ためらいの温度 触れた者を死なせる当主が生ける、ただ一輪の花嫁

(体調が悪くてもこんなに足が速いなんて……もう見失ってしまったわ)
 
 即座に追いかけたはずなのに、鷹臣様はすぐに暗闇の中に姿を消してしまった。
 油断した。いくら相手が鷹臣様でも、薬湯を飲んでいるような人間を見失うわけはないと高を括っていたのに。

「……鷹臣様」

 小さな呟きに、返事は戻ってこない。
 ……もしどこかで倒れていたらどうしよう。そんな不安感に襲われながら、静まり返った静寂の中、必死に人の気配を探す。足音のような音が聞こえた気がして、私は裏路地に入った。
 その瞬間。ただならぬ気配が後方から押し寄せてくる。

(この気配は、物怪!?)

 見つかってはならない。タッと駆け出して裏路地を抜けて、強く結界を張ってある近くの神社を目指す。長い階段を登って境内に転がり込むようにして逃げ込むが……それくらいで怯むような物怪ではなかった。
 結界をものともせずに境内に入り込んできた物怪の姿は、まるで巨大な鬼のよう。手下と思われる物怪を何体も連れたその姿に、私は見覚えがあった。

 十三年前。私は物怪退治に向かったお母様を追いかけた。
 この物怪は、私に怪我を負わせて。お母様が私を庇って、そして……!

「お前が、お母様を……ッ!」

 物怪に言葉は通じない。私が憤る気持ちも、伝わらない。
 ここは冷静になって逃げる手段を考えなくては。そんな当たり前のことが、目の前の仇への怒りで見えなくなってしまう。

 鬼の姿をした物怪は真っ直ぐに私の姿を捉える。キッと相手を睨みつける私に向かって、ズシンと大きな足を踏み出した。その時だった。
 辺りに響く、空気を裂くような音。突如攻撃を受けた手下の物怪たちの、金切り声のような叫びと、地面に伏せる音。それが鬼の足を止めた。

「華……っ! やっと追いついた」

 飛び込んできた鷹臣様が、背で私を庇う。しかし敵に向かって刀を構える彼は、大きく肩を上下させて荒い呼吸を繰り返していた。
 怒りで冷静な判断が出来なくなっていた私の頭が一気に冷める。

「鷹臣様っ、だめです! 逃げましょう、このままでは……!」
「……奴の狙いは華だ。見つけたからには、どこまででも追ってくるぞ」
「私……!?」
「奴に弱体化の枷を嵌めたのが、君の母だ。その枷が緩んだ今、憎き君の母を探して、都中を手下の物怪に探させていたんだ」

 つまり。あの鬼のような物怪は……お母様と似た気配を持つ私を、あの時に亡くなったお母様と勘違いして狙っているということだ。

(じゃあ最近都に物怪がたくさん出没していたのは……実質私のせいだったということ?)

 まさかの事態に足が震える。理屈では違うと分かっているのに、思わず自分を責めてしまう。

「華が鎮宮の結界から出た瞬間に嗅ぎつけるとはな。毎晩俺が探し回っていた時には気配の一つすら見せなかったくせに」
「待って……待ってください。では鷹臣様は私をずっと守ってくれていて、帝の依頼で毎夜物怪の討伐に出ていたのも本当は……っ」
「帝の依頼は、この物怪を探すついでだ。それに……大切な妻を守るのは、当たり前のことだろう?」

 鷹臣様の刀が物怪の呪詛を弾く。それを合図に、鷹臣様は敵の懐に飛び込んだ。
 攻撃を受け止め、避けて。何度も物怪に向かって切り掛かる。その気迫ある勢いに物怪が押され始めた。
 大丈夫、鷹臣様なら倒せる。私の心に張り詰めた緊迫感が少しだけ緩んだ、その時。
 パキッと歪な音が鳴る。物怪の口元がニタリと弧を描くのが見えた。

「──ッ華、逃げろ!」

 禍々しい呪詛を受け止めた刀が折れた。その力を受け止めきれなかった鷹臣様の体が宙を舞って、地面に叩きつけられる。
 逃げろと言われた私の足は、理屈なんて関係なく走り出す。鷹臣様の方へ。

「……馬、鹿。逃げ──」

 地面に伏せたまま咳き込んだ鷹臣様の口から吐かれたのは血。起き上がることも出来ない彼に駆け寄った私は、彼を庇うようにして物怪と向かい合う。
 巨大な腕が振り上げられて、こちらに向けて振り下ろされた。

(やだ、お願い。せめて鷹臣様だけでも助かって……!)
 
『やめて!!』

 咄嗟に出た一声。ぴたりと物怪の動きが止まった。
 私の頭上すぐのところで、物怪の大きな手が静止している。

「え……?」
 
 不思議な強さを纏った声色。これは本当に私の声……?
 ぐいっと着物の袖が後ろから引かれる。後ろに倒れる私の体と入れ替わるようにして、地面に伏せていたはずの鷹臣様が飛び出して行く。

「──お前の敵は俺だ……っ!!」

 物怪の腕に折れた刀を突き刺して、それを足がかりにして飛び上がる。両手を伸ばして素手で物怪に掴み掛かった。

「滅せよ! 俺はお前を永久に許しはしない!」

 鷹臣様が触れた部分から物怪の体が崩壊していく。地面が震えるような断末魔の叫びと、それに伴って重力に従い落ちていく鷹臣様の体。
 物怪の存在が滅すると同時に、鷹臣様も地面に膝をついた。