(もうすぐ…もうすぐで昼休みになる…もう少し)
数学の授業。
八代陽向は、苦しくなる胸を擦りながら黒板に書かれる数式をノートに写した。
時計に視線を向ければ、あと数分でチャイムが鳴る。
何とかそこまでと思うが心拍数は上がっていくばかりで、擦っていた手を握りしめ、周りに気づかれないように懸命に深呼吸を繰り返した。
ーーー
「次回までに、この数式覚えておけよー。小テストするからな」
チャイムと共に響いた教科担任の言葉に、クラスからは非難の声が飛び交う。
授業の静けさがなくなったのと同時に、陽向はすぐさま廊下へ飛び出した。そのままトイレへ向かって歩く。
少しでも1人になれる場所に行きたい。
それから食べれたらお弁当を食べよう。
締め付けられるように痛む胸を押さえて歩き、自分に言い聞かせた。
「はぁはぁ…大丈夫、大丈夫」
個室のトイレに入ってゆっくりと深呼吸をする。
幸いなことに、トイレには誰も居なくて、陽向は安心した。
目を閉じて自分に暗示をかけるように呟きながら、深い深呼吸を繰り返す。
時折、誰かが訪れる音や声が聞こえるが、気持ちを落ち着かせることに集中してやり過ごした。
「15分か…」
腕時計を見て経過している時間に独りごちる。
大分、落ち着いただろうか。
さっきまでの胸の痛みが無くなって楽になった。
「ご飯…食べよ」
外に人がいないかを音で確認してから扉を開けた。
廊下や教室からは、昼休み時間の元気な声が響いていて楽しそうだ。
けれど、あの中へ入ってお昼を食べるのは辛い。
陽向は、出来る限り自分の存在を消すように教室へ戻り、鞄からお弁当と水筒を出した。
教室では各々机を繋げたり、別の場所へ移動したりして、お昼を食べているが、あそこに自分の居場所はないと感じてしまう。
陽向はお弁当を抱えて踵を返し、静かな場所へと移動しようと歩き出した。
「八代」
ドアから出る際、すれ違った相手から名前を呼ばれ肩が揺れる。
自分のことを知っている人がいるのだろうか。
いや、クラスにはいるんだし、名前なんてなんかの拍子に知られることはあるだろう。
けれど、出来る限り誰とも関わらないようにしていたから、こんな風に呼ばれることなんて無いはずだ。
陽向の脳内では様々な考えが駆け巡っていた。
「八代?」
もう一度、今度はどこか伺うように名前を呼ばれた。
きっと傍から見たら、ブリキの人形が動いているように見えるかもしれないと思いながら、ぎこちなく相手を見る。
イケメンだ…。
「はい、八代です」
「プッ!何その返し、ウケる」
自分よりも身長が高い相手に、陽向は更に固まってしまう自分を自覚した。
変な返事をしてしまった自覚はある。
相手が笑っているのを見ながら、早くこの場所から逃げ出したいと思った。
話しかけてきた相手をチラッと見たが、見覚えがない。
明るい茶髪に、女子人気がありそうなアイドル顔をしている彼は、自分とは関わりがなさそうな相手にしか見えなかった。
「ククッ、わりぃ。俺の事、覚えてない?って言っても、八代はクラスにあんま来なかったもんな」
笑いのツボだったのだろうか。
ひとしきり笑って気持ちを落ち着かせた相手が話し始めた。
「クラスにあまり来なかった」という言葉に、中学時代のクラスメイトだろうかと陽向は考え、合点がいった。
中学時代。主に2年生からは、陽向はほとんど教室には入っていなかった。というか学校にすら行っていなかったと言った方が正しい。
1年前のことなのに、遠く感じるなと陽向は思った。俗に言う不登校生徒だった時代を思い出し、また胸が苦しくなった。
高校入学後も体調や気持ちによって登校にムラがあるから、危ない状況ではあるが、1年時はどうにかギリギリ進級して、今の新学期もなんとか踏ん張ってる。
「あの…俺に何か?」
中学時代の同級生と聞いて、更にこの場から早く逃げ出したいと思ってしまう。
陽向は自分でも驚くくらいにか細い声で、相手に先を促した。
「ああ、早くご飯食べたいよね。いや、柚井が心配してたからさ」
「柚井?……心配?」
お弁当と水筒に相手の視線が動いたのが分かって抱え直す。
続く、覚えのない名前といきなりの内容に、頭がついていかない陽向は小首を傾げた。
「柚井智晴、八代の後ろの席のやつなんだけど。丁度、窓際に立ってるアイツ」
今だに名前が思い出せない相手が指した指の先に、視線を向ける。
女子生徒に話しかけられて、窓際に腰を寄せて立っている男子生徒が1人いて、彼が柚井智晴というのかと認識した。
8頭身であろうモデルのような風貌に、顔はハッキリ見えないが、遠目で見ても分かるイケメンだ。
あんな一軍ぶっちぎりの男子が、後ろの席だった事実に今更、血の気が引いた。
「柚井がさ。八代が授業中、体調悪そうだったって心配してたんだよね。大丈夫そう?」
「あ、え、ありがとうございます」
「いやいや、答えになってないから。マジ、八代って面白いのな!」
言われた話しは理解しているのに、口から出た返事は自分でもよく分かっていなくて、八代は自分のコミュ力の無さを痛感するしかない。
けれど、相手から返ってきたのは楽しそうに笑う顔で、嫌な顔をさせるかと思っていたので、少し驚いた。
「萩尾、何を楽しそうに話してるの?」
どうしたら良いのか分からなくて固まっていたら、違う声が斜め上から聞こえた。
視線を向ければ、いつの間にか窓際に居たはずの柚井が立っている。
「おお、さっき柚井が言って」
「あ!あの…お昼…食べたいので…失礼します!」
もう限界だった。
この場に留まっているのも、周りの音を聞いているのも、何より2人と一緒だと視線が痛い。
2人が話しているのを遮て、自分の意見を伝えるのに手が震える。陽向は、逃げ出す様に足早に歩き出した。
すれ違う生徒とぶつからないように気をつけ、できる限りの早足で目的の場所へ向う。
外靴を履いて校舎沿に歩くと、少し陰った場所に非常階段が見えてきた。
上がる息を、階段の段差に腰を下ろして整え、お茶を口にした。
腕時計を見ると、もうすぐ昼休みが終わりを告げる時刻になろうとしていた。
(このまま次の授業は休もうかな)
今日は自分にとって高校に入ってから、初めてのことばかりで疲れてしまった。
とりあえず、ご飯を食べよう。
昼休み終了のベルが聞こえるが、陽向は持ってきたお弁当箱を開け中を確認した。
サンドイッチが4つ。
玉子焼きを挟んだタマゴサンドに、昨日の残ったハンバーグを挟んだバーグサンド、あとの2つはオレンジとリンゴのジャムが挟んである。
どれから食べようか。
ジャムは最後に取っておきたし、ハンバーグは昨日食べたから、まずは卵かな。
「いただきます」
「いた!」
「はい!」
タマゴサンドを口へ運ぼうとした瞬間、聞こえた声に思わず返事をした。
今は授業中のはずだし、自分以外にここを使う人は、今のところ見たことがない。
でも、明らかに自分を探していただろと予測がつく言葉しか聞こえなかったと、陽向は思考を巡らす。
「八代?」
「はい、八代です」
疑問符がつく聞かれ方に答えて、相手へ顔を向ける。
そこにいたのは、さっきクラスで初めて認識したであろう柚井だった。
「はぁ~良かった。教室戻ってこないし、保健室居ないし、どっか外で体調崩したのかと思って」
柚井は息を切らしていて、きっと必死になって探していてくれたのだと分かる。
そういえば、さっきも彼が自分を心配していたことを、萩尾とかいう同級生が言ってたような…。
イケメンて優しいのかな。
まるで恋愛漫画から出てきた様な彼が、ヒロインを探して回るみたいなシュチュエーションだなと考えてしまった。
けれど、それでは自分がヒロインだと言るようではないだろうか。
陽向は慌てて全てを否定して頭を振った。
「大丈夫?頭痛い?」
柚井が目の前にしゃがみ、心配そうな顔をして下から覗き込んでくる。
慌てて首を振って否定した。
「はい、だ、大丈夫です」
「隣、座っていい?」
「え、あ…はい」
できる事なら、そのまま教室に戻って欲しいのだがどうやらココに留まるようだ。
探しわまってくれた相手を無碍にはできないと感じて、陽向は頷いた。
横に少しずれてスペースを作る。
「ありがとう」
柚井が隣に腰を下ろすのを感じる。
視線を向けて相手を見る勇気はないから、雰囲気を感じ取ることしかできない。
座るだけで話しかけて来ない柚井に戸惑い、陽向は固まるしかなかった。
どうしても、慣れていない相手との距離が近いと、身体も言葉も固まってしまう。
慣れるまでにも時間がかかるから、学校という集団がいる場所が苦手で、だんだんと苦しくなってしまうのだ。
いつからそんな風に、学校というものが息苦しくなってしまったんだろうなと、お弁当を眺めながら思ってしまった。
「それ、食べないの?」
どれくらい時間が経ったんだろう。
柚井の問いかけで、リープしていた思考が引き戻された。
ずっと眺めていたサンドイッチの視界の端に、指が入り込んでいる。陽向は、筋張っている男の手だけど長くて綺麗だな…なんて関係ないことを考えていた。
すると不意に横からお腹が悲鳴を上げる音が聞こえて。
「…え」
「…ごめん、腹が限界を迎えました…」
「あ、の、た…食べる?」
思わず見た柚井は気まずそうな、照れてるような表情でお腹を擦っていて、自分の精一杯の勇気を振り絞って声をかけた。
「…いいの?」
柚井の確認の言葉に頷くだけの返事をして、視線は逸らしたまま持っていたタマゴサンドを差し出す。
「じゃあ、ひと口だっけ。いただきます」
隣で柚井が近づいてくるのを感じ、サンドイッチを持っていくのかと思っていたのだが、手の中のサンドイッチが無くなることはなくて…。
訪れたのは、差し出した自分の手に重なる温もりと、引き寄せられる感覚だった。
「ん、うま」
驚いて横を見ると、ひと口かけたサンドイッチに、さっきまで綺麗だなと思っていた指に包まれている自分の手、そして距離が近づいた柚井の顔があった。
咄嗟に距離を取ろうとして横の壁に肩をぶつけ、痛みと衝撃に驚き上体を屈ませようとして、頭が柔らかい何かにぶつかった。
「ごめん、驚かせた」
ぶつけた肩を優しく擦る腕が見え、近くで鼓膜に響く声が聞こえて、柚井に抱えられる状況になっていることに気付いた。
「肩、大丈夫?痛み辛いようだったら保健室行こ」
「だ、大丈夫…」
擦られている肩に意識が集中する。
首を振ってなんとか伝えるが、陽向の頭の中はパニック状態で、この状況をどうしたらいいのか分からなかった。
「…ゆ、柚井…くん?」
肩を擦る手は止まらず、離れる様子がない。
自分が絞り出した声は掠れてて、柚井に聞こえているかが心配になってくる。
「柚井でいい」
暗かった視界が明るくなって、陽向は詰めていた息を吐き出した。
頭に優しい感触があって顔を上げれば、バチッと音が鳴りそうなほど、しっかりと視線が交わる。
「やっと、合った」
柚井の微笑みと共に溢れた言葉が、陽向の耳に届く。
言葉の意味を理解するよりも、陽向の心は必死だった。
近い…近すぎる。もう…。
限界だと思った瞬間、5時間目終了を告げるベルが鳴った。
陽向は、弾かれたように立ち上がる。
「こ、これ!食べてください!」
「でも、八代の昼ごはん…」
「大丈夫です!それじゃ!」
視線を逸らしたまま、持っていたお弁当箱を押し付けて、そのまま走り出す。
後ろで柚井が話していた気がするけど、気にしてる余裕もなくて、ただひたすらに前だけを見て走った。
靴を履き替え、廊下を早足に歩く、息が切れて心臓がうるさいけど止まる気はなかった。止まれなかった。
落ち着けなくて、どうして良いのか分からなくて、動いていないと崩れ落ちてしまいそうだったから。
授業が終わって、次の時間までの間、賑わう廊下をひたすらに歩く。
「し、失礼っ、しま、す」
息も絶え絶えにノックをしてから、保健室の扉を開けた。
「八代くん?どうしたの、大丈夫?」
男性養護教諭の見知った顔に、やっと安堵できた気がした。
この高校では、男女2名の養護教諭の先生が在中している。どちらの先生も優しくて、入学当初からお世話になっていた。
深く長く深呼吸をして、微かに震えを感じる足をゆっくり前に出して、中央のソファまで進む。
「はい。お茶飲んで落ち着いて」
「ありがとう、ございます」
出された麦茶を一気に飲み干し、まだバグバクと音を立てる心臓に手を置いた。
先生は特に追求はしてこない。
適度な距離感を大事にしてくれていてありがたいと、だから居心地が良く、進学してからもなんとか通えていると陽向は思っていた。
「あの…今、ベットで休ませて…もらっていいですか?」
「もちろん。今日はまだ誰も来てないから、貸し切りだよ。担任には伝えておくね。あ、そう言えばさっきクラスメイトが探してたけど…」
「あ、会えました。大丈夫です。すみません。ありがとうございます」
先生に、お礼を言ってベットへと向かった。
ブレザーを脱いで、ネクタイを緩め、一番上のボタンを外す。
ベットへ横になると、どっと身体が重くなるのを感じた。
今日は色々なことがあり過ぎた。
ジェットコースターに乗っていたかの様な心地だ。
こんなに同級生と話すのは久しぶりな気がする。
中学の時は、不登校と言っても小学校から一緒の同級生だったから、友達はいた。
けれど高校は、みんな違うところを受験したから、今は話す友達もいない。
もう少し今日は頑張りたかったけど、このまま休ませてもらって、次の授業が終わったら、人が少なくなってから鞄を取りに行って帰ろう。
とりあえずは、気持ちを落ち着かせたい。
陽向は、重くなる瞼をゆっくり閉じた。
