心臓が早鐘を打っていた。
私は震える指で、その『不潔な髪の毛』の購入ボタンを連打した。
欲しいわけじゃない。
ただ、この写真を誰かの目に触れさせたくない。
私の体の一部が、全ての人に晒されているのが耐えられない。
『購入手続きへ』
↓
『購入を確定する』
――取引が完了しました。
即座に、私は『バイバイ』の運営事務局へ通報メールを送った。
*
カテゴリは【迷惑行為・嫌がらせ】。
『私の住所を知っていると思われる人物による「ストーカー行為」の可能性があります。それどころか、建造物侵入の可能性もあります。商品画像は私の部屋で無断撮影されたものです。相手のIPアドレスの開示と、アカウントの凍結をお願いします。そもそも、このような出品はゆるされるのでしょうか? 規定違反では? 警察にも相談するつもりです』
*
――送信完了。
これで、少しはマシになるはずだ。
運営が動けば、M氏のアカウントは凍結される。それどころか、きっとBANだ。
でも、わずか三十分後――。
返ってきたのは、絶望的に冷たい定型文だった。
*
【バイバイ運営事務局】
お問い合わせありがとうございます。
お客様間のトラブルにつきましては、当事者同士での解決をお願いしております。なお、いただいた情報だけでは規約違反の事実は確認できませんでした。
警察への相談等は、お客様のご判断にてお願いいたします。
*
「……嘘でしょ。ひっど」
スマホを机に叩きつけたくなるのを堪える。
やっぱり、運営なんて助けてくれない。それとも、精巧なウィッグの可能性もあるのだろうか。
とにかく、誰かに話したい。話して落ち着きたい。
私は講義が終わるやいなや、親友のユカを捕まえて、駅前のカフェに駆け込んだ。
「ねえ、ちょっと聞いてよ。本当に怖いんだけど」
パスタを巻いているユカに、私はスマホの画面を突きつけた。
M氏のアカウント。
私の口紅。私の部屋。
蛇口に絡まった髪の毛。
ユカは眉をひそめて画面を覗き込むと、気の毒そうな顔で溜息をついた。
「ミナミ、疲れてるんじゃない?」
「えっ……?」
「だってこれ、ただの白いレースじゃん。ニトリとかで誰でも買えるやつでしょ?」
「でも、ほつれの位置まで一緒なんだよ!」
「偶然だって。それに、このお風呂場の写真もさ、ユニットバスなんてどこも似たようなもんじゃん」
ユカは笑い飛ばすように、アイスコーヒーのストローを回す。
「大体、ミナミの部屋にどうやって侵入すんのよ。合鍵とか彼氏に渡してる? 考えすぎだって」
「……そうかな。確かに、鍵は複製したこともないけど」
確かに、客観的に見ればそうかもしれない。
どこにでもある口紅。どこにでもある風呂場の様子。
私の思い過ごし?
最近、課題で寝不足だったし、神経質になってるだけ?
ユカの明るいオレンジ色のニットを見ていると、少しだけ安心感が戻ってきた。
そうだよね。幽霊じゃあるまいし、鍵のかかった部屋に入れるわけがない。
彼氏のケントがこんなことをするはずもないし。
――ブブッ。
テーブルの上で、スマホが震えた。
ビクッとして画面を見る。
【バイバイ】からの通知。
『M氏から取引メッセージが届いています』
喉が張り付く。
恐る恐る、メッセージを開いた。
*
M氏:
購入ありがとうございます。
ですが、今回もあなたですか。ならば、お譲りできません。
まただ。
また、キャンセルされる。
でも、次の文章を読んだ瞬間、私の思考は完全に停止した。
私(購入者):
もしかして、私の家に無断で侵入してます?
M氏:
何の話でしょう。それよりも、お友達とのカフェは楽しいですか?
商品が買いたくて相談するのは勝手ですが、あなたには売りません。
お友達、オレンジ色の服なんて着て、派手ですね。類は友を呼ぶと言いますが、品のない人とは付き合いを考えた方がいいですよ。
*
「……あり得ない」
声にならない悲鳴が漏れる。
私はガバッと顔を上げ、カフェテリアを見渡した。
ガヤガヤと食事をする学生たち。
スマホを見ているカップル。
笑い合う女子会。
どこ?
どこにいるの?
「ミナミ? どうしたの急に。顔、真っ青だよ」
ユカが心配そうに覗き込んできた。
その胸元は、鮮やかなオレンジ色のニットに包まれている。
この広いカフェテリアで、今。
誰かが、私たちを見ている――。
私は震える指で、その『不潔な髪の毛』の購入ボタンを連打した。
欲しいわけじゃない。
ただ、この写真を誰かの目に触れさせたくない。
私の体の一部が、全ての人に晒されているのが耐えられない。
『購入手続きへ』
↓
『購入を確定する』
――取引が完了しました。
即座に、私は『バイバイ』の運営事務局へ通報メールを送った。
*
カテゴリは【迷惑行為・嫌がらせ】。
『私の住所を知っていると思われる人物による「ストーカー行為」の可能性があります。それどころか、建造物侵入の可能性もあります。商品画像は私の部屋で無断撮影されたものです。相手のIPアドレスの開示と、アカウントの凍結をお願いします。そもそも、このような出品はゆるされるのでしょうか? 規定違反では? 警察にも相談するつもりです』
*
――送信完了。
これで、少しはマシになるはずだ。
運営が動けば、M氏のアカウントは凍結される。それどころか、きっとBANだ。
でも、わずか三十分後――。
返ってきたのは、絶望的に冷たい定型文だった。
*
【バイバイ運営事務局】
お問い合わせありがとうございます。
お客様間のトラブルにつきましては、当事者同士での解決をお願いしております。なお、いただいた情報だけでは規約違反の事実は確認できませんでした。
警察への相談等は、お客様のご判断にてお願いいたします。
*
「……嘘でしょ。ひっど」
スマホを机に叩きつけたくなるのを堪える。
やっぱり、運営なんて助けてくれない。それとも、精巧なウィッグの可能性もあるのだろうか。
とにかく、誰かに話したい。話して落ち着きたい。
私は講義が終わるやいなや、親友のユカを捕まえて、駅前のカフェに駆け込んだ。
「ねえ、ちょっと聞いてよ。本当に怖いんだけど」
パスタを巻いているユカに、私はスマホの画面を突きつけた。
M氏のアカウント。
私の口紅。私の部屋。
蛇口に絡まった髪の毛。
ユカは眉をひそめて画面を覗き込むと、気の毒そうな顔で溜息をついた。
「ミナミ、疲れてるんじゃない?」
「えっ……?」
「だってこれ、ただの白いレースじゃん。ニトリとかで誰でも買えるやつでしょ?」
「でも、ほつれの位置まで一緒なんだよ!」
「偶然だって。それに、このお風呂場の写真もさ、ユニットバスなんてどこも似たようなもんじゃん」
ユカは笑い飛ばすように、アイスコーヒーのストローを回す。
「大体、ミナミの部屋にどうやって侵入すんのよ。合鍵とか彼氏に渡してる? 考えすぎだって」
「……そうかな。確かに、鍵は複製したこともないけど」
確かに、客観的に見ればそうかもしれない。
どこにでもある口紅。どこにでもある風呂場の様子。
私の思い過ごし?
最近、課題で寝不足だったし、神経質になってるだけ?
ユカの明るいオレンジ色のニットを見ていると、少しだけ安心感が戻ってきた。
そうだよね。幽霊じゃあるまいし、鍵のかかった部屋に入れるわけがない。
彼氏のケントがこんなことをするはずもないし。
――ブブッ。
テーブルの上で、スマホが震えた。
ビクッとして画面を見る。
【バイバイ】からの通知。
『M氏から取引メッセージが届いています』
喉が張り付く。
恐る恐る、メッセージを開いた。
*
M氏:
購入ありがとうございます。
ですが、今回もあなたですか。ならば、お譲りできません。
まただ。
また、キャンセルされる。
でも、次の文章を読んだ瞬間、私の思考は完全に停止した。
私(購入者):
もしかして、私の家に無断で侵入してます?
M氏:
何の話でしょう。それよりも、お友達とのカフェは楽しいですか?
商品が買いたくて相談するのは勝手ですが、あなたには売りません。
お友達、オレンジ色の服なんて着て、派手ですね。類は友を呼ぶと言いますが、品のない人とは付き合いを考えた方がいいですよ。
*
「……あり得ない」
声にならない悲鳴が漏れる。
私はガバッと顔を上げ、カフェテリアを見渡した。
ガヤガヤと食事をする学生たち。
スマホを見ているカップル。
笑い合う女子会。
どこ?
どこにいるの?
「ミナミ? どうしたの急に。顔、真っ青だよ」
ユカが心配そうに覗き込んできた。
その胸元は、鮮やかなオレンジ色のニットに包まれている。
この広いカフェテリアで、今。
誰かが、私たちを見ている――。



