いつもと同じはずだった、ある夏の日。
シャツに湿る汗がまとわりついて、嫌な気分にさせる。だけど、そんな気持ちを吹き飛ばすように彼は、元気よく笑っていた。彼を見ていると、自然と自分まで笑顔になれた。
彼の控えめに笑う姿が大好きだった。
ずっと一緒にいたいと思っていた。
彼といることが、自分の幸せなんだと、そう自覚していた。
だけど、高校を卒業するのと同時に、自分は親の転勤で引っ越すことになっていた。この町で一人暮らしをすることも交渉してみたが、過保護気味な両親はそれを許してくれなかった。
一生会えなくなるわけじゃない。
会いに行こうと思えば会いに行くことはできる。
でも、そういう話じゃない。彼のそばに、自分がいたいのだ。
とはいえ、親に養ってもらっている立場として、わがままを押し通すことはできなかった。
彼にもそれを伝えたけれど、少しだけ寂しそうにして「そうか」と言っただけだった。あっさりとした彼の反応に、自分だけが別れを惜しんでいるみたいで、少しだけ、彼を恨みそうになる。
彼と帰路を歩み、家の近くに差し掛かった時、手を振って別れる。
いつもと変わらず、「また明日」と笑って。
その明日が、永遠に来ないことも知らずに。
*
学校への道のりを、再び滝のように汗を流しながら戻っていく。今頃、涼しいエアコンの下でゆっくりしていたはずだったのに、と考えながら校舎を目指す。自宅に帰ってから忘れ物に気がつくなんて、自分の抜けているところが恨めしかった。
夏休みの夕暮れにもなると、校舎の中に人の気配はしなかった。窓越しに見える運動場からは部活動を終えた生徒の声が聞こえてくるが、校舎の中はシン――と、音が消えたように静かだった。廊下を歩く足音は異様に大きく聞こえ、誰もいない廊下からは笑い声が聞こえるようだ。
いつもと変わらない、見慣れた校舎なのに、なぜか体が無意識に震えるほど肌寒く感じる。
早く忘れ物をとって帰ろう、と校舎の中を足早に進む。そして、目的を達成すると、薄暗くなった廊下を戻り、運動靴を履いて外に出る。
茹だるように暑いはずなのに、全身の鳥肌はたったままだ。空を見上げると、血を溶かしたような赤い夕焼けに浮かぶ入道雲が不気味に見えた。
なんだか嫌な空模様だなと思い、目を細める。
「***」
その時、風の音と共に自分の名前を呼ぶ声が聞こえた気がした。
辺りを見渡しても、誰もいない。それでも何かに惹かれるように、後ろを振り返り校舎に目を向けた。
校舎の四階の窓辺に黒い何かがいた。黒いゴミ袋が引っかかっているように、風に靡いている。
なんだろうと目を細めて気がついた
一瞬、目の錯覚かと思った。だけど、それはゴミ袋ではなく――人の形をしていた。
自分と同じ制服に、見覚えのある背格好。
信じられない気持ちでその姿を凝視する。
考えるよりも先に体が動く。
気づいた時には、手に持っていた参考書を放り投げて走り出していた。
校舎までのほんの短い距離を走っただけでいつもよりずっと早く息が切れた。ドクドクと心臓が耳元でうるさいほどに鳴り響いていた。
はやく!
――はやく!
――――はやく!
そう思いながら何度も転びそうになりながらも校舎を駆け上がる。そうしてようやくたどり着いた教室の扉を勢いよく開ける。
血を溶かし込んだような、赤黒い夕焼けをバックに、彼は窓辺に立っていた。
あと一歩でも踏み出せば、あっという間にその身体を重力に従って落ちていくことだろう。
――この高さだ。そんなことになれば、きっとただでは済まない。
彼を引き止めるために何を話せばいいのかわからない。少しでも気を引くために何かを話さなければと思うほど、頭の中は真っ白になり、口の中には唾液が溜まっていく。
選択をすることに、足がすくんだ。
君の注意を引いた瞬間、君はバランスを崩してしまうかもしれない。
自分が間違った選択をすれば、彼の命は容易く消えてしまう。その恐怖に、言葉は喉の奥に引っ込んだ。
――その戸惑いが、運命を決めることになるなら、この時の自分はどうすれば良かったのだろうか。
言葉も紡げず、動けなかった自分に、彼は愛しむように、フッと口元を緩めた。
まるで、最後に見たのがお前で良かったと言っているようだった。そんな風に、救われた顔で笑った。
彼は小さく何かを呟くと、掴んでいた窓枠から手を離す。
全てがスローモーションに見えた。
ゆっくりと視界から消えていく彼に、気がつけば手を伸ばしていた。
その手が彼に届くことはなく。空を切るだけだった。
届かなかった。
届かなかった。
届かなかった。
後一歩届かなかった手を強く握りしめる。
目の前で起きたことを認めることが出来ず、グルグルとあれこれと考える。
視界が回って気持ち悪かった。
こんなことをしている場合じゃないと分かっていても、込み上げる吐き気を抑えられずその場に嘔吐した。
早く大人を探して、いや、彼の元に、いや、まずは救急車か、いや――――。
遠くで誰かの叫び声が聞こえる。
それが自分のものか、それとも他の誰かのものだったのか――今となってはもう分からない。
これは夢?
それとも現実?
どちらでもいいから、誰かに目の前の現実を否定して欲しかった。
夢であればと、何度も祈った。
あぁ、何にしても、こんな世界は、認めない。
彼が居ない明日に、意味なんてないのだから。
それなら、やり直せばいい。
彼が助かるまで、何度でも。
それ以外の結末は、いらないのだから。
シャツに湿る汗がまとわりついて、嫌な気分にさせる。だけど、そんな気持ちを吹き飛ばすように彼は、元気よく笑っていた。彼を見ていると、自然と自分まで笑顔になれた。
彼の控えめに笑う姿が大好きだった。
ずっと一緒にいたいと思っていた。
彼といることが、自分の幸せなんだと、そう自覚していた。
だけど、高校を卒業するのと同時に、自分は親の転勤で引っ越すことになっていた。この町で一人暮らしをすることも交渉してみたが、過保護気味な両親はそれを許してくれなかった。
一生会えなくなるわけじゃない。
会いに行こうと思えば会いに行くことはできる。
でも、そういう話じゃない。彼のそばに、自分がいたいのだ。
とはいえ、親に養ってもらっている立場として、わがままを押し通すことはできなかった。
彼にもそれを伝えたけれど、少しだけ寂しそうにして「そうか」と言っただけだった。あっさりとした彼の反応に、自分だけが別れを惜しんでいるみたいで、少しだけ、彼を恨みそうになる。
彼と帰路を歩み、家の近くに差し掛かった時、手を振って別れる。
いつもと変わらず、「また明日」と笑って。
その明日が、永遠に来ないことも知らずに。
*
学校への道のりを、再び滝のように汗を流しながら戻っていく。今頃、涼しいエアコンの下でゆっくりしていたはずだったのに、と考えながら校舎を目指す。自宅に帰ってから忘れ物に気がつくなんて、自分の抜けているところが恨めしかった。
夏休みの夕暮れにもなると、校舎の中に人の気配はしなかった。窓越しに見える運動場からは部活動を終えた生徒の声が聞こえてくるが、校舎の中はシン――と、音が消えたように静かだった。廊下を歩く足音は異様に大きく聞こえ、誰もいない廊下からは笑い声が聞こえるようだ。
いつもと変わらない、見慣れた校舎なのに、なぜか体が無意識に震えるほど肌寒く感じる。
早く忘れ物をとって帰ろう、と校舎の中を足早に進む。そして、目的を達成すると、薄暗くなった廊下を戻り、運動靴を履いて外に出る。
茹だるように暑いはずなのに、全身の鳥肌はたったままだ。空を見上げると、血を溶かしたような赤い夕焼けに浮かぶ入道雲が不気味に見えた。
なんだか嫌な空模様だなと思い、目を細める。
「***」
その時、風の音と共に自分の名前を呼ぶ声が聞こえた気がした。
辺りを見渡しても、誰もいない。それでも何かに惹かれるように、後ろを振り返り校舎に目を向けた。
校舎の四階の窓辺に黒い何かがいた。黒いゴミ袋が引っかかっているように、風に靡いている。
なんだろうと目を細めて気がついた
一瞬、目の錯覚かと思った。だけど、それはゴミ袋ではなく――人の形をしていた。
自分と同じ制服に、見覚えのある背格好。
信じられない気持ちでその姿を凝視する。
考えるよりも先に体が動く。
気づいた時には、手に持っていた参考書を放り投げて走り出していた。
校舎までのほんの短い距離を走っただけでいつもよりずっと早く息が切れた。ドクドクと心臓が耳元でうるさいほどに鳴り響いていた。
はやく!
――はやく!
――――はやく!
そう思いながら何度も転びそうになりながらも校舎を駆け上がる。そうしてようやくたどり着いた教室の扉を勢いよく開ける。
血を溶かし込んだような、赤黒い夕焼けをバックに、彼は窓辺に立っていた。
あと一歩でも踏み出せば、あっという間にその身体を重力に従って落ちていくことだろう。
――この高さだ。そんなことになれば、きっとただでは済まない。
彼を引き止めるために何を話せばいいのかわからない。少しでも気を引くために何かを話さなければと思うほど、頭の中は真っ白になり、口の中には唾液が溜まっていく。
選択をすることに、足がすくんだ。
君の注意を引いた瞬間、君はバランスを崩してしまうかもしれない。
自分が間違った選択をすれば、彼の命は容易く消えてしまう。その恐怖に、言葉は喉の奥に引っ込んだ。
――その戸惑いが、運命を決めることになるなら、この時の自分はどうすれば良かったのだろうか。
言葉も紡げず、動けなかった自分に、彼は愛しむように、フッと口元を緩めた。
まるで、最後に見たのがお前で良かったと言っているようだった。そんな風に、救われた顔で笑った。
彼は小さく何かを呟くと、掴んでいた窓枠から手を離す。
全てがスローモーションに見えた。
ゆっくりと視界から消えていく彼に、気がつけば手を伸ばしていた。
その手が彼に届くことはなく。空を切るだけだった。
届かなかった。
届かなかった。
届かなかった。
後一歩届かなかった手を強く握りしめる。
目の前で起きたことを認めることが出来ず、グルグルとあれこれと考える。
視界が回って気持ち悪かった。
こんなことをしている場合じゃないと分かっていても、込み上げる吐き気を抑えられずその場に嘔吐した。
早く大人を探して、いや、彼の元に、いや、まずは救急車か、いや――――。
遠くで誰かの叫び声が聞こえる。
それが自分のものか、それとも他の誰かのものだったのか――今となってはもう分からない。
これは夢?
それとも現実?
どちらでもいいから、誰かに目の前の現実を否定して欲しかった。
夢であればと、何度も祈った。
あぁ、何にしても、こんな世界は、認めない。
彼が居ない明日に、意味なんてないのだから。
それなら、やり直せばいい。
彼が助かるまで、何度でも。
それ以外の結末は、いらないのだから。



