「2のA……2のA……」
にいちゃんのクラスを呟きながら、俺は二年の教室を目指して、渡り廊下を歩いていた。
大きな窓ガラスの向こうに見える中庭は、今日も雪が積もっている。渡り廊下は外のように寒くて、自然と早歩きになった。
ただ、2のAに向かうのは、ちょっと億劫だ。
何せ、久登先輩も同じクラスなのだ。
「会いたく……ないな」
思わず独りごちて、弁当箱を抱えた腕に力が入る。
この前の土曜日のことなんて、思い出すだけで頭が痛い。
特に、駄菓子屋で、久登先輩とタメ口の攻防戦をしていた時のことは最悪だ。
にいちゃんから電話が来たから、俺はそれに出ようとしたのだけど。なぜか久登先輩はただそれだけで、俺への対抗心を強めたのだ。
──お願い、電話には出ないでよ。
──俺の前で、和久と仲良いとこ見せつけないで。ムカつくから。
──本当に、ちぃちゃん、和久と何でもないんだよね?
迫力ある顔して詰め寄られた時は、本当に心臓が止まるかと思った。
最終的にあの日は、その圧に押されて電話に出なかったから「今日のお礼」って、ワクチョコを箱で貰えたのはラッキーだったけど。
タメ口するかしないか問題を含め、あの時間を思い出しただけで、どっと疲れがぶり返してくる。
そんなことを考えていたら、いつの間にか二年の校舎を歩いていた。
2のAに向かっていたら、授業が終わるのが遅かったのか。静かだったはずの廊下に、走るような激しい足音が響く。前方を見れば、「弁当なくなる!」「急げよ!」なんて叫びながら、全速力で走ってくる集団がいた。
「まじか……これ、詰んだ?」
ぶつかられて弁当落とす──なんていう、嫌な考えが頭をよぎった、その時。
「ちぃちゃんはほーんと、危なっかしいね」
後ろに腕を引かれて、目の前を集団が駆け抜けていった。背中に衝撃を感じて、首だけで振り向けば、そこに久登先輩がいる。
「ちぃちゃんってば、こんなとこで何してんの? あとちょっとで、潰れるとこだったじゃん〜」
久登先輩は目尻を下げて、相変わらず柔和な笑みを浮かべている。
ただ、軽い調子で笑っているのに、手はしっかりと俺を掴んだまま。瞳の奥には、安堵の色まで覗かせている。
軽い言葉の割に、その様子が噛み合ってないように見えて、ほんの少し動揺した。
「……にいちゃんに、弁当届けに。……てか、あの、助けてくれて、ありがとうございます」
素直にお礼を言うと、久登先輩は驚いたみたいに目を丸くした。
「え……あのちぃちゃんが素直ぉ……。何、熱ある? もしかして夢……?」
「うわ。なんか、お礼を言って損した気分だ……」
聞こえないようにボソッと呟いたのに、久登先輩はくすくす笑いながら「ごめんごめん」と、謝ってきた。
「素直なちぃちゃんも可愛いね」
「え……」
「うわ、今キモいって思ったでしょ。ひどー。ほんと顔に出るんだから、気をつけなよ? 傷つくんだからね?」
軽口を叩きながら、久登先輩はじりじり距離を詰めてきた。随分とこの顔には慣れたはずなのに、あまりに近すぎる。息がかかりそうで、思わずヒュッと喉が鳴った。
「それは分かりましたけど! 近いですっ!」
離れようと顔を逸らした瞬間、腕を掴まれたままだったことに気づいた。
いや、腕だけじゃない。いつの間にか、もう片方の腕が腹に回っている。背中に伝わる体温と、耳にかかる吐息。そこで、ようやく理解した。
俺は今、バックハグされているらしい。
「あの、助けてくれたのは本当に有難いんですけど……この手、離してくれませんか?」
ここはこうするのが最善と思って、下手に出ながら振り向く。でも、久登先輩は悪戯っぽく笑うだけだった。
「えー、やだよ。離したら逃げるでしょ?」
図星すぎて言い返せない。けど、離してもらわないと困る。俺には、にいちゃんに弁当を届ける使命がある。
「いや、だからって、なんで抱きしめるんですか」
「だって、寒いし? ちぃちゃんって、ほんとあったか〜い」
口調は冗談みたいに軽いのに、久登先輩の腕の力は全然軽くない。踏ん張って前に進もうにも、手を剥がそうにも、びくともしなかった。
「先輩、ほんとに離してくださいってば!」
「じゃあさ、ワクチョコまた買ってあげるから、あと三分だけ、このままは?」
三分って、カップラーメンかよ。……って、そういう問題じゃない。
呆れ過ぎて、俺はここ最近で一番深く、長い息を吐いた。
「もう……なんでそんな離したくないんですか」
「だって俺、寒がりだもん。教室に行くまででいいから、カイロがわりになってよ」
「嫌です」
「じゃあさ、この前言ってた『言うこと一つ聞く』ってやつ、今使うのは? だめ?」
久登先輩はわざとらしく首を傾げた。
それは……言ったか? いや、言った。
ワクチョコを山ほど貰ったから、お礼しなきゃって焦ってた時だ。にいちゃん経由で連絡先を聞いて、つい送ってしまった。
──ワクチョコありがとうございました。貰いっぱなしは嫌なんで、一つ言うこと聞きます。
返報性の原理って怖いな。苦手な相手にまで、発動するなんて。
あの時の俺は、ワクワクマンシールを引ける喜びで、完全にテンションもおかしかったし。
「あー、でも今、あれを使うのは、よくないですね。……物理的なものは却下なんで」
「えぇ? 物理的なもの却下って、じゃあ何なら聞いてくれるの。それこそ、タメ口?」
「それはダメって何回言えばいいんですか!」
「ちぃちゃんのケチー!」
なんて、そんな風にふざけた感じで言いながらも、俺を決して離さまいと意地になっていたのに。なぜか唐突に、久登先輩の態度は変わった。
「ごめんね、ちぃちゃん」
そう言った途端、久登先輩はバッと突き放すように離れる。そして、二人の間には何もなかったみたいに、数歩下がった。
拍子抜けしたわけじゃない。でも、その目は廊下の先に向いていたのが、気になった。
首を捻りながら視線を辿ると、その先には、にいちゃんの姿があった。
あぁ、この人、にいちゃんのことが好きだもんな。
そりゃあ、弟に抱きついてるの見られたら困るか。
なんて思ったのも束の間、にいちゃんはご機嫌斜めらしい。
「……千茅、久登と何してんの」
発せられたにいちゃんの声は、いつもよりほんの少しだけ低かった。
にいちゃんは、美術館に飾られている女神のように綺麗だ。神様が丹精込めて作り上げたような顔。だけど、これまで見たことがないほど深い、眉間のしわがある。
これじゃあ、女神じゃなくて、般若だった。
にいちゃんのクラスを呟きながら、俺は二年の教室を目指して、渡り廊下を歩いていた。
大きな窓ガラスの向こうに見える中庭は、今日も雪が積もっている。渡り廊下は外のように寒くて、自然と早歩きになった。
ただ、2のAに向かうのは、ちょっと億劫だ。
何せ、久登先輩も同じクラスなのだ。
「会いたく……ないな」
思わず独りごちて、弁当箱を抱えた腕に力が入る。
この前の土曜日のことなんて、思い出すだけで頭が痛い。
特に、駄菓子屋で、久登先輩とタメ口の攻防戦をしていた時のことは最悪だ。
にいちゃんから電話が来たから、俺はそれに出ようとしたのだけど。なぜか久登先輩はただそれだけで、俺への対抗心を強めたのだ。
──お願い、電話には出ないでよ。
──俺の前で、和久と仲良いとこ見せつけないで。ムカつくから。
──本当に、ちぃちゃん、和久と何でもないんだよね?
迫力ある顔して詰め寄られた時は、本当に心臓が止まるかと思った。
最終的にあの日は、その圧に押されて電話に出なかったから「今日のお礼」って、ワクチョコを箱で貰えたのはラッキーだったけど。
タメ口するかしないか問題を含め、あの時間を思い出しただけで、どっと疲れがぶり返してくる。
そんなことを考えていたら、いつの間にか二年の校舎を歩いていた。
2のAに向かっていたら、授業が終わるのが遅かったのか。静かだったはずの廊下に、走るような激しい足音が響く。前方を見れば、「弁当なくなる!」「急げよ!」なんて叫びながら、全速力で走ってくる集団がいた。
「まじか……これ、詰んだ?」
ぶつかられて弁当落とす──なんていう、嫌な考えが頭をよぎった、その時。
「ちぃちゃんはほーんと、危なっかしいね」
後ろに腕を引かれて、目の前を集団が駆け抜けていった。背中に衝撃を感じて、首だけで振り向けば、そこに久登先輩がいる。
「ちぃちゃんってば、こんなとこで何してんの? あとちょっとで、潰れるとこだったじゃん〜」
久登先輩は目尻を下げて、相変わらず柔和な笑みを浮かべている。
ただ、軽い調子で笑っているのに、手はしっかりと俺を掴んだまま。瞳の奥には、安堵の色まで覗かせている。
軽い言葉の割に、その様子が噛み合ってないように見えて、ほんの少し動揺した。
「……にいちゃんに、弁当届けに。……てか、あの、助けてくれて、ありがとうございます」
素直にお礼を言うと、久登先輩は驚いたみたいに目を丸くした。
「え……あのちぃちゃんが素直ぉ……。何、熱ある? もしかして夢……?」
「うわ。なんか、お礼を言って損した気分だ……」
聞こえないようにボソッと呟いたのに、久登先輩はくすくす笑いながら「ごめんごめん」と、謝ってきた。
「素直なちぃちゃんも可愛いね」
「え……」
「うわ、今キモいって思ったでしょ。ひどー。ほんと顔に出るんだから、気をつけなよ? 傷つくんだからね?」
軽口を叩きながら、久登先輩はじりじり距離を詰めてきた。随分とこの顔には慣れたはずなのに、あまりに近すぎる。息がかかりそうで、思わずヒュッと喉が鳴った。
「それは分かりましたけど! 近いですっ!」
離れようと顔を逸らした瞬間、腕を掴まれたままだったことに気づいた。
いや、腕だけじゃない。いつの間にか、もう片方の腕が腹に回っている。背中に伝わる体温と、耳にかかる吐息。そこで、ようやく理解した。
俺は今、バックハグされているらしい。
「あの、助けてくれたのは本当に有難いんですけど……この手、離してくれませんか?」
ここはこうするのが最善と思って、下手に出ながら振り向く。でも、久登先輩は悪戯っぽく笑うだけだった。
「えー、やだよ。離したら逃げるでしょ?」
図星すぎて言い返せない。けど、離してもらわないと困る。俺には、にいちゃんに弁当を届ける使命がある。
「いや、だからって、なんで抱きしめるんですか」
「だって、寒いし? ちぃちゃんって、ほんとあったか〜い」
口調は冗談みたいに軽いのに、久登先輩の腕の力は全然軽くない。踏ん張って前に進もうにも、手を剥がそうにも、びくともしなかった。
「先輩、ほんとに離してくださいってば!」
「じゃあさ、ワクチョコまた買ってあげるから、あと三分だけ、このままは?」
三分って、カップラーメンかよ。……って、そういう問題じゃない。
呆れ過ぎて、俺はここ最近で一番深く、長い息を吐いた。
「もう……なんでそんな離したくないんですか」
「だって俺、寒がりだもん。教室に行くまででいいから、カイロがわりになってよ」
「嫌です」
「じゃあさ、この前言ってた『言うこと一つ聞く』ってやつ、今使うのは? だめ?」
久登先輩はわざとらしく首を傾げた。
それは……言ったか? いや、言った。
ワクチョコを山ほど貰ったから、お礼しなきゃって焦ってた時だ。にいちゃん経由で連絡先を聞いて、つい送ってしまった。
──ワクチョコありがとうございました。貰いっぱなしは嫌なんで、一つ言うこと聞きます。
返報性の原理って怖いな。苦手な相手にまで、発動するなんて。
あの時の俺は、ワクワクマンシールを引ける喜びで、完全にテンションもおかしかったし。
「あー、でも今、あれを使うのは、よくないですね。……物理的なものは却下なんで」
「えぇ? 物理的なもの却下って、じゃあ何なら聞いてくれるの。それこそ、タメ口?」
「それはダメって何回言えばいいんですか!」
「ちぃちゃんのケチー!」
なんて、そんな風にふざけた感じで言いながらも、俺を決して離さまいと意地になっていたのに。なぜか唐突に、久登先輩の態度は変わった。
「ごめんね、ちぃちゃん」
そう言った途端、久登先輩はバッと突き放すように離れる。そして、二人の間には何もなかったみたいに、数歩下がった。
拍子抜けしたわけじゃない。でも、その目は廊下の先に向いていたのが、気になった。
首を捻りながら視線を辿ると、その先には、にいちゃんの姿があった。
あぁ、この人、にいちゃんのことが好きだもんな。
そりゃあ、弟に抱きついてるの見られたら困るか。
なんて思ったのも束の間、にいちゃんはご機嫌斜めらしい。
「……千茅、久登と何してんの」
発せられたにいちゃんの声は、いつもよりほんの少しだけ低かった。
にいちゃんは、美術館に飾られている女神のように綺麗だ。神様が丹精込めて作り上げたような顔。だけど、これまで見たことがないほど深い、眉間のしわがある。
これじゃあ、女神じゃなくて、般若だった。

