは優しさに溢れている。男も女も関係なく、誰を好きになっても、おかしくないなって思ったから。
ただ、にいちゃんは美しすぎるあまり、中学の頃に仲良くしていた友達がストーカー化した。それ以来、人との距離感に、やたらと敏感になってしまった。
だけど、あのクリスマスの日に、信頼しきったみたいに、久登先輩の肩に寄りかかって眠っていたのを俺だけは知っている。
きっと、にいちゃんは久登先輩に好意がある。
だから今、俺が久登先輩といることに、ヤキモチ妬いているのだろう。
そして、久登先輩も先輩で、にいちゃんが好きに違いないと俺は睨んでいる。
だから、面倒なブラコンの俺から、久登先輩は攻略しようとしてるんだろう。俺がラスボスポジって、なんか面白いけど、そうじゃなければ平凡な俺にこんなに構うわけがない。
つまるところ、二人は両思いってことだ。
俺はにいちゃんが大好きだし、本当はこの猫かぶりな先輩を少々、受け入れられない気持ちがある。だけど、にいちゃんの幸せを願うのが、良い弟ってもんだよな。うん。
人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んじまえ、なんて言うし、ラスボスも弁えねば。
「にいちゃん、ほんとに、助けてもらっただけだから。ほら、俺、にいちゃんの弁当のご飯、丸腰で持ってきたからさ。メッセージ送ったけど、見てない?」
俺は慌てて、腕に抱えていた内蓋だけ被せた弁当箱を、にいちゃんに見せた。すると、にいちゃんは何度か瞬きをしてから、ぽつりと「ごめん、見てなかった」と言う。
でも、にいちゃんは機嫌を直してくれたみたいだ。安堵したように、いつもみたくふにゃっと愛らしく笑ってくれた。
「えぇ〜、千茅。俺のためにわざわざ持って来てくれたの? 俺が行けばよかったのに、ごめんね。ほんと、千茅は優しいなぁ」
にいちゃんは俺に近づいてきて、そっと頭を撫でてくれる。
ほんの少し、にいちゃんは俺より小さい。でも、懐は俺よりもずっと、大きかった。
「いや、優しくないよ。ごめんな、にいちゃん。俺が弁当包むのミスったから、にいちゃんとこにおかず二個いったんだし」
「ううん。千茅が謝る必要ないよ。むしろ、すぐに気づかなくてごめんね。俺がトイレ行ってたから……」
にいちゃんはそう言いながら、俺の手から弁当を受け取ってくれる。
「じゃあ、今、俺の方に千茅のおかずがあるんだよね」
「うん」
「ちょっと待っててね、取ってくるから」
にいちゃんはすぐに教室の方に向かって行った。
けど、その前に、チラと久登先輩を見たにいちゃんの目が、獲物を狩る猛禽類のように鋭く見えた。
えっと……今のは、俺の見間違えだろうか。
目をゴシゴシ擦って、にいちゃんの後ろ姿を見る。うん。すらっとしたにいちゃんは、いつ見ても綺麗だ。大丈夫。
あれは見間違え──そう思っていたら、ブブッとブレザーのポケットに入れたスマホが震えた。
一度ならず、何度も。スタンプでも連打されてるみたいに。
もしかして、相嶋と山本から早く帰ってこいって言われてるのかも。
俺はポケットからスマホを取り出して、画面を見た。
「ん……? って、え?」
俺の目に映るのは、画面に何度も表示される『白川久登さんからスタンプが送られました』の文字。
振り返ったら、久登先輩がなぜか、スマホを連打していた。
いやいや、待て待て。何してんだ、この人。

