ためらいの温度 触れた者を死なせる当主が生ける、ただ一輪の花嫁

 後日。どうやらお父様が、この鎮宮の屋敷を訪ねてきたようだ。……なぜ他人事のようなのかと言うと、後になって鷹臣様がそう教えてくれたから。
 お父様は深々と頭を下げて、鷹臣様に……玲の非礼を詫びたらしい。

 
「……玲は婚約も破談になり、すっかり意気消沈しておりまして」

 清次様は、鷹臣様の言った『穴の空いた船』からは早々に降りたようだ。詠坂で生まれた者として薄情だとは思うが……私は、それが正解だと思う。

「どうかお許しいただけないでしょうか。鷹臣様がいらっしゃらないと、簡単な物怪の討伐すら、近頃は手が足りません」

 あの一件で鷹臣様は、本当に宮仕えの異能使いとしての仕事を辞めてしまった。
 私のせいで鷹臣様が職を失ってしまうなんて! ……と私は慌てたのだが。鷹臣様は楽しげに「まぁ、暫くは黙って見ていろ」と言うばかりで。むしろ久方ぶりの休みを楽しんでいるようにすら感じた。

「俺がどれほど汚れ役を引き受けていたのか、やっと分かったのか」
「……えぇ! そうです、そうなのです。だから鷹臣様には宮中に──」
「断る」

 スパッと言い切った鷹臣様に、お父様は仰天したらしい。

「そんな……!」
「俺がお前に感謝しているのは二つ。華をこの世に導いてくれたことと、普通なら躊躇うはずの俺との婚姻を二つ返事で許したことだ」

 鷹臣様はお父様に近づく。手袋をした手で、強くお父様の胸を押した。

「去れ。俺は、長年華を苦しめた者たちを、決して許しはしない」

 
 ……という出来事があったのだと、鷹臣様は淡々と語った。そもそもどうしてこの話題になったのかというと、私の元へお父様から「鷹臣様を説得してくれ」との文が届いたから。使用人が持ってきた時にはすでに開けられた跡があって、違和感を覚えた私が鷹臣様に尋ねたことで発覚したのだ。
 鷹臣様は「この程度の内容なら見せても大丈夫だと思った」と説明してくれたが。……まさか、大丈夫ではない判定をされた文が存在するのだろうか。

『お仕事は本当に大丈夫なのですか?』

 私は鷹臣様の隣に正座して、気になっている事柄を書いた紙を見せる。彼はパチンと鋏で花を切って生けつつ、私の質問に答えた。

「だから心配は無用だと言っているだろう。俺が一切宮仕えをせずとも、あと何代かは遊んで暮らせるだけの財はある。それに領地の治めも怠っていないし──」
『心配なのは、物怪の影響の方です。鷹臣様が居ないと、都が物怪だらけになってしまいませんか?』
「……そっちか。華は本当に正義感が強いな」

 鷹臣様は呆れたような声を出すが、私の心配は尽きない。

(だって鷹臣様が居ないと物怪討伐の手が足らないのでしょう? 物怪に襲われる人が増えるのは嫌だわ。でも……)

 それ以上に、私は鷹臣様の体調のことを一番心配している。

 鷹臣様は自らの異能を制限するようにして、私の喉に絡まっていた呪詛を解いた。しかしそれは一時的なもので、更に鷹臣様の苦痛を伴う。
 ……鷹臣様が苦しむのは嫌。
 だから私は、もう「鷹臣様と話したい」なんて欲は捨てようと思っていたのに──

 コトンと、鷹臣様が鋏を置いた。
 
「華。素手で触れても?」

 するりと鷹臣様が黒手袋を外す。妙に艶を纏ったように聞こえる鷹臣様の声が、私の意識を彼の手に縛り付けた。

 ……あれから、鷹臣様は私に何度も触れた。
 それが苦しみを伴うものだとしても。
 彼は私と話したいと、望んでくれる。

 私が小さく頷くのとほぼ同時に、喉元に触れる指先。やはり彼は苦しそうに眉を顰めるが、途端に私の声は自由を取り戻す。でも声をかけるよりも先に、私は胸元から手巾を取り出して彼の額に浮かぶ汗を押さえた。

「……鷹臣様」
「ん? ……今日は好きだと言ってくれないのか?」
「お慕いしております……でも、」
「実は夜中にこっそりと物怪の討伐に出ている。帝から直接の依頼であれば動かざるを得ないし、都が物怪だらけになるのは俺の望むところではない。……結局汚れ役なことに変わりはないな」

 あぁ……鷹臣様はやっぱり、優しい人だ。
 触れたものを殺してしまう異能を持ちながらも、その手で多くの人を生かしている。
 そして私も、彼の手で生かされた一人。尊敬や愛情、彼に対する気持ちが、胸いっぱいに膨れ上がった。

 声を取り戻せば、感謝の気持ちも、好意も。全て伝えられると思っていた。
 でも……足りない。
 どうすれば鷹臣様に、私の心の中全てをお伝えできるのだろう。

「華。黙ってないで、俺の名前を呼んでくれ」

 黒手袋をはめ直した手が、初めて私の髪先に触れる。
 だから私は求められるままに、彼の名を呼んだ。