私が駆け込んだのは、実家から電車で二時間、都内にあるケントのアパートだった。
インターホンを連打すると、すぐにドアが開いた。
「ミナミ? どうした、急に。電話で泣いてたけど……心配したんだ」
パーカー姿のケントが、目を見開いて私を迎えてくれた。
その顔を見た瞬間、張り詰めていた糸が切れ、私は玄関先で崩れ落ちた。
「ケント…助けて。怖い、殺される……っ!」
「おい、ちょっと落ち着けって。とりあえず入って」
ケントの部屋は、いつ来てもモデルルームみたいに片付いていた。
理系学部生の彼らしく、デスクには大きなモニターが二台並び、難しそうな専門書が整然と積まれている。
私の薬品臭い部屋とは大違いだ。
漂白剤の匂いもしない。実家の古臭い空気もない。無機質だけど、清潔で安全な場所。
私はソファに座った。すぐに温かい紅茶が出てきて、少しほっとする。
震える手でカップを握りしめながら、私は全てを話した。
フリマアプリ【バイバイ】のこと。
出品された口紅、排水口の髪の毛、元カレとの写真。
そして、今朝の通知表のこと。
ケントは私のスマホを受け取り、M氏の出品ページを無言でスクロールし始めた。
怒るでもなく、怖がるでもなく。
まるで難解なプログラムのバグを探す時のような、真剣な眼差しで。
「……なるほどな」
十秒ほど沈黙した後、ケントは静かにスマホをテーブルに置いた。
「これ、ただのストーカーじゃないな」
「え……どういう意味?」
「愉快犯にしては手が込みすぎてるし、怨恨にしては執着の方向が歪んでる。何より、ミナミの身辺に関する情報収集能力が異常だよ」
ケントがモニターに向かい、キーボードを叩き始めた。
画面に、私のアパート周辺の地図や、過去の犯罪事例のデータが表示される。
「ミナミ。君の部屋に侵入して、掃除までしている。さらに実家の通知表まで手に入れた」
「やっぱり、実家に侵入されたのかな……となると、お父さんとお母さんも危ないんじゃ……」
私が青ざめると、ケントは首を横に振った。
「いや、実家への侵入はリスクが高すぎる。おそらく、この通知表は、原本じゃない可能性が高い」
「……えっ? 偽物?」
「今の時代、学校の卒業データや保管資料がネットに流出することもある。あるいは、君の実家のゴミ袋から、古い資料を盗み出したのかもしれない。この画像も、よく見ると加工で古く見せているだけかもしれないよ」
ケントの口調は冷静だった。
言われてみれば、そうかもしれない。
あの一瞬で、実家に侵入されたと思い込んだのは、私が焦っているせいだ。
「敵の狙いは君の精神を追い詰めることだろう? 『安全な場所なんてない』と思わせて、最後に救われるために高額の商品を買わせるのが手口なんだよ。だから、実家の両親は無事だと思う」
その言葉に、私は救われた気がした。
お父さんとお母さんが無事なら、それだけでいい。
「じゃあ、犯人は……」
「一番怪しいのは、やっぱり君の部屋に物理的にアクセスできる人間だな」
ケントが眼鏡の位置を直しながら、私を見た。
「つまり、アパートの管理人?」
「合鍵の管理が杜撰だろ? 盗聴器だって、ミナミが大学の間に、仕掛けるチャンスはいくらでもある。通知表の件だって、ミナミの保証人の記載欄に実家の住所があるはずだ」
「あっ……やっぱりアイツ」
「そういう意味じゃ、俺も候補か。こうしてミナミと過ごしている時に、鍵を盗むことだってできるしな」
「ケントが、そんなことするはずないじゃん。それよりも、警察に行くべき、かな」
ケントの推理は、怖いくらい論理的だった。
私の漠然とした恐怖を、彼は冷静に氷解してくれた。
「警察に行っても『実害がない』で終わる。相手はそれを知っててやってる知能犯だよ」
「じゃあどうすれば……引っ越すしかないの?」
「逃げても追いかけてくるよ、こういう輩は。だったら、こっちから仕掛けるんだ」
ケントの目が、鋭く光った。
「仕掛けるって、何を」
「証拠を掴んで、逆に追い詰めてやろう。俺に任せて。デジタルの痕跡は必ず残るし、物理的な侵入ルートも俺が潰すから」
ケントが私の肩に手を置いた。
その手は温かくて、力強かった。
「ありがとう。お母さんとケントくらいだよ、味方」
「ミナミのこと、絶対守るから」
私は久しぶりに、心の底から安堵のため息をついた。
よかった。
この人は、信じられる。
感情的になって私を突き放したユカとは違う。
この人なら、この得体の知れない恐怖から、私を救い出してくれる。
「ケント……好きだよ」
私はケントの胸に顔を埋めた。
ケントは、私の頭を撫でながらモニターに映る『M氏』のページを見つめていた。静かな怒りが、ケントの瞳の奥底に灯っている気がした。
インターホンを連打すると、すぐにドアが開いた。
「ミナミ? どうした、急に。電話で泣いてたけど……心配したんだ」
パーカー姿のケントが、目を見開いて私を迎えてくれた。
その顔を見た瞬間、張り詰めていた糸が切れ、私は玄関先で崩れ落ちた。
「ケント…助けて。怖い、殺される……っ!」
「おい、ちょっと落ち着けって。とりあえず入って」
ケントの部屋は、いつ来てもモデルルームみたいに片付いていた。
理系学部生の彼らしく、デスクには大きなモニターが二台並び、難しそうな専門書が整然と積まれている。
私の薬品臭い部屋とは大違いだ。
漂白剤の匂いもしない。実家の古臭い空気もない。無機質だけど、清潔で安全な場所。
私はソファに座った。すぐに温かい紅茶が出てきて、少しほっとする。
震える手でカップを握りしめながら、私は全てを話した。
フリマアプリ【バイバイ】のこと。
出品された口紅、排水口の髪の毛、元カレとの写真。
そして、今朝の通知表のこと。
ケントは私のスマホを受け取り、M氏の出品ページを無言でスクロールし始めた。
怒るでもなく、怖がるでもなく。
まるで難解なプログラムのバグを探す時のような、真剣な眼差しで。
「……なるほどな」
十秒ほど沈黙した後、ケントは静かにスマホをテーブルに置いた。
「これ、ただのストーカーじゃないな」
「え……どういう意味?」
「愉快犯にしては手が込みすぎてるし、怨恨にしては執着の方向が歪んでる。何より、ミナミの身辺に関する情報収集能力が異常だよ」
ケントがモニターに向かい、キーボードを叩き始めた。
画面に、私のアパート周辺の地図や、過去の犯罪事例のデータが表示される。
「ミナミ。君の部屋に侵入して、掃除までしている。さらに実家の通知表まで手に入れた」
「やっぱり、実家に侵入されたのかな……となると、お父さんとお母さんも危ないんじゃ……」
私が青ざめると、ケントは首を横に振った。
「いや、実家への侵入はリスクが高すぎる。おそらく、この通知表は、原本じゃない可能性が高い」
「……えっ? 偽物?」
「今の時代、学校の卒業データや保管資料がネットに流出することもある。あるいは、君の実家のゴミ袋から、古い資料を盗み出したのかもしれない。この画像も、よく見ると加工で古く見せているだけかもしれないよ」
ケントの口調は冷静だった。
言われてみれば、そうかもしれない。
あの一瞬で、実家に侵入されたと思い込んだのは、私が焦っているせいだ。
「敵の狙いは君の精神を追い詰めることだろう? 『安全な場所なんてない』と思わせて、最後に救われるために高額の商品を買わせるのが手口なんだよ。だから、実家の両親は無事だと思う」
その言葉に、私は救われた気がした。
お父さんとお母さんが無事なら、それだけでいい。
「じゃあ、犯人は……」
「一番怪しいのは、やっぱり君の部屋に物理的にアクセスできる人間だな」
ケントが眼鏡の位置を直しながら、私を見た。
「つまり、アパートの管理人?」
「合鍵の管理が杜撰だろ? 盗聴器だって、ミナミが大学の間に、仕掛けるチャンスはいくらでもある。通知表の件だって、ミナミの保証人の記載欄に実家の住所があるはずだ」
「あっ……やっぱりアイツ」
「そういう意味じゃ、俺も候補か。こうしてミナミと過ごしている時に、鍵を盗むことだってできるしな」
「ケントが、そんなことするはずないじゃん。それよりも、警察に行くべき、かな」
ケントの推理は、怖いくらい論理的だった。
私の漠然とした恐怖を、彼は冷静に氷解してくれた。
「警察に行っても『実害がない』で終わる。相手はそれを知っててやってる知能犯だよ」
「じゃあどうすれば……引っ越すしかないの?」
「逃げても追いかけてくるよ、こういう輩は。だったら、こっちから仕掛けるんだ」
ケントの目が、鋭く光った。
「仕掛けるって、何を」
「証拠を掴んで、逆に追い詰めてやろう。俺に任せて。デジタルの痕跡は必ず残るし、物理的な侵入ルートも俺が潰すから」
ケントが私の肩に手を置いた。
その手は温かくて、力強かった。
「ありがとう。お母さんとケントくらいだよ、味方」
「ミナミのこと、絶対守るから」
私は久しぶりに、心の底から安堵のため息をついた。
よかった。
この人は、信じられる。
感情的になって私を突き放したユカとは違う。
この人なら、この得体の知れない恐怖から、私を救い出してくれる。
「ケント……好きだよ」
私はケントの胸に顔を埋めた。
ケントは、私の頭を撫でながらモニターに映る『M氏』のページを見つめていた。静かな怒りが、ケントの瞳の奥底に灯っている気がした。



