後宮処刑人は、眠り香の夜に私を逃がさない

夕刻、空が薄紫に沈みはじめたころ。

窓の高い格子から差し込む光が、部屋の床に細い線を落とした。線は刻々と位置を変え、私の足元を横切っていく。時間が動くのが見える。後宮では珍しいことだ。普段の私は、時間に気づかないように働く。気づけば、命が減るから。

机の上には紙が並んでいた。眠り香の出納帳の写し、封紙の貼り直しの図、単位の違いの指摘、そして空白の許可印――白い四角。白い四角は、見れば見るほど冷たい。

私はその冷たさを、墨で囲んだ。逃げないために。逃げれば罪が確定する。逃げないために、紙に縛られる。

鍵の音がした。

申刻より少し早い。予定どおりではない。予定どおりではない音は、いつも悪い知らせだ。

扉が開く前に、廊の冷気が滑り込む。次いで、黎の影が部屋に落ちた。影は昼よりも濃い。灯りの下で見ると、彼の輪郭は刃物みたいに硬いのに、目の奥は相変わらず光がない。

手には、木札が一枚。薄い板。短い字。彼が持ち込むものは、いつも“枠”だ。枠を作れば、後宮の混沌を少しだけ削れる。

黎は机の上の紙に目を落とし、ひとつだけ頷いた。褒めない頷き。確認の頷き。

「整ったな」

その一言で、胸の奥が少しだけ緩む。緩んだせいで、怖さが顔を出す。

「……明日、巳刻ですよね」

私は言った。確認ではない。恐怖の再確認だ。

黎は短く返す。

「明日だ」

「間に合うんですか」

「間に合わせる」

その断定が、彼の“優しさ”なのだと私は思った。言葉の形は冷たいのに、逃げ道を塞いだまま、生存だけは確保する言い方。

私は紙を指で押さえた。

「封紙の現物は……」

「押さえる」

黎が言う。

「ただし、今日もう一度、眠り香が動く必要がある」

私の喉が乾いた。

「……また、誰かを眠らせるんですか」

黎は少しだけ目を細めた。光を消すような細め方。

「眠らせるのは香だ。私は——動かす」

言い方が怖い。動かす。何を。誰を。どこへ。

私は息を吸う。

「私が……動くんですか」

黎は机の端に木札を置いた。札には短く書かれている。

――「餌」

たった一文字で、私の背筋が凍った。

「……冗談ですか」

私の声は震えていた。震えを隠せなかった。震えを隠しても意味がない。後宮では、震えを隠せる者が上に行く。私は下女だ。震えは、私の身分だ。

黎は表情を変えない。

「冗談ではない」

そして、淡々と宣言した。

「お前を餌にする」

空気が止まった。紙の上の墨が乾く音まで聞こえそうだった。

「……私を守るって言ったのに」

口から出た言葉が、幼いと思った。守る。そんな言葉を、私はいつから信じたくなったのだろう。処刑人に。

黎は目を逸らさない。

「守る」

即答。だが続きが、冷たい。

「だから餌にする」

矛盾。矛盾が後宮を動かす。そう言ったのは彼だ。頭では分かっている。分かっているのに、胸がついてこない。

「私を餌にしたら……殺されます」

「殺されない」

「どうして言い切れるんです」

私の声が少しだけ強くなった。怒りに似たものが混じった。怒りは、生きる力だ。下女が怒れるのは、まだ生きたいからだ。

黎は机の上の紙を指で叩いた。空白の許可印。白い四角。

「これがある」

「紙は……燃やされます」

「燃やせない場所で燃やさせる」

意味が分からないのに、分かる。公の場。処刑台。燃やすなら理由が要る。理由が残る。残れば、火は闇を照らす。

黎は言う。

「高位妃は、お前が何も持っていないと思っている。——いや、持っていたとしても、口を塞げば終わると思っている」

私は唾を飲み込む。御簾の奥の声が蘇る。

下女の舌は眠らせておけ。

「だから、動く」

黎が言った。

「お前が“証拠を持っている”と匂わせる。敵が焦れば、眠り香をもう一度動かす。動かせば、封紙の現物が生まれる。現物は燃やしにくい。燃やせば、痕が残る」

説明は冷たい。冷たいから、正しい。正しいから、怖い。

私は机の端を握り締めた。指先が白くなる。白い四角が、また増えたみたいだ。

「……私、怖いです」

素直に言った。言ってしまった。言っても仕方がないのに、言わずにいられなかった。

黎は少しだけ間を置いた。慰めの言葉を探す間ではない。必要な言葉を選ぶ間だ。

「怖いままでいい」

低く言う。

「怖い者は、確認する。確認する者は、線を乱さない」

私は笑いそうになった。違う。泣きそうになった。怖いのに、胸の奥が少しだけ温かい。温かいのが怖い。

「あなたは……私を道具だと言いました」

私は言った。言わずにいられなかった。道具。壊さない。けれど道具は、愛されない。

黎は、相変わらず表情を変えない。

「道具は、使う」

短い。

「だが——」

そこで、ほんの僅かに声が沈んだ。沈んだのは、怒りなのか、何なのか、分からない。

「壊さない」

私は喉の奥が熱くなるのを感じた。壊さない。それは、抱きしめるより現実的な約束だ。後宮では、抱きしめても人は消える。壊さないと言われる方が、まだ生きられる。

「……わかりました」

私は頷いた。頷くしかないのに、頷いた。頷いた瞬間、選択が自分のものになる。

「私が餌になる」

声が震えたまま、私は言った。

「でも、ひとつだけ約束してください」

黎の目が、少しだけ私に近づいた気がした。

「言え」

「私の名を……消さないで」

下女のお願い。小さすぎる願い。けれど、私にとっては全部だ。名が残れば、私は“なかったこと”にならない。名が残れば、私は階段を上がれる。

黎は一瞬だけ黙った。沈黙は刃を磨く時間。私は息を止める。

やがて、黎は淡々と言った。

「消さない」

その一語が、墨より濃く胸に落ちた。

「……では」

私は紙を束ね、袖の内側にしまう。紙が擦れる音が、決意の音に聞こえた。

黎は扉へ向かいながら、振り返らずに言う。

「今夜、お前は一度だけ外へ出る」

「外へ?」

「香具係の廊へ行く。そこで、誰かに見られろ」

見られろ。見られて噂になれ。噂が敵を動かす。

私は喉を鳴らし、頷いた。

後宮の夜が、ゆっくりと息を潜め始めている。

その夜、眠り香がもう一度動く。
動かすのは、私。
そして、処刑人の影。