ためらいの温度 触れた者を死なせる当主が生ける、ただ一輪の花嫁

 鷹臣様は私に触れない。それでも、詠坂では用無しだった私を妻として歓迎してくれた。
 それに……彼の異能を考えれば、触れないことが彼の優しさでもあるのだ。

 カタン

 庭の方から何か音がした。就寝前の闇が深い時間に……何事だろう。

「どうしたのでしょう。犬が入ってきたのでしょうか」

 ちょうど灯籠に油を足しに来ていた使用人の女性が首を傾げる。
 私と鷹臣様の寝室は別。表向きは病弱設定で嫁いできた私に配慮してということになっているが、実際は……私に「触れる気はない」という鷹臣様の配慮なのだろう。だからこの部屋には私と彼女の二人だけ。

「奥様はここに居てくださいね。私が見てきますからご安心ください」

 腰を浮かした私を引き留めるようにして、使用人の女性が何の躊躇いもなく障子を開けて、廊下に出る。庭へと続く格子戸に手をかけた瞬間、ブワッと嫌な気配が室内に流れ込んだ。

(だめ! 犬じゃない、この気配は……物怪!)

 慌てて後ろから彼女の袖を勢いよく引っ張るが、もう遅い。僅かな隙間から霧のような姿の物怪が入り込んでくる。私が引っ張ったせいで尻餅をついてしまった使用人が、夜の沈黙を割くような悲鳴をあげた。

 今の悲鳴は門兵にも聞こえたはず。助けが来るまでは、自力で逃げるしかない!
 
 咄嗟の判断で、私は室内にあった灯籠を物怪に向かって投げつける。
 夜を好む物怪は、火が苦手なはずだ!

 物怪は火に怯んだのか、霧状に広げていた体をキュッと小さくして、拳ほどの大きさの姿で苦しげに蠢きだす。しかし私が投げた灯籠の油と火は廊下の床板に漏れ落ちてしまって……このままでは屋敷自体に燃え広がってしまう!

(どうしよう!? 火を消したら私たちが物怪に襲われてしまうし、そもそも水もないし……!)

 部屋の奥で、震える使用人と抱き合う。
 とにかく私は心の中で叫んだ。

(お願い……誰か気がついて、助けて!)

 誰かと言いつつ、私の脳裏に浮かぶのはたった一人。ぎゅっと目を瞑って、強く彼を思った。

(鷹臣様!!)

「鎮宮の屋敷に入り込むとは、大胆なことをする物怪もいたものだ」

 肌に感じる空気が途端に張り詰めたものに変わる。それでも耳に届いた声は、私が願った彼のもの。
 私は縋るような気持ちで目を開けた。

「滅せよ」

 寝巻き代わりの灰色の小袖の上に黒い羽織を着た鷹臣様が、素手で物怪を鷲掴みにする。ただでさえ火で怯み小さくなっていた物怪は、言葉にならない悲鳴をあげた。そして鷹臣様に握り潰されるようにして、その姿を崩していく。

「……俺の妻を狙うなら、掴み殺される覚悟くらいしておけ。惨めな声を出すな」

 手の中に残った感覚すら滅したいと言わんばかりに、鷹臣様は何度も手を握り直す。物怪が塵も残らずに消え去ったことを確認して、鷹臣様は大きな声で指示を出す。

「急いで火を消してくれ!」

 鷹臣様の一声で、周囲から水の入ったタライやら、濡れ布団なんかを持った使用人たちが集まってくる。
 そして彼はやっと、部屋の奥で小さくなっていた私達に目を向けた。

「どうかお許しください……! 奥様を危険に晒した罰は受けます。ただ、命だけは……!」

 物怪は葬り去られたにも関わらず、使用人の女はガタガタと震えながら、鷹臣様に頭を下げる。命乞いのような彼女の言動に違和感を覚えた私だったが、その理由はすぐに分かった。
 こちらを見つめる鷹臣様の視線は、無情なほどに冷たい。黒の手袋をしていない素手からは、私でも感じ取れるほどの異能の残滓が漏れ出していた。空気が重く、息を吸うだけで喉奥が潰れてしまいそうで……たとえ彼の異能の内容を知らなかったとしても、肌に感じる空気感だけで、危険なものだと理解できるほど。 

 これが鷹臣様ではなく玲だったなら。酷く罵倒された上、鞭で打たれる程度では済まないだろう。そして私はそんな玲を怖がって、黙って俯き震えることしかできなかった。
 ……でも。今私の目の前にいるのは玲ではない。
 皆に怖がられていても、私にとっては居場所をくれた旦那様なのだ。

 そう考えれば、私の体は自然と動く。気がつけば震える彼女を庇うかのように立っていた。

 そもそも、結界で守られた都の中にある鎮宮の屋敷で、物怪が出るなんて思わない。この使用人は、私に代わって庭を確認しようとしてくれただけ。あの瞬間、もしも私が部屋の中に一人だったら。……間違いなく私は自分で格子戸を開けに行っていた。

「……華。退いてくれ」

(嫌です!)

 そう主張するために、首を横に振る。でも鷹臣様から目は離さない。ぎゅっと唇を噛んで、彼を睨みつけるかのように強く見つめる。

「俺は当主として、失態を犯した者を見逃すわけにはいかない。危ないから、そこを退くんだ」

(どちらかというと、火事になるかもしれないのに灯籠を投げた私の方が失態だわ! だからお願い……今回は許して欲しい) 

 あぁ、この気持ちを言葉で説明できれば……。
 そんなことを考える私に向かって、鷹臣様は一歩、また一歩と近づいてくる。
 どうしようと視線を迷わせた私だが。彼の小袖の合わせから、いつもの黒手袋が覗いているのが見えた。

 ──これしかない。そう考えた私は、逆に鷹臣様の元へと小走りで駆け寄る。
 私が立ち向かってくるなんて思っていなかったのであろう。鷹臣様が一瞬怯んだところで、私は鷹臣様の黒手袋を引き抜いて彼の腕を掴んだ。

「華ッ!?」

 慌てて身を引こうとする彼だが、私を傷つけたくないという意思があるのだろう。思ったように動くことができず身を固くした隙に、彼の袖を捲って、注意を払いつつ黒手袋を彼の手に嵌め込んだ。もう片方にもと思って逆の腕を掴んだ時には、すっかり彼の表情は変わってしまっていた。

「……俺の手が怖くないのか?」

 唖然とした表情で鷹臣様が問う。
 微かに震えてしまっていた指先を隠すために、私は胸の前で手を組んだ。

(怖いかと言えば怖いけど……鷹臣様は私を傷つけたいわけじゃないって、分かっているもの)

 視線を上げれば、紫水晶の瞳と視線が交わる。
 それに……失態を犯したとしても、鷹臣様はすぐさま使用人の命を奪ってしまうような人でもないはずだ。

 二人の間に静寂が流れる。
 それを破るのは、消化活動をしていた使用人たちの「火は全て消し終わりました!」という報告の声。鷹臣様が、ハァッと大きなため息をついた。

「今回は目を瞑ろう。……それと、華。俺の手に触れるような行動は、金輪際絶対に行わないように。いいな?」

 私の後方で、使用人が何度も感謝と謝罪の言葉を繰り返す。
 私は鷹臣様から注意を受けているにも関わらず、張り詰めていた空気が緩んだことで、つい顔に笑みを浮かべてしまって。彼から「肝が据わった女なのは良く分かったが、俺は君を手折る気は無い!」と叱られてしまったのだった。