「いいかー。この夏が最後の勝負だからな! しっかり勉強しろよー」
担任が気だるげな声で生徒を叱咤激励する。それを聞きながら生徒たちは課題を配る手を止めない。
高校三年生になった竜ヶ崎誠は最後の夏休みを迎えようとしていた。
前の生徒から能動的に回される問題集を、ベルトコンベア式に後ろに回しながら、夏休みをどうやって過ごそうかと考える。
教師はみんな口を揃えて勉強をしろと言ってくるが、最後の夏休みを勉強だけに費やすつもりは頭になかった。
真面目な生徒は真剣な表情で担任の話に耳を傾けている一方、やる気のない生徒は配布物を後ろに配りながら、ひそひそ話を交わして笑いあっていた。
やる気がない生徒には何を言っても無駄だと諦めているのか、担任がその生徒たちを叱ることはなかった。
「ヤマセーン! これって、私たちもやらなきゃいけないんですかぁ?」
クラスのカースト上位に属する女子生徒、相田華がニヤニヤしながらヤマセンこと担任の山崎透に尋ねている。ヤマセンは面倒くさそうに手を振ると「やれば少しはマシになるかもしれんぞ」と答える。
ヤマセンの答えに、相田は「ひっどーい」と周りの生徒たちと一緒になってクスクス笑う。ヤマセンがしかめっ面をすると、それすらも面白かったのか相田とその仲間たちは声を大きくして笑い出す。
彼女たちは間違いなくやる気のない生徒に分類されるだろう。
「おい、早く受け取れよ」
華とヤマセンのやり取りを見ていたら、前から渡されていたプリントに気が付かなかった。プリントを片手に不機嫌そうな顔をしているのは鈴木悠真という生徒だ。彼は勉強はできるが運動は苦手な典型的なガリ勉タイプの生徒だった。
「わるい、気が付かなかった」
謝りながらプリントを受け取ると、悠真は気にしていないのかすぐに前を向き、配られたばかりのプリントを確認している。
「なんにしても、後悔するような夏にだけはするなよ。あとから泣いて縋ったって助けてやらないからな」
ギロリと華たちを睨み、厳しいことを言ったヤマセンにまた笑い声が上がる。
ヤマセンは悪い先生ではないのだが、大きな体に丸い顔、筋肉質な胸板がどこか熊を連想させ、真面目な話をしているときほど何故か面白く見えてしまう。だから、このクラスでヤマセンが真面目に話しても、ちゃんと聞く生徒の方が少ない。
ヤマセンも自分の見た目が原因なのをわかっているからか、必要以上に話を押し付けたりはしなかった。
かくいう誠も、ヤマセンの話を右から左に聞き流す生徒の一人だった。
適当に話を聞いていると、机の中に入れていたスマートフォンが光を放つ。授業中にスマートフォンを触っているのが先生に見つかると、反省文を書かされるが、それだけでは生徒たちのルール逸脱は収まらない。
誠はヤマセンの目を盗み、悠真の背に上手く隠れつつスマートフォンを確認する。
『今日、どうする?』
簡潔なそのメッセージは、隣のクラスにいる田辺裕二からだった。
田辺裕二とは小学校からの付き合いで、幼馴染であり親友でもある。
ふわふわとしたくせ毛な麻茶色の髪が、ゴールデンレトリバーを彷彿とさせる。そんな彼の頭を、誠はいつも気がつくと撫で回してしまう。その度に裕二はせっかくセットした髪の毛がぐちゃぐちゃになると怒っていたが、それもぽやぽやとしていて本当に怒っているのか聞きたくなるほどだった。
そして、裕二はその髪と同じくらい優しい性格をしており、大抵のことは笑って許してしまう気前の良さも持ち合わせていた。
彼はその性格と、持ち前の天然発言で周りを味方につけるのも上手かった。
一方、誠は言葉で相手に伝えることが苦手だったから、裕二のそんな所をただすごいと思っていた。
『ゲーセン。いつものところ』
サッとメッセージを打つと送信ボタンを押す。誠がスマートフォンの電源を落とす前にメッセージが既読になり、『了解!』と元気な返事と一緒に可愛らしい犬のスタンプが送られてくる。
――こんなところでも犬かよ。
誠は笑いながら今度こそスマートフォンの電源を落とす。
*
ヤマセンの長い話が終わり、誠は昇降口で裕二のことを待った。
裕二は日直のようで日直の仕事を片付けているところだった。そのため、誠は彼を待っている間、手持ち無沙汰になり、スマートフォンを無意識に動かす。
目新しい情報は何もなく、流れてくるのは反政府派の話だったり、巷を騒がせている不穏な事件の話だったりと、大して面白くもなかった。どれだけつまらないと思っていてもスマートフォンを触る手は止められないのだから不思議なものだった。
「あれー? 誠じゃーん! 何してんの?」
画面に集中していると横から華が顔を覗かせてきた。華が顔を近づけたことで、フワッと柑橘系のいい香りが漂い、鼻をくすぐる。
華と誠は同じ部活――野球部の選手とマネージャーという関係だった。しかしそれは過去の話で、誠は高校二年生の大会の時に肩を故障して、部活を辞めてしまっていた。他の仲間が気まずそうに誠と距離をとる中で、華だけは部活にいた頃と変わらずに誠に話しかけてくれた。
鬱陶しいと思うこともあったが、振り返ってみれば、華の存在は誠の中でも大きく、助けになっていた。
「あ! わかった! あいつ待ってるんでしょー」
「大きな声で騒ぐなよ。耳が痛いだろ」
「はぁ? そんなに大きな声出してないし!」
誠がわざと耳を塞ぐ真似をすると、華はぷくっと口をふくらませて彼の鳩尾に軽いパンチをお見舞する。痛くはなかったが、大袈裟に呻き声を上げると、それが面白かったのか、華はケラケラと笑い出す。
笑うとできるえくぼや、彼女の明るい性格と誰にでも隔てなく話しかける優しさから学年問わず人気があった。
今のところ誰かと付き合っているとかいう話はなかったが、常に誰が華に告白をして振られたかについて噂が立つほどだった。
「今日も遊びに行くの? あんた達呑気だね」
笑いながら華は校舎の奥を覗き込んで誠の待ち人が通らないかと探す。
誠は「別にいいだろ」と肩を竦めながら言う。続いて「俺、お前より頭良いし」と呟くと、今度は背中を強く叩かれた。
「なっ、にするんだよ!」
じくじくと痛む背中を押さえながら華はふんっと腰に手を当てて仰け反る。
「あんたがデリカシーのないこと言うからでしょ! それに、私だってあんたほどじゃないけど、ちゃんと頭いいんだから!」
華はそう言い放つとぷりぷり怒ったまま昇降口の方に向かってしまった。「なんなんだあいつ」と愚痴りながら衝撃でずり落ちたカバンを肩にかけ直す。
「また、怒らせたの?」
その時、後ろから少し高めで、眠たそうな声が聞こえてくる。声の聞こえた方に顔を向けると誠が待っていた生徒――田辺裕二が昇降口の方を見ていた。
「ダメだよ。ちゃんと仲良くしないと」
「別にいいんだよ、あいつは。もうあれがお決まりみたいなもんなんだから」
「そう? でも、謝っておいた方がいいよ。女の子を怒らせると怖いってみんな言ってるし」
裕二は首を傾げながら誠に忠告する。誠はその忠告を右から左に聞き流しながら昇降口に向かって歩き出す。チラッと顔を外に向けると、華はすでに機嫌が直ったのか、友達と笑い合いながら歩いていた。
「ほら、見ろ。あいつ、もう馬鹿みたいに笑ってるぞ」
「もう。そんな言い方ダメだよ」
小走りで誠の後を着いてきた裕二は、下駄箱から外靴を取り出す。二人は並んで校舎から外に出ると、頭上で輝く太陽の日差しが肌を突き刺し、汗が滲み出す。ベタベタとするから裕二は夏が苦手だと言うけれど、元野球の誠はこのくらいの暑さなら平気だった。
「暑いね。早く秋が来ないかなぁ」
手でうちわのように扇ぎながら裕二は呟く。彼の首筋からたくさんの汗が流れているのが見える。
「そうでもないだろ。昨日もこれくらいだったし」
誠は空を見上げながら答える。その言葉に、裕二は「そうだっけ?」ととぼける。
二人の通う学校は小高い丘の上に建てられていた。四階の教室から外を眺めると、澄み渡る青空と町並が一望できるのが唯一いいところだった。
しかし、誇れるところはそれだけだった。偏差値やスポーツの成績は平均的で、学校として突出したものは何もなかった。良くも悪くも平凡な学校だ。
学校に繋がる坂道を降りていき、商店街に出ると、裕二は嬉しそうに走り出した。
裕二が言うには、夏は商店街の店から流れてくる冷気が涼しくて気持ちがいいそうだ。誠としてはたいして変わりないだろうと思っていたが、気温の変化に敏感な裕二には全然違うようだった。
「誠! 早く来てよ!」
先ほどよりもいきいきとした裕二が笑顔で手を振っている。
誠は片手を挙げてその後ろに続こうとした。
その時、目の前に何かが映った気がした。
それは一瞬すぎて何かわからなかったが、何か良くないものだと本能的に感じた。肌は粟立ち、暑いはずなのに体が震えた。
――なんだったんだ?
深く考えようとしたが、少し先から裕二が「何してるの?」と呼びかけてきたことで、誠の意識は現実に引き戻された。
誠は「なんでもない」と返して、気を取りなおす。きっと気のせいだ、と今感じた違和感を無理やり無視する。
二人は商店街を進んでいき、他よりも真新しい店の前にたどり着く。
そこは数年前にできたゲームセンターだった。変化の少ないこの町でこの店がオープンした時、町の子供たちは毎日のように遊びにきた。当然お金がかかる施設のため、親はいい顔をしなかったらしいが子供たちには関係なかった。
キラキラとした店内に、大きな音で流れる音楽と数々のゲーム機は、娯楽に飢えた子供たちにとって夢のようだった。
しかし、そんなゲームセンターも今では子供たちの興味から外れてしまい、訪れるのは暇を持て余した人たちだった。誠も裕二も受験生だったが、勉強の合間の息抜き感覚でよく遊びにきていた。
ゲームセンターの中に入ると、ふわっと涼しい風が二人を包み込んだ。汗がいい感じに冷えて、心地よかった。
裕二は店の中に入ると、好きなキャラクターのクレーンゲームを見つけたのか、小走りで近づいていく。
「わぁ、見てみて! 僕の好きなゲームのアクスタだよー」
裕二が声を弾ませてながら誠に話しかける。
その機体の中には、たくさんの輪っか付きの景品が入っており、アームを使って下に落下させるゲームのようだった。
裕二は誠の隣でプレイするかどうかで悩み始める。裕二が得意なのは反射神経を使うようなゲームで、アーム操作が求められるものは苦手だった。
誠はそんな彼の様子に見かねたようにため息を吐くと、迷わずお金を機械に投入する。
「え? 誠がやるの?」
驚いたように裕二が誠に聞く。誠は小さく頷く。
誠は特にクレーンゲームが得意なわけでも、好きなわけでもなかった。しかし、裕二の喜ぶ顔が見たいという気持ちがかった。
誠は制限時間が表示されたそれをみて、アームを動かし始める。景品の位置とアームの開き具合を想像して、ここだと思うタイミングで手を離す。楽しげな音楽と共にアームは下がっていく。アームの端で輪っかを捉えることはできたが、ほんの少し位置を変えただけで景品獲得には至らなかった。
誠は「まあ、こんなもんか」と呟くが、隣では裕二が大袈裟に落ち込んでいた。
「あと少しだったのに! 惜しかったね、誠」
どうみても残念そうにしているのは裕二なのに、なぜか誠を慰める。
「別に。一回で取れるなんて思ってないし」
「それでもだよ! 貴重な百円が無駄に終わったんだから」
そう言うと裕二も財布を取り出して、チャレンジする。裕二は真剣に機体の中を睨みつけながら、アームを操作するが、位置が悪かったのか輪っかにかすりもしなかった。
「ええー? 絶対に入ったと思ったのに!」
残念そうにする裕二は財布の中を見て、そっとその口を閉じた。
「もういいのか?」
「うん。僕だけが楽しんでもよくないしさ。どうせなら一緒にできる方が楽しいでしょ?」
裕二は誠の手を掴むと、店の奥へと引っ張っていく。
店の奥側には複数人できるゲームや音楽ゲームが並んでいた。
裕二は「どれがいいかなぁ?」と言いながらゲームを物色する。頻繁にきている二人にはやり尽くしたゲームばかりだったが、勝負の結果はやるたびに違っていたからいつでも新鮮な気持ちで楽しめていた。
あれこれと悩む裕二の横で、誠は適当に円形の音楽ゲームを指差す。
「あれでいいんじゃね? あれなら実力同じくらいだろ」
「いいね! じゃあ、あっち行こう」
ゲーム機に近づくと、コアな客が黙々とそのゲームをやっていた。その人の邪魔にならないように、二人は荷物を床に置くとお金を投入する。
画面が切り替わり、モード選択に移る。誠は迷わず対戦モードを選び、難易度も選択する。高ランクは二人には難しく、遊んでいても楽しいとは言えなかったため、自分の実力に合った難易度にする。
「今日は負けないからね」
「楽しみにしてる、お前が勝つことを」
*
結局、二人の勝敗は五分五分で落ち着いた。
十分に遊び尽くすと、裕二と誠は外に出る。昼間よりは幾分か和らいでいるが、それでも夏の暑さは猛威を振るっている。
「もうこんな時間なんだね」
夕日が半分くらい沈んでいる空を見て裕二が呟く。たしかに、と思いながら誠も空を見上げる。もくもくと立派な入道雲が真っ赤な絵の具を溶かしたような空に浮かんでいる。
二人で遊んでいると時間があっという間に過ぎてしまう。この調子だと、夏休みも一瞬で終わってしまうのではないかと誠は考える。
空を見上げて考え込んでいると、裕二が誠の頬をつついた。
「難しい顔してる。何考えてるの?」
「……別に、なんも考えてない」
誠の答えに納得していない様子を見せるが、彼はすぐに人懐っこい笑顔を見せる。
誠は裕二の柔らかく笑うその顔が好きだった。
見た人を安心させるような笑顔は、鬱々とした誠の気持ちも明るくさせてくれる。
彼に釣られるように、誠は笑い返そうとした。
その瞬間、頭が強烈に痛くなる。
先ほど感じた違和感に痛みが伴っているような感覚だった。
誠はその場に立っていられなくなり、思わず座り込んでしまう。突然のことに裕二は驚きながらも、誠に寄り添った。
「どうしたの!? 大丈夫?」
頭を押さえて蹲る誠の背中をゆっくりと撫でる。
少し時間が経つと、誠は痛みに支配されていた頭の中がはっきりしていくのを感じた。そして、顔から手を離して、呼吸を整える。
「ああ……大丈夫だ」
「大丈夫そうには見えないよ……顔も青ざめてるし、体も震えてるよ」
裕二の指摘に誠はようやく手が震えていることに気がつく。まるで恐ろしいものに直面した小動物のように、無意識に体が震えていた。
どうして――そう考えていると、裕二が水筒を差し出した。
「涼しい場所で過ごしてたから気が付かなかったけど、もしかしたら脱水かもしれないよ。飲めそうなら、飲んで」
水筒を受け取りながら誠は「ありがとう」と伝える。それに裕二は安心させるように笑って応える。
受け取るために誠が見た彼の顔にはベッタリと赤い何かが塗りたくられていた。
それは血だったのか。ペンキだったのか。
――ただ、誠の脳は、それが裕二の死を予感させる色だと本能的に理解した。
「っ!?」
誠は水筒から手を離し、裕二の顔を両手で挟んでよく見る。
カンっと金属がぶつかる音が響く。
目を見開き、鼓動が早くなるのを感じる。今見た光景に合わせるように、錆びた鉄の匂いも感じるほどだった。
だけど、裕二の顔には何もついておらず、手の中には戸惑った表情をする裕二がいるだけだった。
「誠? 本当に大丈夫? もしも無理そうなら、僕のお母さん呼ぶよ?」
「だい、じょうぶ……大丈夫だけど……」
もう一度裕二の顔を凝視するが、やはり何もなかった。まるで蜃気楼のように、赤い何かで塗れた彼は消えてしまっていた。
目の錯覚か。
それとも夏の暑さに誠の頭がいかれてしまったのか。
バクバクと大きな音をたてる心臓の鼓動を聞きながら、気持ちを落ち着けるように深呼吸をする。
「……大丈夫。心配かけてすまん」
安心させるように呟いたが、胸の奥でくすぶる何かは、どうしても拭えなかった。
この「何か」が、ただの暑さのせいであってほしいと願うように、誠はゆっくりとまばたきをした。
裕二は、先ほどより血の気を取り戻した誠の顔を見てほっとする。そして、誠に手を握ると、誠のことをゆっくりと引っ張り上げた。一瞬立ちくらみのような感覚はあるが、頭痛は治っていた。先ほどまで感じていた鉄臭さもどこにもなかった。
「もう! 心配かけないで。急に座り込むから何かあったのかと思ったよ」
「悪いって。本当に急に頭が痛くなったんだ」
「あんまり続くようなら、病院に行って診てもらいなよ」
「そんな大事じゃない」
「わからないだろ? 専門的なことは専門家を頼らないと」
ぷくっと頬を膨らませる裕二がリスみたいに見えて誠は心の中でクスッと笑う。
裕二は誠が真面目に話を聞いていないのを感じ取ったのか、諦めたように肩を落とした。
そうして二人は帰り道を歩き出す。
商店街の終わりにたどり着くと、いつも渡っている信号が赤色を示していた。
――赤?
ハッとして隣を見るが、裕二は暑そうにしながら立っていた。
――なんで、こんなに心がざわつくんだ。
先ほどから感じる違和感は、誠に一体何を伝えようとしているのか。それがわからないまま、誠は早くなる鼓動を落ち着けようと深呼吸をする。
商店街は夕方の買い物客で賑わい、誠たちと同じように信号を待っている人もたくさんいた。
みんながそれぞれの日常を送っている。
当たり前の日常に、誠たちもいる――はずだった。
ふと誠は目の前で通り過ぎていく車を見る。いろんな種類の車が流れていく中で、遠くから来ているトラックに目がいく。
そのトラックの運転手が顔を下に向けているのが目に入る。
――あのトラック……寝て、る…………?
脳が現実を理解した瞬間、目と鼻の先をトラックが通った。
ビュンっと風の唸り声と、風圧に体が押されてその場に尻餅をつく。
一瞬の間を開けて、大きな衝撃音が商店街に響く。
ぐちゃり――と誰かの肉が潰れる音と共に。
「……は?」
何が起きたのかわからなかった。
何が起きたのかわからなかった。
何が起きたのか――。
壊れたブリキの人形のように、ゆっくりとトラックが進んだ方を見る。
ぐしゃぐしゃになった店の一部とトラックの全面。
そこには赤い――何かがついていないか?
トラックとの間に何かいないか?
何か――あぁ、人間の手のようなものが、トラックと瓦礫の隙間からプランと飛び出ている。
それに、白いスニーカーがひしゃげていて、何かが赤く染めていた。
あれはなんだ――?
あれは人か――?
人なんだとしたら、いったい誰の――。
そこで誠は気がついた。
先ほどまで隣にいた裕二がそこにいないのだ。
それを理解した瞬間、脳が最悪のストーリーを描き出す。
どれだけ否定しても、夏の暑さがあざ笑うように誠に現実を突きつける。
リアルじゃなかった錆びた鉄の匂いが、あたりに充満する。
あれは、あれは――。
あそこにいるあれは、裕二――?
目の前からいなくなった裕二。
向こうで変わり果てた姿になっている裕二。
人間の形をしているはずだった裕二。
ついさっきまで笑っていた裕二。
「っう! うえぇぇ!」
誠はその場にガクンと膝をつき、胃の中のものをぶちまけた。
無音だった世界はようやく音を取り戻したのか、周囲の人たちの悲鳴が耳に入ってくる。
しかし、誠はその音を全て理解する余裕はなかった。
つい先ほどまで生きていた裕二がトラックと瓦礫の隙間で肉塊に変わっていた、その事実を否定するのに必死だったから。
即死だったのか、突き出た腕は意思がない人形のようにぴくりとも動かない。
裕二が死んだ。
裕二が死んだ――!
そのことを誠の脳はいつまでたっても理解しなかった。
いや、できなかったのだ。
だってそうだろう?
認められるわけがなかった。
ついさっきまで二人は何気ない会話を楽しんでいたのだ。
一緒に笑い合って、ふざけあって、それで、それで――。
明日も当たり前のように来るのだと、そう思っていたのに。
それなのに、裕二が、死んだ――?
抱えきれなくなった誠の心は防衛本能のように意識を奪っていく。
誠は地面に向かって倒れ込んでいく。
支えてくれる人も、心配してくれる人も、もういなかった。
――ちくしょう。
意識が途切れる最後、誠は心の中で毒を吐く。
しかし、いつまでたっても地面にぶつかる衝撃は来なかった。
担任が気だるげな声で生徒を叱咤激励する。それを聞きながら生徒たちは課題を配る手を止めない。
高校三年生になった竜ヶ崎誠は最後の夏休みを迎えようとしていた。
前の生徒から能動的に回される問題集を、ベルトコンベア式に後ろに回しながら、夏休みをどうやって過ごそうかと考える。
教師はみんな口を揃えて勉強をしろと言ってくるが、最後の夏休みを勉強だけに費やすつもりは頭になかった。
真面目な生徒は真剣な表情で担任の話に耳を傾けている一方、やる気のない生徒は配布物を後ろに配りながら、ひそひそ話を交わして笑いあっていた。
やる気がない生徒には何を言っても無駄だと諦めているのか、担任がその生徒たちを叱ることはなかった。
「ヤマセーン! これって、私たちもやらなきゃいけないんですかぁ?」
クラスのカースト上位に属する女子生徒、相田華がニヤニヤしながらヤマセンこと担任の山崎透に尋ねている。ヤマセンは面倒くさそうに手を振ると「やれば少しはマシになるかもしれんぞ」と答える。
ヤマセンの答えに、相田は「ひっどーい」と周りの生徒たちと一緒になってクスクス笑う。ヤマセンがしかめっ面をすると、それすらも面白かったのか相田とその仲間たちは声を大きくして笑い出す。
彼女たちは間違いなくやる気のない生徒に分類されるだろう。
「おい、早く受け取れよ」
華とヤマセンのやり取りを見ていたら、前から渡されていたプリントに気が付かなかった。プリントを片手に不機嫌そうな顔をしているのは鈴木悠真という生徒だ。彼は勉強はできるが運動は苦手な典型的なガリ勉タイプの生徒だった。
「わるい、気が付かなかった」
謝りながらプリントを受け取ると、悠真は気にしていないのかすぐに前を向き、配られたばかりのプリントを確認している。
「なんにしても、後悔するような夏にだけはするなよ。あとから泣いて縋ったって助けてやらないからな」
ギロリと華たちを睨み、厳しいことを言ったヤマセンにまた笑い声が上がる。
ヤマセンは悪い先生ではないのだが、大きな体に丸い顔、筋肉質な胸板がどこか熊を連想させ、真面目な話をしているときほど何故か面白く見えてしまう。だから、このクラスでヤマセンが真面目に話しても、ちゃんと聞く生徒の方が少ない。
ヤマセンも自分の見た目が原因なのをわかっているからか、必要以上に話を押し付けたりはしなかった。
かくいう誠も、ヤマセンの話を右から左に聞き流す生徒の一人だった。
適当に話を聞いていると、机の中に入れていたスマートフォンが光を放つ。授業中にスマートフォンを触っているのが先生に見つかると、反省文を書かされるが、それだけでは生徒たちのルール逸脱は収まらない。
誠はヤマセンの目を盗み、悠真の背に上手く隠れつつスマートフォンを確認する。
『今日、どうする?』
簡潔なそのメッセージは、隣のクラスにいる田辺裕二からだった。
田辺裕二とは小学校からの付き合いで、幼馴染であり親友でもある。
ふわふわとしたくせ毛な麻茶色の髪が、ゴールデンレトリバーを彷彿とさせる。そんな彼の頭を、誠はいつも気がつくと撫で回してしまう。その度に裕二はせっかくセットした髪の毛がぐちゃぐちゃになると怒っていたが、それもぽやぽやとしていて本当に怒っているのか聞きたくなるほどだった。
そして、裕二はその髪と同じくらい優しい性格をしており、大抵のことは笑って許してしまう気前の良さも持ち合わせていた。
彼はその性格と、持ち前の天然発言で周りを味方につけるのも上手かった。
一方、誠は言葉で相手に伝えることが苦手だったから、裕二のそんな所をただすごいと思っていた。
『ゲーセン。いつものところ』
サッとメッセージを打つと送信ボタンを押す。誠がスマートフォンの電源を落とす前にメッセージが既読になり、『了解!』と元気な返事と一緒に可愛らしい犬のスタンプが送られてくる。
――こんなところでも犬かよ。
誠は笑いながら今度こそスマートフォンの電源を落とす。
*
ヤマセンの長い話が終わり、誠は昇降口で裕二のことを待った。
裕二は日直のようで日直の仕事を片付けているところだった。そのため、誠は彼を待っている間、手持ち無沙汰になり、スマートフォンを無意識に動かす。
目新しい情報は何もなく、流れてくるのは反政府派の話だったり、巷を騒がせている不穏な事件の話だったりと、大して面白くもなかった。どれだけつまらないと思っていてもスマートフォンを触る手は止められないのだから不思議なものだった。
「あれー? 誠じゃーん! 何してんの?」
画面に集中していると横から華が顔を覗かせてきた。華が顔を近づけたことで、フワッと柑橘系のいい香りが漂い、鼻をくすぐる。
華と誠は同じ部活――野球部の選手とマネージャーという関係だった。しかしそれは過去の話で、誠は高校二年生の大会の時に肩を故障して、部活を辞めてしまっていた。他の仲間が気まずそうに誠と距離をとる中で、華だけは部活にいた頃と変わらずに誠に話しかけてくれた。
鬱陶しいと思うこともあったが、振り返ってみれば、華の存在は誠の中でも大きく、助けになっていた。
「あ! わかった! あいつ待ってるんでしょー」
「大きな声で騒ぐなよ。耳が痛いだろ」
「はぁ? そんなに大きな声出してないし!」
誠がわざと耳を塞ぐ真似をすると、華はぷくっと口をふくらませて彼の鳩尾に軽いパンチをお見舞する。痛くはなかったが、大袈裟に呻き声を上げると、それが面白かったのか、華はケラケラと笑い出す。
笑うとできるえくぼや、彼女の明るい性格と誰にでも隔てなく話しかける優しさから学年問わず人気があった。
今のところ誰かと付き合っているとかいう話はなかったが、常に誰が華に告白をして振られたかについて噂が立つほどだった。
「今日も遊びに行くの? あんた達呑気だね」
笑いながら華は校舎の奥を覗き込んで誠の待ち人が通らないかと探す。
誠は「別にいいだろ」と肩を竦めながら言う。続いて「俺、お前より頭良いし」と呟くと、今度は背中を強く叩かれた。
「なっ、にするんだよ!」
じくじくと痛む背中を押さえながら華はふんっと腰に手を当てて仰け反る。
「あんたがデリカシーのないこと言うからでしょ! それに、私だってあんたほどじゃないけど、ちゃんと頭いいんだから!」
華はそう言い放つとぷりぷり怒ったまま昇降口の方に向かってしまった。「なんなんだあいつ」と愚痴りながら衝撃でずり落ちたカバンを肩にかけ直す。
「また、怒らせたの?」
その時、後ろから少し高めで、眠たそうな声が聞こえてくる。声の聞こえた方に顔を向けると誠が待っていた生徒――田辺裕二が昇降口の方を見ていた。
「ダメだよ。ちゃんと仲良くしないと」
「別にいいんだよ、あいつは。もうあれがお決まりみたいなもんなんだから」
「そう? でも、謝っておいた方がいいよ。女の子を怒らせると怖いってみんな言ってるし」
裕二は首を傾げながら誠に忠告する。誠はその忠告を右から左に聞き流しながら昇降口に向かって歩き出す。チラッと顔を外に向けると、華はすでに機嫌が直ったのか、友達と笑い合いながら歩いていた。
「ほら、見ろ。あいつ、もう馬鹿みたいに笑ってるぞ」
「もう。そんな言い方ダメだよ」
小走りで誠の後を着いてきた裕二は、下駄箱から外靴を取り出す。二人は並んで校舎から外に出ると、頭上で輝く太陽の日差しが肌を突き刺し、汗が滲み出す。ベタベタとするから裕二は夏が苦手だと言うけれど、元野球の誠はこのくらいの暑さなら平気だった。
「暑いね。早く秋が来ないかなぁ」
手でうちわのように扇ぎながら裕二は呟く。彼の首筋からたくさんの汗が流れているのが見える。
「そうでもないだろ。昨日もこれくらいだったし」
誠は空を見上げながら答える。その言葉に、裕二は「そうだっけ?」ととぼける。
二人の通う学校は小高い丘の上に建てられていた。四階の教室から外を眺めると、澄み渡る青空と町並が一望できるのが唯一いいところだった。
しかし、誇れるところはそれだけだった。偏差値やスポーツの成績は平均的で、学校として突出したものは何もなかった。良くも悪くも平凡な学校だ。
学校に繋がる坂道を降りていき、商店街に出ると、裕二は嬉しそうに走り出した。
裕二が言うには、夏は商店街の店から流れてくる冷気が涼しくて気持ちがいいそうだ。誠としてはたいして変わりないだろうと思っていたが、気温の変化に敏感な裕二には全然違うようだった。
「誠! 早く来てよ!」
先ほどよりもいきいきとした裕二が笑顔で手を振っている。
誠は片手を挙げてその後ろに続こうとした。
その時、目の前に何かが映った気がした。
それは一瞬すぎて何かわからなかったが、何か良くないものだと本能的に感じた。肌は粟立ち、暑いはずなのに体が震えた。
――なんだったんだ?
深く考えようとしたが、少し先から裕二が「何してるの?」と呼びかけてきたことで、誠の意識は現実に引き戻された。
誠は「なんでもない」と返して、気を取りなおす。きっと気のせいだ、と今感じた違和感を無理やり無視する。
二人は商店街を進んでいき、他よりも真新しい店の前にたどり着く。
そこは数年前にできたゲームセンターだった。変化の少ないこの町でこの店がオープンした時、町の子供たちは毎日のように遊びにきた。当然お金がかかる施設のため、親はいい顔をしなかったらしいが子供たちには関係なかった。
キラキラとした店内に、大きな音で流れる音楽と数々のゲーム機は、娯楽に飢えた子供たちにとって夢のようだった。
しかし、そんなゲームセンターも今では子供たちの興味から外れてしまい、訪れるのは暇を持て余した人たちだった。誠も裕二も受験生だったが、勉強の合間の息抜き感覚でよく遊びにきていた。
ゲームセンターの中に入ると、ふわっと涼しい風が二人を包み込んだ。汗がいい感じに冷えて、心地よかった。
裕二は店の中に入ると、好きなキャラクターのクレーンゲームを見つけたのか、小走りで近づいていく。
「わぁ、見てみて! 僕の好きなゲームのアクスタだよー」
裕二が声を弾ませてながら誠に話しかける。
その機体の中には、たくさんの輪っか付きの景品が入っており、アームを使って下に落下させるゲームのようだった。
裕二は誠の隣でプレイするかどうかで悩み始める。裕二が得意なのは反射神経を使うようなゲームで、アーム操作が求められるものは苦手だった。
誠はそんな彼の様子に見かねたようにため息を吐くと、迷わずお金を機械に投入する。
「え? 誠がやるの?」
驚いたように裕二が誠に聞く。誠は小さく頷く。
誠は特にクレーンゲームが得意なわけでも、好きなわけでもなかった。しかし、裕二の喜ぶ顔が見たいという気持ちがかった。
誠は制限時間が表示されたそれをみて、アームを動かし始める。景品の位置とアームの開き具合を想像して、ここだと思うタイミングで手を離す。楽しげな音楽と共にアームは下がっていく。アームの端で輪っかを捉えることはできたが、ほんの少し位置を変えただけで景品獲得には至らなかった。
誠は「まあ、こんなもんか」と呟くが、隣では裕二が大袈裟に落ち込んでいた。
「あと少しだったのに! 惜しかったね、誠」
どうみても残念そうにしているのは裕二なのに、なぜか誠を慰める。
「別に。一回で取れるなんて思ってないし」
「それでもだよ! 貴重な百円が無駄に終わったんだから」
そう言うと裕二も財布を取り出して、チャレンジする。裕二は真剣に機体の中を睨みつけながら、アームを操作するが、位置が悪かったのか輪っかにかすりもしなかった。
「ええー? 絶対に入ったと思ったのに!」
残念そうにする裕二は財布の中を見て、そっとその口を閉じた。
「もういいのか?」
「うん。僕だけが楽しんでもよくないしさ。どうせなら一緒にできる方が楽しいでしょ?」
裕二は誠の手を掴むと、店の奥へと引っ張っていく。
店の奥側には複数人できるゲームや音楽ゲームが並んでいた。
裕二は「どれがいいかなぁ?」と言いながらゲームを物色する。頻繁にきている二人にはやり尽くしたゲームばかりだったが、勝負の結果はやるたびに違っていたからいつでも新鮮な気持ちで楽しめていた。
あれこれと悩む裕二の横で、誠は適当に円形の音楽ゲームを指差す。
「あれでいいんじゃね? あれなら実力同じくらいだろ」
「いいね! じゃあ、あっち行こう」
ゲーム機に近づくと、コアな客が黙々とそのゲームをやっていた。その人の邪魔にならないように、二人は荷物を床に置くとお金を投入する。
画面が切り替わり、モード選択に移る。誠は迷わず対戦モードを選び、難易度も選択する。高ランクは二人には難しく、遊んでいても楽しいとは言えなかったため、自分の実力に合った難易度にする。
「今日は負けないからね」
「楽しみにしてる、お前が勝つことを」
*
結局、二人の勝敗は五分五分で落ち着いた。
十分に遊び尽くすと、裕二と誠は外に出る。昼間よりは幾分か和らいでいるが、それでも夏の暑さは猛威を振るっている。
「もうこんな時間なんだね」
夕日が半分くらい沈んでいる空を見て裕二が呟く。たしかに、と思いながら誠も空を見上げる。もくもくと立派な入道雲が真っ赤な絵の具を溶かしたような空に浮かんでいる。
二人で遊んでいると時間があっという間に過ぎてしまう。この調子だと、夏休みも一瞬で終わってしまうのではないかと誠は考える。
空を見上げて考え込んでいると、裕二が誠の頬をつついた。
「難しい顔してる。何考えてるの?」
「……別に、なんも考えてない」
誠の答えに納得していない様子を見せるが、彼はすぐに人懐っこい笑顔を見せる。
誠は裕二の柔らかく笑うその顔が好きだった。
見た人を安心させるような笑顔は、鬱々とした誠の気持ちも明るくさせてくれる。
彼に釣られるように、誠は笑い返そうとした。
その瞬間、頭が強烈に痛くなる。
先ほど感じた違和感に痛みが伴っているような感覚だった。
誠はその場に立っていられなくなり、思わず座り込んでしまう。突然のことに裕二は驚きながらも、誠に寄り添った。
「どうしたの!? 大丈夫?」
頭を押さえて蹲る誠の背中をゆっくりと撫でる。
少し時間が経つと、誠は痛みに支配されていた頭の中がはっきりしていくのを感じた。そして、顔から手を離して、呼吸を整える。
「ああ……大丈夫だ」
「大丈夫そうには見えないよ……顔も青ざめてるし、体も震えてるよ」
裕二の指摘に誠はようやく手が震えていることに気がつく。まるで恐ろしいものに直面した小動物のように、無意識に体が震えていた。
どうして――そう考えていると、裕二が水筒を差し出した。
「涼しい場所で過ごしてたから気が付かなかったけど、もしかしたら脱水かもしれないよ。飲めそうなら、飲んで」
水筒を受け取りながら誠は「ありがとう」と伝える。それに裕二は安心させるように笑って応える。
受け取るために誠が見た彼の顔にはベッタリと赤い何かが塗りたくられていた。
それは血だったのか。ペンキだったのか。
――ただ、誠の脳は、それが裕二の死を予感させる色だと本能的に理解した。
「っ!?」
誠は水筒から手を離し、裕二の顔を両手で挟んでよく見る。
カンっと金属がぶつかる音が響く。
目を見開き、鼓動が早くなるのを感じる。今見た光景に合わせるように、錆びた鉄の匂いも感じるほどだった。
だけど、裕二の顔には何もついておらず、手の中には戸惑った表情をする裕二がいるだけだった。
「誠? 本当に大丈夫? もしも無理そうなら、僕のお母さん呼ぶよ?」
「だい、じょうぶ……大丈夫だけど……」
もう一度裕二の顔を凝視するが、やはり何もなかった。まるで蜃気楼のように、赤い何かで塗れた彼は消えてしまっていた。
目の錯覚か。
それとも夏の暑さに誠の頭がいかれてしまったのか。
バクバクと大きな音をたてる心臓の鼓動を聞きながら、気持ちを落ち着けるように深呼吸をする。
「……大丈夫。心配かけてすまん」
安心させるように呟いたが、胸の奥でくすぶる何かは、どうしても拭えなかった。
この「何か」が、ただの暑さのせいであってほしいと願うように、誠はゆっくりとまばたきをした。
裕二は、先ほどより血の気を取り戻した誠の顔を見てほっとする。そして、誠に手を握ると、誠のことをゆっくりと引っ張り上げた。一瞬立ちくらみのような感覚はあるが、頭痛は治っていた。先ほどまで感じていた鉄臭さもどこにもなかった。
「もう! 心配かけないで。急に座り込むから何かあったのかと思ったよ」
「悪いって。本当に急に頭が痛くなったんだ」
「あんまり続くようなら、病院に行って診てもらいなよ」
「そんな大事じゃない」
「わからないだろ? 専門的なことは専門家を頼らないと」
ぷくっと頬を膨らませる裕二がリスみたいに見えて誠は心の中でクスッと笑う。
裕二は誠が真面目に話を聞いていないのを感じ取ったのか、諦めたように肩を落とした。
そうして二人は帰り道を歩き出す。
商店街の終わりにたどり着くと、いつも渡っている信号が赤色を示していた。
――赤?
ハッとして隣を見るが、裕二は暑そうにしながら立っていた。
――なんで、こんなに心がざわつくんだ。
先ほどから感じる違和感は、誠に一体何を伝えようとしているのか。それがわからないまま、誠は早くなる鼓動を落ち着けようと深呼吸をする。
商店街は夕方の買い物客で賑わい、誠たちと同じように信号を待っている人もたくさんいた。
みんながそれぞれの日常を送っている。
当たり前の日常に、誠たちもいる――はずだった。
ふと誠は目の前で通り過ぎていく車を見る。いろんな種類の車が流れていく中で、遠くから来ているトラックに目がいく。
そのトラックの運転手が顔を下に向けているのが目に入る。
――あのトラック……寝て、る…………?
脳が現実を理解した瞬間、目と鼻の先をトラックが通った。
ビュンっと風の唸り声と、風圧に体が押されてその場に尻餅をつく。
一瞬の間を開けて、大きな衝撃音が商店街に響く。
ぐちゃり――と誰かの肉が潰れる音と共に。
「……は?」
何が起きたのかわからなかった。
何が起きたのかわからなかった。
何が起きたのか――。
壊れたブリキの人形のように、ゆっくりとトラックが進んだ方を見る。
ぐしゃぐしゃになった店の一部とトラックの全面。
そこには赤い――何かがついていないか?
トラックとの間に何かいないか?
何か――あぁ、人間の手のようなものが、トラックと瓦礫の隙間からプランと飛び出ている。
それに、白いスニーカーがひしゃげていて、何かが赤く染めていた。
あれはなんだ――?
あれは人か――?
人なんだとしたら、いったい誰の――。
そこで誠は気がついた。
先ほどまで隣にいた裕二がそこにいないのだ。
それを理解した瞬間、脳が最悪のストーリーを描き出す。
どれだけ否定しても、夏の暑さがあざ笑うように誠に現実を突きつける。
リアルじゃなかった錆びた鉄の匂いが、あたりに充満する。
あれは、あれは――。
あそこにいるあれは、裕二――?
目の前からいなくなった裕二。
向こうで変わり果てた姿になっている裕二。
人間の形をしているはずだった裕二。
ついさっきまで笑っていた裕二。
「っう! うえぇぇ!」
誠はその場にガクンと膝をつき、胃の中のものをぶちまけた。
無音だった世界はようやく音を取り戻したのか、周囲の人たちの悲鳴が耳に入ってくる。
しかし、誠はその音を全て理解する余裕はなかった。
つい先ほどまで生きていた裕二がトラックと瓦礫の隙間で肉塊に変わっていた、その事実を否定するのに必死だったから。
即死だったのか、突き出た腕は意思がない人形のようにぴくりとも動かない。
裕二が死んだ。
裕二が死んだ――!
そのことを誠の脳はいつまでたっても理解しなかった。
いや、できなかったのだ。
だってそうだろう?
認められるわけがなかった。
ついさっきまで二人は何気ない会話を楽しんでいたのだ。
一緒に笑い合って、ふざけあって、それで、それで――。
明日も当たり前のように来るのだと、そう思っていたのに。
それなのに、裕二が、死んだ――?
抱えきれなくなった誠の心は防衛本能のように意識を奪っていく。
誠は地面に向かって倒れ込んでいく。
支えてくれる人も、心配してくれる人も、もういなかった。
――ちくしょう。
意識が途切れる最後、誠は心の中で毒を吐く。
しかし、いつまでたっても地面にぶつかる衝撃は来なかった。



