警察署を出たとき、東の空が白み始めていた。
徹夜の事情聴取と、信じてもらえなかった徒労感で、私の体は鉛のように重かった。
「ミナミ、送っていくよ。タイヤ、スペアに変えたから走れるし」
ケントが私の腕を取ろうとする。
その手を、私は避けた。
「……ううん。いい」
「どうした?」
「ケントは帰って休んで。私、もう少しririさんと話したいことがあるから」
私は嘘をついた。
本当は、M氏のメッセージ――『隣の男の車、本当にパンクしていますか?』という言葉が、トゲのように刺さっていたからだ。
今、ケントと二人きりの密室(車内)にいるのは、怖かった。
「……分かった。無理するなよ」
ケントは少し傷ついたような顔をしたが、それ以上食い下がってはこなかった。
彼が去っていく背中を見送り、私はririさんが解放されるのを待った。
しばらくして、ようやく彼女が現れた。
「ごめんね、巻き込んで。前科がついちゃうかもしれないのに」
「ううん。正当防衛にしてもらえそう。あの男が、ミナミさんを襲ったんだし」
「警察は信じてくれなかったけどね」
彼女の瞳には、怯えの色はもうなかった。代わりにあったのは、冷徹なまでの決意だ。
「でね、ミナミさん。私たちが助かる方法は、一つしかないよ」
「どんな?」
「警察はあてにならない。管理人でもない。……本物のM氏に会って、終わらせるしかない」
*
私たちは早朝のファミレスに入り、作戦会議を開いた。
「コイツの目的は、きっと支配だよ」
ririさんは、ドリンクバーのコーヒーをブラックで飲みながら続けた。
「ゴミだって分かってても、怖かったんだよね。私の角膜に張り付いていたものだよ? それを誰かが拾って、撮影して、値段をつけてる。まるで私の一部が切り取られて、知らない人の所有物になったみたいで……」
知らない人の所有物。
その言葉に、私は背筋が粟立つ思いがした。
「だから、会いに行ったの?」
「うん。取り返さなきゃ、次は眼球そのものを出品されるんじゃないかって、本気で思ったから」
ririさんはそこで言葉を切り、深く息を吸った。
「でね、あいつに会った時に……一番不気味だったのは、あの仮面」
「仏……だっけ?」
「そう。でも、ただのパーティグッズの仮面じゃないの。もっと質感が……和紙を何重にも貼り付けたような、古い張り子みたいな感じで。目の穴の奥が、暗くて全く見えなかった」
「どこで手に入れたんだろう。ネット通販?」
「調べてみたけど、同じものは見つからなかった。もしかしたら、自作か……あるいは骨董品かも。あの喪服も、安物じゃなかった。生地がしっかりしてて、家紋まで入ってた気がする」
「家紋……?」
ririが頷いて、溢れたコーヒーを拭き取ったナプキンに何かを書き始めた。

「これ……」
三つの渦巻きが絡み合い、まるでこちらを睨む目玉のように見える奇妙な紋様だ。
ドクン、と心臓が嫌な音を立てた。
知ってる。この形。
お寺のマーク? それとも、どこかの家の……。
記憶の深い霧の向こう側に、ぼんやりとした輪郭が浮かび上がるけれど、手を伸ばすとフッと消えてしまう。もどかしい。
「ごめん、思い出せない。でも、すごく嫌な感じがする」
「そっか……。やっぱり、普通の家紋じゃないよね」
ririさんがナプキンをくしゃりと丸めた、その時だった。
ブブッ。
テーブルの上で、ririさんのスマホが短く震えた。【バイバイ】の通知音。
空気が凍りつく。ririさんの顔から表情が消えた。
恐る恐る、彼女が画面をタップする。
「……嘘でしょ。ミナミさん、見て」
彼女が震える手で差し出した画面を見て、私は息を呑んだ。
新しい出品通知。
【商品画像】

商品名:
【大特価】裏切り者のエサ(個人情報付き)
価格:
¥ 100 (送料込み)
説明:
ある人物への協力をやめないなら、この餌を誰でも買えるようにします。住所も大学も、全部セットで。早い者勝ちですよ。
「……私の、ゴミだ」
ririさんの声が絶望に染まる。管理人が逮捕されても、M氏はまだ、活動できている。やはり、犯人は別にいる――。
徹夜の事情聴取と、信じてもらえなかった徒労感で、私の体は鉛のように重かった。
「ミナミ、送っていくよ。タイヤ、スペアに変えたから走れるし」
ケントが私の腕を取ろうとする。
その手を、私は避けた。
「……ううん。いい」
「どうした?」
「ケントは帰って休んで。私、もう少しririさんと話したいことがあるから」
私は嘘をついた。
本当は、M氏のメッセージ――『隣の男の車、本当にパンクしていますか?』という言葉が、トゲのように刺さっていたからだ。
今、ケントと二人きりの密室(車内)にいるのは、怖かった。
「……分かった。無理するなよ」
ケントは少し傷ついたような顔をしたが、それ以上食い下がってはこなかった。
彼が去っていく背中を見送り、私はririさんが解放されるのを待った。
しばらくして、ようやく彼女が現れた。
「ごめんね、巻き込んで。前科がついちゃうかもしれないのに」
「ううん。正当防衛にしてもらえそう。あの男が、ミナミさんを襲ったんだし」
「警察は信じてくれなかったけどね」
彼女の瞳には、怯えの色はもうなかった。代わりにあったのは、冷徹なまでの決意だ。
「でね、ミナミさん。私たちが助かる方法は、一つしかないよ」
「どんな?」
「警察はあてにならない。管理人でもない。……本物のM氏に会って、終わらせるしかない」
*
私たちは早朝のファミレスに入り、作戦会議を開いた。
「コイツの目的は、きっと支配だよ」
ririさんは、ドリンクバーのコーヒーをブラックで飲みながら続けた。
「ゴミだって分かってても、怖かったんだよね。私の角膜に張り付いていたものだよ? それを誰かが拾って、撮影して、値段をつけてる。まるで私の一部が切り取られて、知らない人の所有物になったみたいで……」
知らない人の所有物。
その言葉に、私は背筋が粟立つ思いがした。
「だから、会いに行ったの?」
「うん。取り返さなきゃ、次は眼球そのものを出品されるんじゃないかって、本気で思ったから」
ririさんはそこで言葉を切り、深く息を吸った。
「でね、あいつに会った時に……一番不気味だったのは、あの仮面」
「仏……だっけ?」
「そう。でも、ただのパーティグッズの仮面じゃないの。もっと質感が……和紙を何重にも貼り付けたような、古い張り子みたいな感じで。目の穴の奥が、暗くて全く見えなかった」
「どこで手に入れたんだろう。ネット通販?」
「調べてみたけど、同じものは見つからなかった。もしかしたら、自作か……あるいは骨董品かも。あの喪服も、安物じゃなかった。生地がしっかりしてて、家紋まで入ってた気がする」
「家紋……?」
ririが頷いて、溢れたコーヒーを拭き取ったナプキンに何かを書き始めた。

「これ……」
三つの渦巻きが絡み合い、まるでこちらを睨む目玉のように見える奇妙な紋様だ。
ドクン、と心臓が嫌な音を立てた。
知ってる。この形。
お寺のマーク? それとも、どこかの家の……。
記憶の深い霧の向こう側に、ぼんやりとした輪郭が浮かび上がるけれど、手を伸ばすとフッと消えてしまう。もどかしい。
「ごめん、思い出せない。でも、すごく嫌な感じがする」
「そっか……。やっぱり、普通の家紋じゃないよね」
ririさんがナプキンをくしゃりと丸めた、その時だった。
ブブッ。
テーブルの上で、ririさんのスマホが短く震えた。【バイバイ】の通知音。
空気が凍りつく。ririさんの顔から表情が消えた。
恐る恐る、彼女が画面をタップする。
「……嘘でしょ。ミナミさん、見て」
彼女が震える手で差し出した画面を見て、私は息を呑んだ。
新しい出品通知。
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商品名:
【大特価】裏切り者のエサ(個人情報付き)
価格:
¥ 100 (送料込み)
説明:
ある人物への協力をやめないなら、この餌を誰でも買えるようにします。住所も大学も、全部セットで。早い者勝ちですよ。
「……私の、ゴミだ」
ririさんの声が絶望に染まる。管理人が逮捕されても、M氏はまだ、活動できている。やはり、犯人は別にいる――。

