私はケントの車で、アパートに戻った。
今日はもう大学も休むつもりだ。
「俺は、いくつか仕事を片付けてくる。その間、ミナミは鍵をかけて待ってて。ririさんは夜、ミナミの部屋を訪ねてくるから」
「うん。気をつけてね」
ケントが部屋を出て行き、私はドアの鍵とチェーンをかけた。
部屋に一人きりになる。
さっき聞いた高橋リナさん――ririさんの声が耳に残っている。
『一〇三号室』
同じアパートの住人が被害に遭っていた事実。
私はケントが戻ってくるまで、疲れた体をベッドで休めた。
*
――ピンポーン。
突然、インターホンが鳴った。
ビクリと肩が跳ねる。
どうやら、深い眠りに就いてしまったようだ。時刻は21時を過ぎている。
ケント? いや、この時間なら待ち合わせていたririさんに違いない。
私はモニターを覗き込んだ。
そこに映っていたのは、予想外の人物だった。
アパートの管理人だ。
あの脂ぎった顔が、カメラに近づきすぎて魚眼レンズのように歪んでいる。
「……はい」
『あー、夜分にすみませんねぇ、二〇五号室さん』
スピーカーから聞こえる粘着質な声。私は身構えた。
「何の用ですか」
『実はね、今、一〇三号室の高橋さんが部屋に来てるんですよ』
「えっ……高橋さんが?」
『ええ。なんかストーカーがどうとか言って、泣きじゃくっちゃっててね。警察呼んでくれって騒ぐもんだから、困っちゃって』
高橋さんが、管理室に?
私たちが明日行く計画を立てていたのに、彼女は一人で耐えきれなくなってしまったんだろうか。
『私じゃ話にならないから、同じ学生の話を聞いて欲しいと思って。ちょっと下まで来てもらえませんか?』
「……分かりました。すぐ行きます」
私は迷わず答えた。
ケントに連絡しようとしたが、彼はスマホを私のリビングのテーブルに置いたまま出て行っていた。
待っている時間はない。高橋さんが泣いているなら、私が助けなきゃ。
私はサンダルを突っ掛け、パジャマの上にパーカーを羽織って部屋を飛び出した。
*
一階の管理室。
鉄の扉が半開きになっている。
中から、湿ったカビのような匂いが漂ってくる。
「高橋さん?」
私が中に入る。
管理人の男が私に続いた。
「ほら、私の和室でうずくまって泣いてるから、早くしてあげて」
振り返ると、管理人がアゴで先を促した。ランニングシャツに、ステテコ姿。
狭い土間には、古新聞や雑誌が山積みにされている。
私は仕方なく靴を脱いだ。
「高橋さんは……私でよければ話を――」
和室を覗いた瞬間。
ガチャン!
背後で重い金属音がした。
振り返ると、管理人が扉を閉め、鍵をかけていた。
「……え?」
「いないよ、そんな女」
男がニタリと笑った。
黄色い歯が見える。
その目が、私のパーカーの胸元をねっとりと舐めた。
「前から思ってたんだよ。あんた、いい匂いがするって」
「う、嘘……開けて! 出してください!」
「静かにしなよ。最近、男連れ込んでるだろ? あんたの出したゴミ袋に、男物の下着が捨てられてたのも見てるんだから」
管理人が一歩ずつ近づいてくる。
やっぱり、ゴミを見ていた。
M氏は、この男だ。
「やめて、来ないで! 警察呼びますよ!」
「呼べばいい。あんたが、私の部屋に侵入したんだ。逮捕してもらうのに、手間が省ける」
男の手が伸びてきた。
私は後ずさり、床の衣類に足を取られて転んだ。
埃とカビの匂いが鼻孔を塞ぐ。
「いやぁぁぁっ!!」
「大人しくしてろ。すぐ終わるから」
男が覆いかぶさってくる。
重い。脂臭い。
汚い手が、私のパーカーの中に侵入してくる。
ケント、助けて。
ケント!!
叫ぼうとした口を、男の分厚い手が塞いだ。
意識が遠のきそうになった、その時だった。
ガシャァァァァァン!!
凄まじい破砕音と共に、管理室の窓ガラスが粉々に砕け散った。
「なっ、なんだ!?」
男が驚いて私から離れる。
飛び散ったガラス片の向こう。
窓枠を乗り越えて、誰かが土足で飛び込んできた。
ベージュのトレンチコート。
長い髪。
手には、レンガブロックが握られている。
「……さわんな、クソジジイ」
ICレコーダーで聞いた声。
「まさか、高橋……さん?」
ririさんは無言のまま、手に持っていたレンガを男の顔面に投げつけた。
「ぐぎゃあっ!」
男が鼻を押さえてうずくまる。
その隙に、高橋さんは私の腕を掴んで引き起こした。
「逃げるよ!」
彼女は内側から鍵を開け、私を引きずり出した。
夜の冷たい空気が肺に入ってくる。
私たちは夢中で走った。
アパートの敷地を出て、外灯の下まで来て、ようやく足を止めた。
「はぁ、はぁ……だ、大丈夫?」
高橋さんが私の背中をさする。
その手は、ガラス片で切ったのか、少し血が滲んでいた。
「ありがとう……助かった……本当に、ありがとう……」
私はへなへなと座り込み、涙を流した。
彼女がいなかったら、どうなっていたか分からない。
「ミナミ!?」
通りの向こうから、聞き慣れた声がした。
ケントだ。
コンビニの袋を提げたケントが、血相を変えて走ってくる。
「どうしたんだ、何があった!?」
ケントは私の肩を抱き寄せた。
でも、私はその温かさに安心するよりも先に、冷たい疑問が胸をよぎった。
この人は、今までどこにいたの?
「……遅いよ」
私が絞り出すように言うと、ケントは痛ましげに顔を歪めた。
「ごめん。車がパンクしちゃって……手間取ってたんだ」
パンク?
そんなタイミング良く?
私は横に立つ高橋さんを見た。
彼女は乱れた髪を直しながら、ケントをじっと見つめていた。
その目は、恩人を見る目でも、仲間を見る目でもなかった。ゴミを見るような、冷ややかな目だった。
今日はもう大学も休むつもりだ。
「俺は、いくつか仕事を片付けてくる。その間、ミナミは鍵をかけて待ってて。ririさんは夜、ミナミの部屋を訪ねてくるから」
「うん。気をつけてね」
ケントが部屋を出て行き、私はドアの鍵とチェーンをかけた。
部屋に一人きりになる。
さっき聞いた高橋リナさん――ririさんの声が耳に残っている。
『一〇三号室』
同じアパートの住人が被害に遭っていた事実。
私はケントが戻ってくるまで、疲れた体をベッドで休めた。
*
――ピンポーン。
突然、インターホンが鳴った。
ビクリと肩が跳ねる。
どうやら、深い眠りに就いてしまったようだ。時刻は21時を過ぎている。
ケント? いや、この時間なら待ち合わせていたririさんに違いない。
私はモニターを覗き込んだ。
そこに映っていたのは、予想外の人物だった。
アパートの管理人だ。
あの脂ぎった顔が、カメラに近づきすぎて魚眼レンズのように歪んでいる。
「……はい」
『あー、夜分にすみませんねぇ、二〇五号室さん』
スピーカーから聞こえる粘着質な声。私は身構えた。
「何の用ですか」
『実はね、今、一〇三号室の高橋さんが部屋に来てるんですよ』
「えっ……高橋さんが?」
『ええ。なんかストーカーがどうとか言って、泣きじゃくっちゃっててね。警察呼んでくれって騒ぐもんだから、困っちゃって』
高橋さんが、管理室に?
私たちが明日行く計画を立てていたのに、彼女は一人で耐えきれなくなってしまったんだろうか。
『私じゃ話にならないから、同じ学生の話を聞いて欲しいと思って。ちょっと下まで来てもらえませんか?』
「……分かりました。すぐ行きます」
私は迷わず答えた。
ケントに連絡しようとしたが、彼はスマホを私のリビングのテーブルに置いたまま出て行っていた。
待っている時間はない。高橋さんが泣いているなら、私が助けなきゃ。
私はサンダルを突っ掛け、パジャマの上にパーカーを羽織って部屋を飛び出した。
*
一階の管理室。
鉄の扉が半開きになっている。
中から、湿ったカビのような匂いが漂ってくる。
「高橋さん?」
私が中に入る。
管理人の男が私に続いた。
「ほら、私の和室でうずくまって泣いてるから、早くしてあげて」
振り返ると、管理人がアゴで先を促した。ランニングシャツに、ステテコ姿。
狭い土間には、古新聞や雑誌が山積みにされている。
私は仕方なく靴を脱いだ。
「高橋さんは……私でよければ話を――」
和室を覗いた瞬間。
ガチャン!
背後で重い金属音がした。
振り返ると、管理人が扉を閉め、鍵をかけていた。
「……え?」
「いないよ、そんな女」
男がニタリと笑った。
黄色い歯が見える。
その目が、私のパーカーの胸元をねっとりと舐めた。
「前から思ってたんだよ。あんた、いい匂いがするって」
「う、嘘……開けて! 出してください!」
「静かにしなよ。最近、男連れ込んでるだろ? あんたの出したゴミ袋に、男物の下着が捨てられてたのも見てるんだから」
管理人が一歩ずつ近づいてくる。
やっぱり、ゴミを見ていた。
M氏は、この男だ。
「やめて、来ないで! 警察呼びますよ!」
「呼べばいい。あんたが、私の部屋に侵入したんだ。逮捕してもらうのに、手間が省ける」
男の手が伸びてきた。
私は後ずさり、床の衣類に足を取られて転んだ。
埃とカビの匂いが鼻孔を塞ぐ。
「いやぁぁぁっ!!」
「大人しくしてろ。すぐ終わるから」
男が覆いかぶさってくる。
重い。脂臭い。
汚い手が、私のパーカーの中に侵入してくる。
ケント、助けて。
ケント!!
叫ぼうとした口を、男の分厚い手が塞いだ。
意識が遠のきそうになった、その時だった。
ガシャァァァァァン!!
凄まじい破砕音と共に、管理室の窓ガラスが粉々に砕け散った。
「なっ、なんだ!?」
男が驚いて私から離れる。
飛び散ったガラス片の向こう。
窓枠を乗り越えて、誰かが土足で飛び込んできた。
ベージュのトレンチコート。
長い髪。
手には、レンガブロックが握られている。
「……さわんな、クソジジイ」
ICレコーダーで聞いた声。
「まさか、高橋……さん?」
ririさんは無言のまま、手に持っていたレンガを男の顔面に投げつけた。
「ぐぎゃあっ!」
男が鼻を押さえてうずくまる。
その隙に、高橋さんは私の腕を掴んで引き起こした。
「逃げるよ!」
彼女は内側から鍵を開け、私を引きずり出した。
夜の冷たい空気が肺に入ってくる。
私たちは夢中で走った。
アパートの敷地を出て、外灯の下まで来て、ようやく足を止めた。
「はぁ、はぁ……だ、大丈夫?」
高橋さんが私の背中をさする。
その手は、ガラス片で切ったのか、少し血が滲んでいた。
「ありがとう……助かった……本当に、ありがとう……」
私はへなへなと座り込み、涙を流した。
彼女がいなかったら、どうなっていたか分からない。
「ミナミ!?」
通りの向こうから、聞き慣れた声がした。
ケントだ。
コンビニの袋を提げたケントが、血相を変えて走ってくる。
「どうしたんだ、何があった!?」
ケントは私の肩を抱き寄せた。
でも、私はその温かさに安心するよりも先に、冷たい疑問が胸をよぎった。
この人は、今までどこにいたの?
「……遅いよ」
私が絞り出すように言うと、ケントは痛ましげに顔を歪めた。
「ごめん。車がパンクしちゃって……手間取ってたんだ」
パンク?
そんなタイミング良く?
私は横に立つ高橋さんを見た。
彼女は乱れた髪を直しながら、ケントをじっと見つめていた。
その目は、恩人を見る目でも、仲間を見る目でもなかった。ゴミを見るような、冷ややかな目だった。

