私はスマホを握りしめたまま、その場にうずくまった。
――怖い。
この部屋のどこかにカメラがあるの?
それとも、壁の向こうで聞き耳を立てているの?
ユカもいない。
誰も助けてくれない。
風呂場から漂うシンナー臭い漂白剤の匂いが、私の思考を麻痺させていく。
♪
突然、静まり返った部屋に電子音が鳴り響いた。
着信音だ。
ビクッとして画面を見る。
『お母さん』
その文字を見た瞬間、張り詰めていた糸がプツンと切れた。
「……もしもしっ、お母さん!?」
私はすがるように通話ボタンを押した。
『あら、ミナミ? どうしたの、そんなに慌てて』
スピーカーから聞こえてきたのは、いつも通りの、のんびりとした母の声だった。
優しくて、温かい声。
さっきまでのM氏の無機質な文字列とは違う、血の通った人間の声だ。
『今、ニュースでインフルエンザが流行ってるってやってたから。ミナミ、ちゃんとご飯食べてるかなって思って』
「お母さん……うっ、ぐすっ……」
涙が止まらなかった。
M氏のことなんて言えない。
言ったら、お母さんまで巻き込んでしまうかもしれない。でも、声を聞いたら、安心感で言葉にならなかった。
『えっ、ちょっと、泣いてるの? 何かあった?』
母の声が、心配そうに弾む。
「……怖いの。一人でいるのが、怖くて……」
『……そう。何か辛いことがあったのね』
母はそれ以上、深くは聞いてこなかった。
ただ、包み込むように言った。
『一度、帰っておいで』
「え……」
『そんなに辛いなら、無理して大学に通う必要ないわよ。実家に帰ってらっしゃい。お父さんもミナミに会いたがってるし、あんたの好きなハンバーグ作って待ってるから』
「……うんっ!」
『大丈夫よ。ここはあんたの家なんだから。誰にも邪魔させないし、お母さんが全部守ってあげるからね』
「ありがとう……お母さん」
電話を切った後、私は久しぶりに深く息を吸い込んだ気がした。
そうだ。
私には実家がある。
あそこなら、家族がいる。
セキュリティの甘いこのアパートとは違う。
絶対的な安全地帯だ。
私は涙を拭い、急いでクローゼットからボストンバッグを取り出した。
着替えと財布だけを詰め込む。
一秒でも早く、この部屋を出たい。
M氏の気配がするこの東京から逃げ出したい。
ガチャリ。
玄関の鍵を開ける。
外に出る。
駅へ向かおうと歩き出した、その時だった。
ポーン。
ポケットの中で、スマホが鳴った。【バイバイ】の通知音。
心臓が縮み上がる。
――M氏だ。
見たくない。でも、見ないと何をされるか分からない。私は震える手で、通知画面を確認した。
M氏:
賢明な判断です。
やはり、一番頼りになるのは家族ですよね。
気をつけて帰ってください。
「ひっ……!」
私はスマホを取り落としそうになった。
今、さっき。
お母さんと電話で話した内容を、こいつは知っている。
盗聴されてる。
やっぱり、スマホも部屋も、全部聞かれてたんだ。
でも、だからこそ。
ここにはいられない。
早く、お母さんのところへ行かなきゃ。
あそこだけが、こいつの手の届かない場所なんだから。
私はバッグを抱きしめ、夜の道を全速力で走り出した。背中を、見えない視線が追いかけてくるような気がして――。
――怖い。
この部屋のどこかにカメラがあるの?
それとも、壁の向こうで聞き耳を立てているの?
ユカもいない。
誰も助けてくれない。
風呂場から漂うシンナー臭い漂白剤の匂いが、私の思考を麻痺させていく。
♪
突然、静まり返った部屋に電子音が鳴り響いた。
着信音だ。
ビクッとして画面を見る。
『お母さん』
その文字を見た瞬間、張り詰めていた糸がプツンと切れた。
「……もしもしっ、お母さん!?」
私はすがるように通話ボタンを押した。
『あら、ミナミ? どうしたの、そんなに慌てて』
スピーカーから聞こえてきたのは、いつも通りの、のんびりとした母の声だった。
優しくて、温かい声。
さっきまでのM氏の無機質な文字列とは違う、血の通った人間の声だ。
『今、ニュースでインフルエンザが流行ってるってやってたから。ミナミ、ちゃんとご飯食べてるかなって思って』
「お母さん……うっ、ぐすっ……」
涙が止まらなかった。
M氏のことなんて言えない。
言ったら、お母さんまで巻き込んでしまうかもしれない。でも、声を聞いたら、安心感で言葉にならなかった。
『えっ、ちょっと、泣いてるの? 何かあった?』
母の声が、心配そうに弾む。
「……怖いの。一人でいるのが、怖くて……」
『……そう。何か辛いことがあったのね』
母はそれ以上、深くは聞いてこなかった。
ただ、包み込むように言った。
『一度、帰っておいで』
「え……」
『そんなに辛いなら、無理して大学に通う必要ないわよ。実家に帰ってらっしゃい。お父さんもミナミに会いたがってるし、あんたの好きなハンバーグ作って待ってるから』
「……うんっ!」
『大丈夫よ。ここはあんたの家なんだから。誰にも邪魔させないし、お母さんが全部守ってあげるからね』
「ありがとう……お母さん」
電話を切った後、私は久しぶりに深く息を吸い込んだ気がした。
そうだ。
私には実家がある。
あそこなら、家族がいる。
セキュリティの甘いこのアパートとは違う。
絶対的な安全地帯だ。
私は涙を拭い、急いでクローゼットからボストンバッグを取り出した。
着替えと財布だけを詰め込む。
一秒でも早く、この部屋を出たい。
M氏の気配がするこの東京から逃げ出したい。
ガチャリ。
玄関の鍵を開ける。
外に出る。
駅へ向かおうと歩き出した、その時だった。
ポーン。
ポケットの中で、スマホが鳴った。【バイバイ】の通知音。
心臓が縮み上がる。
――M氏だ。
見たくない。でも、見ないと何をされるか分からない。私は震える手で、通知画面を確認した。
M氏:
賢明な判断です。
やはり、一番頼りになるのは家族ですよね。
気をつけて帰ってください。
「ひっ……!」
私はスマホを取り落としそうになった。
今、さっき。
お母さんと電話で話した内容を、こいつは知っている。
盗聴されてる。
やっぱり、スマホも部屋も、全部聞かれてたんだ。
でも、だからこそ。
ここにはいられない。
早く、お母さんのところへ行かなきゃ。
あそこだけが、こいつの手の届かない場所なんだから。
私はバッグを抱きしめ、夜の道を全速力で走り出した。背中を、見えない視線が追いかけてくるような気がして――。

