スマホの画面が真っ暗になり、私の蒼白な顔だけを映し出している。
イヤホンからは、もう何も聞こえない。
けれど、あの鈍い音――針が肉を貫く音と、糸が皮膚を引き絞る音だけが、耳の奥にこびりついて離れなかった。
「……ミナミさん、大丈夫? この映像はさすがに辛すぎるよ」
ririさんが、恐る恐る私の手からイヤホンを外した。
「……うん。でも、ここで倒れてられないもん」
声が掠れた。
大丈夫なわけがない。
でも、不思議と涙は出なかった。
恐怖の許容量を超えたせいか、あるいはやっぱりという諦めが心を冷やしたのか。
ケントは、M氏側の人間だった。
洗脳されていたのか、元からそうだったのかは分からない。私と付き合いながら、私を見ていた。監視していた。
排水溝から髪の毛を取り出すのも、ケントなら可能な気がする。合鍵だって、私が知らない間に複製されていたに違いない。
ケントが、あの儀式を事務的にこなしていた姿は、紛れもない事実だ。私の好きだった優しい彼は、もう死んだのだ。
ブブッ。
テーブルの上のスマホが震えた。
【バイバイ】の通知音。
ケントからの電話ではない。
アプリの取引画面からのメッセージだ。
出品者:M氏
【発送通知】
メッセージ:
ご購入ありがとうございます。
商品の動画データはいかがでしたか?
評価は直接お会いして、下していただければ。
【発送元群馬県・長野県境 旧・柩村入口】
「……ririさん、これって来いってことだよね?」
動画の中でケントに語らせるような野暮な真似はしない。あくまで、フリマアプリの取引として、事務的に、私たちを呼び出している。
「でも、罠かもしれない。待ち伏せされて、私たちも縫われるかもしれないから。武器、ホームセンターで買っていこうか?」
ririさんは強がって笑ってみせたが、その指先はわずかに震えていた。
彼女だって怖いのだ。
でも、私たちはもう、この取引を完了させるしかなかった――。
*
ririさんが手配したレンタカーは、関越自動車道を北へ走った。都会の景色が後ろへ飛び去り、次第に山の色が濃くなっていく。
車内には、重苦しい沈黙が流れていた。
私は助手席で、流れる景色を見つめていた。
ケントと昔、ドライブした道だ。
彼が『今度、温泉に行こうか』と笑っていた道。
あの笑顔の裏で、彼は瞼を縫う練習をしていたのだろうか。
「……ねえ、ミナミさん」
ハンドルを握るririさんが、前を向いたまま言った。
「本当にいいの? 彼氏、本当に犯罪者かもしれないよ」
私の心臓が、ドクンと跳ねた。
認めたくないけれど、否定できない可能性。
「もう彼氏じゃないよ。私が、村で何をしてるのかハッキリさせるから」
私は膝の上で拳を握りしめた。
「……そっか。頼もしいね」
車は高速を降り、舗装の剥がれかけた旧道へと入っていった。
対向車など一台も通らない。
鬱蒼とした木々が、空を覆い隠していく。
やがて、スマホの電波表示が『5G』から『4G』へ、そして『圏外』へと変わった。Googleマップの青い点が、道なき道の上で停止する。
「ここから先は、ネットも通じない」
ririさんが車を停めた。
目の前には、『通行止』の看板と、苔むした古いトンネルが口を開けている。その脇に、風化して文字が読めなくなった石碑があった。
いや、文字ではない。
そこに刻まれていたのは、三つの渦巻き――『三眼渦』の紋章だった。
「……ここだ」
記憶の蓋が、完全に開く。
湿った空気の匂い。
虫の声。
そして、どこからか漂ってくる線香の香り。
ここが、柩村の入り口。
私のルーツであり、すべての悪意の源流。
「準備はいい?」
ririさんが、トランクからバールのようなものを二本取り出し、一本を私に渡した。
重い。冷たい鉄の感触。
これが、今の私たちが持てる唯一の武器だ。
「うん」
私はバールを握りしめ、トンネルの闇を見据えた。
この向こうに、M氏がいる。
ケントがいる。
私はスマホを取り出し、【バイバイ】のアプリ画面を開いた。
圏外になる直前に読み込んだ、取引画面。
そこには『受取評価待ち』の文字が光っている。
「行こう。出版者に会いに』
私たちは暗闇のトンネルへと足を踏み入れた。
背後で、夕暮れの光が遠ざかっていく。
もう、引き返せない。
私たちの命懸けの勝負が始まった――。
(第一部 完)
イヤホンからは、もう何も聞こえない。
けれど、あの鈍い音――針が肉を貫く音と、糸が皮膚を引き絞る音だけが、耳の奥にこびりついて離れなかった。
「……ミナミさん、大丈夫? この映像はさすがに辛すぎるよ」
ririさんが、恐る恐る私の手からイヤホンを外した。
「……うん。でも、ここで倒れてられないもん」
声が掠れた。
大丈夫なわけがない。
でも、不思議と涙は出なかった。
恐怖の許容量を超えたせいか、あるいはやっぱりという諦めが心を冷やしたのか。
ケントは、M氏側の人間だった。
洗脳されていたのか、元からそうだったのかは分からない。私と付き合いながら、私を見ていた。監視していた。
排水溝から髪の毛を取り出すのも、ケントなら可能な気がする。合鍵だって、私が知らない間に複製されていたに違いない。
ケントが、あの儀式を事務的にこなしていた姿は、紛れもない事実だ。私の好きだった優しい彼は、もう死んだのだ。
ブブッ。
テーブルの上のスマホが震えた。
【バイバイ】の通知音。
ケントからの電話ではない。
アプリの取引画面からのメッセージだ。
出品者:M氏
【発送通知】
メッセージ:
ご購入ありがとうございます。
商品の動画データはいかがでしたか?
評価は直接お会いして、下していただければ。
【発送元群馬県・長野県境 旧・柩村入口】
「……ririさん、これって来いってことだよね?」
動画の中でケントに語らせるような野暮な真似はしない。あくまで、フリマアプリの取引として、事務的に、私たちを呼び出している。
「でも、罠かもしれない。待ち伏せされて、私たちも縫われるかもしれないから。武器、ホームセンターで買っていこうか?」
ririさんは強がって笑ってみせたが、その指先はわずかに震えていた。
彼女だって怖いのだ。
でも、私たちはもう、この取引を完了させるしかなかった――。
*
ririさんが手配したレンタカーは、関越自動車道を北へ走った。都会の景色が後ろへ飛び去り、次第に山の色が濃くなっていく。
車内には、重苦しい沈黙が流れていた。
私は助手席で、流れる景色を見つめていた。
ケントと昔、ドライブした道だ。
彼が『今度、温泉に行こうか』と笑っていた道。
あの笑顔の裏で、彼は瞼を縫う練習をしていたのだろうか。
「……ねえ、ミナミさん」
ハンドルを握るririさんが、前を向いたまま言った。
「本当にいいの? 彼氏、本当に犯罪者かもしれないよ」
私の心臓が、ドクンと跳ねた。
認めたくないけれど、否定できない可能性。
「もう彼氏じゃないよ。私が、村で何をしてるのかハッキリさせるから」
私は膝の上で拳を握りしめた。
「……そっか。頼もしいね」
車は高速を降り、舗装の剥がれかけた旧道へと入っていった。
対向車など一台も通らない。
鬱蒼とした木々が、空を覆い隠していく。
やがて、スマホの電波表示が『5G』から『4G』へ、そして『圏外』へと変わった。Googleマップの青い点が、道なき道の上で停止する。
「ここから先は、ネットも通じない」
ririさんが車を停めた。
目の前には、『通行止』の看板と、苔むした古いトンネルが口を開けている。その脇に、風化して文字が読めなくなった石碑があった。
いや、文字ではない。
そこに刻まれていたのは、三つの渦巻き――『三眼渦』の紋章だった。
「……ここだ」
記憶の蓋が、完全に開く。
湿った空気の匂い。
虫の声。
そして、どこからか漂ってくる線香の香り。
ここが、柩村の入り口。
私のルーツであり、すべての悪意の源流。
「準備はいい?」
ririさんが、トランクからバールのようなものを二本取り出し、一本を私に渡した。
重い。冷たい鉄の感触。
これが、今の私たちが持てる唯一の武器だ。
「うん」
私はバールを握りしめ、トンネルの闇を見据えた。
この向こうに、M氏がいる。
ケントがいる。
私はスマホを取り出し、【バイバイ】のアプリ画面を開いた。
圏外になる直前に読み込んだ、取引画面。
そこには『受取評価待ち』の文字が光っている。
「行こう。出版者に会いに』
私たちは暗闇のトンネルへと足を踏み入れた。
背後で、夕暮れの光が遠ざかっていく。
もう、引き返せない。
私たちの命懸けの勝負が始まった――。
(第一部 完)

