猫かぶりな兄の親友は、ブラコンの俺を構いたい

「2のA……2のA……」

 にいちゃんのクラスを呟きながら、二年の校舎を歩いていると、授業が終わるのが遅かったのか。前方から「やべぇ! 弁当なくなる!」「急げよ!」と叫びながら、二年生の集団が全速力で走ってくるのが見えた。

 俺の学年もそうだけど、校内に男子だけとなると容赦がない。バッファローの群れのごとく、先輩たちの集団の勢いは激しい。
 同じ方向に向かうならまだしも、人の流れに逆らうこっちの身としては、まさに絶体絶命だった。

「まじか……って、え? これ、俺、避けられる?」

 一瞬、嫌な考えが俺の頭をよぎった、その時。

「ちぃちゃんはほーんと、危なっかしいね」

 聞き慣れた声と共に、後ろに腕を引かれた。そのタイミングで、目の前をダダダッと激しい音を立てた集団が過ぎ去って行く。
 何が起きたのかを理解した時には、背中にその誰か──いや、たぶん久登先輩なんだけど。その人の胸が当たっていて、俺は息を呑んだ。
 背中を向けたまま、顔だけ振り向けば、案の定。俺のすぐ後ろには久登先輩がいた。

「ちぃちゃんってば、こんなとこで何してんの? あとちょっとで、潰れされちゃうところだったじゃん~」
 
 先輩は目尻を下げて、いつもと同じ柔和な笑みを浮かべてみせる。
 ただ、軽い調子で笑っているのに、手はしっかりと俺の腕を掴んだままだ。その瞳の奥には、安堵の色まで見える。
 この人、面倒くさいけど、悪い人ではないんだよなぁ。
 最近の、俺に対する距離感がおかしいだけで。
 
「……にいちゃんに、弁当届けに。……てか、あのー、助けてくれて、ありがとうございます」

 そう素直にお礼を言うと、久登先輩はなぜか、驚いたみたいに目を大きくした。
 
「え……あのちぃちゃんが素直……。何、どうしたの? 熱でもある? え、もしかしてこれ、夢……?」
「うわ。なんか、お礼を言って損した気分だ……」

 聞こえないようにボソッと呟いたのに、ガッツリ聞こえていたらしい。
 久登先輩はくすくす笑いながら「ごめんごめん」と、謝ってきた。
 
「ちぃちゃんが素直だと、ちょっと嬉しかったから、つい揶揄っちゃった。素直なちぃちゃんも、ほんと可愛いね」
「え……」
「うわ、今、絶対キモいって思ったよね? ひどー。ちぃちゃんってば、すぐに顔に出るんだから、気をつけなきゃだめだよー。流石の俺も、傷つくんだからね?」

 久登先輩は軽く言いながらも、なぜかじりじりと距離を詰めてくる。
 ただ、既に俺たちはゼロ距離みたいな立ち位置だ。さらに距離を詰めてくるなんて、やめてほしい。イケメンの顔って、迫力ありすぎて怖い。
 随分とこの男前にも慣れてきたはずなのに、俺はごくりと唾を飲み込んだ。

「……いや、だって、引きますよ。俺が可愛いって意味わかんないですから」

 一拍おいてから、ようやくそう伝えた俺は、早く離れようと慌てて前を向いた。
 でも、この場から早く立ち去ろうとして、ようやく自分の置かれている状況を理解する。

 歩き出そうとした俺の腕は、まだ先輩に掴まれたままだった。
 待って、待って。それどころじゃない。
 誰か嘘だと言ってくれ。
 いつの間にかもう片方の先輩の腕が、俺の腹に回っている。
 いわゆる、バッグハグみたいな状態だった。

 俺はもう一度、振り返ってチラと先輩を見やる。
 仕方ない。ここは、物凄く下手に出なければ。そうすれば、久登先輩だって昼食を食べたいだろうし、すんなり離してくれるはずだ。

「あのー、助けてくれたことは有難いと思っているんですけど……その、この手、離してくれませんか」

 俺なりに頑張って、伝えたと思う。悪態もつかずに、頑張った。
 でも、悪い人じゃないっていうのは撤回だ。久登先輩はやっぱり、俺を揶揄うのが大好きらしい。

「えー、やだよ。離したらさ、ちぃちゃん逃げるでしょ?」

 やんわりと断るように、久登先輩は悪戯めいた笑顔を浮かべた。
 まさにその通りで、ぐうの音も出ない。
 でも、離してもらわないことには、にいちゃんにこの白ご飯を届けられないし、俺だって腹が空いている。こんなところで道草食ってるわけにはいかなかった。
 もう俺は、下手に出るのはやめた。どのみち、変わらないなら徹底抗戦だ。

「いや、だからって、なんで抱きしめるんですか」
「ちぃちゃん意外と筋肉あるから、逃げられそうなんだもん〜」
「じゃあ、逃げないんで、離してください」
「え〜? やだよ。離したら寒いでしょ」

 久登先輩の口調は冗談みたいなのに、腕の力は全然冗談じゃない。足を踏ん張って前に逃げ出そうにも、びくともしなかった。
 
「はぁ? 何言ってんすか。先輩、ほんとに離してくださいってば」
「ちぃちゃん、ワクワクマンシールあげるから、あと三分だけ、このままはどう?」

 カップラーメンかよ! というツッコミはさておき。久登先輩はそう言いながら、俺を離さまいと、さらに腕に力を入れてくる。

 別に男同士で暖をとるためにくっついてるとか、ここ雪国の男子校だし、日常茶飯事な光景だけどさ。
 なんなんだ、この距離感バグ男は。面倒臭いな。
 ていうか、ワクワクマンシールで釣ろうとするなよ。
 俺はここ最近で、一番深く、長い息を吐いた。
 
「三分って……。もう、なんでそんな離したくない感じなんですか」
「だってちぃちゃん、子どもみたいにあったかいんだもん。俺、寒がりだからさ、天然湯たんぽがわりになってよ。ね? いいでしょ?」
「嫌です」
「えぇー。あ、じゃあさ、ちぃちゃんが一つ言うこと聞いてくれるって言ってたし、それ今使うのは? だめ?」

 それは……言ったか? いや、言ったな。ワクチョコ貰った時に、メッセージで送ってしまったな。

「よ、よくないですね。あれは……物理的なものは却下なんで」
「えぇ〜、ちぃちゃんのケチぃ〜。じゃあ、何なら言うこと聞いてくれるのさ~」

 なんて、そんな風にふざけた感じで言いながらも、俺を離さまいとしていたのに。なぜか唐突に、久登先輩は、俺をバッと突き放すようにして離れた。

「ごめんね、ちぃちゃん」

 そう言って、数歩下がって、何事もなかったみたいに俺から距離を取る。
 その目は、廊下の先に向いていて、俺はどうしたんだ? と首を捻りながら、久登先輩の視線を辿った。

 視線の先には、向こうから歩いて来るにいちゃんの姿。

 あぁ、この人、にいちゃんのことが好きだもんな。
 そりゃ、弟に抱きついてるの見られたら困るか。

 なんて思ったのも束の間。なんか、にいちゃんはご機嫌斜めらしい。

「……千茅(ちがや)、何してんの」

 発せられたにいちゃんの声は、いつもよりほんの少しだけ低かった。

 にいちゃんは、美術館に飾られている女神のように綺麗だ。そんな神様が丹精込めて作り上げたような整った顔には、これまで見たことがないほど深い、眉間のしわがある。
 これじゃあ、女神じゃなくて、般若だ。