高位妃の御簾の前を離れても、香は追ってくる。
廊の角を曲がるたび、衣の裾に香煙が絡みつく気がした。甘く、粘り、息の奥まで入り込む。息をするたび、「明日、巳刻」が体の中で音を立てる。時計のない後宮で、刻だけが私の首を締める。
黎は早足にならない。急がない。急げば目立つ。目立てば刺される。後宮で「急ぐ」は敗けの形だ。だから彼は、いつも通りに歩く。いつも通りに歩いて、いつも通りに殺せる場所へ連れていくみたいに。
私の足は、いつも通りではなかった。膝が少し笑っている。袖の内側の紙が熱い。熱い紙は火だ。火は、私を照らすか、焼くか、そのどちらかしかない。
曲がり廊の奥、誰も使わない小さな物置の前で、黎が立ち止まった。格子のついた窓。鍵。薄暗い。中は空だろう。ここなら耳が届きにくい。届きにくい場所は、後宮では“危険が少ない”のではない。“危険が見えにくい”だけだ。
黎が鍵を回した。硬い音。扉が開く。湿った木の匂いがした。古い紙の匂いもする。昔の帳面が捨てられているのかもしれない。
「入れ」
命令に従って中へ入ると、黎はすぐに扉を閉めた。鍵を掛ける音が、私の背中を叩く。閉じ込められる音。けれど今は、外よりここが安全だ。
私は息を吐いた。
「明日……どうするんです」
声が震えた。震えを恥じる余裕もなかった。明日、巳刻。私が消える刻。高位妃の声が、そのまま空気に残っている。
黎は私を見ないまま言った。
「明日でいい」
「よくない!」
思わず声が上ずった。上の者の声みたいに響くのが怖くて、すぐに喉を押さえた。
「明日じゃ、証拠が揃いません。写しも、封紙も、出納帳も……それに、私の言葉なんて——」
「言葉はいらない」
黎の声が、刃のように落ちた。
「お前の言葉は消える」
私は黙った。消える。そうだ。下女の言葉は、息と同じだ。吐けば消える。誰も拾わない。
黎が続ける。
「紙だけが残る」
その言葉は昨夜も聞いた。けれど今は、ただの教えではなく、命綱だった。
「でも、紙も握り潰されます」
私は袖の内側の写しを思い浮かべた。眠り香の出庫欄。許可印の空白。単位の違い。封紙の貼り直し。どれも私の手の中で脆い。ひとつ掴まれれば、くしゃりと潰れる。
「握り潰せない場所がある」
黎はようやく私に視線を向けた。深い水の底みたいな目。光がないのに、逃げ道だけを塞ぐ目。
「……どこです」
喉が乾いた。答えを聞くのが怖い。けれど聞かなければ、明日、私は消える。
黎は迷いなく言った。
「処刑台だ」
息が止まった。
「終わりの場所じゃ……」
声が裏返る。処刑台は終わりの場所だ。下女の名が消える場所だ。私が明日、巳刻に連れて行かれる場所だ。
黎は、私の恐怖を“当然”として受け止めた顔をした。慰めない。否定もしない。
「終わりにする」
言い切ったあと、ほんのわずかに間を置く。
「——真犯人のな」
その言い方が、あまりにも冷たくて、私は逆に息を吐いてしまった。冷たいのに、温かい。冷たいから、信じられる。優しい言葉ではなく、冷酷な段取りで救う。彼のギャップはそこにある。
「どうやって……処刑台で裁くんです」
私は尋ねる。尋ねながら、自分がその計画に足を踏み入れているのを感じた。計画を聞く者は、もう逃げられない。逃げられないことが、怖いのに――今は少しだけ安心でもあった。
黎は木箱の上に、木札を並べた。小さな札。短い字。刻。役職。場所。手続きの項目。処刑人の頭の中が、そのまま机に落ちてくる。
「処刑手続きには段がある」
彼は淡々と言った。
「第一、召集。関係者を集める。第二、確認。罪状と証拠の確認。第三、執行」
私は札を見た。召集。確認。執行。人の命が、三枚の札に収まる。後宮で命は、札の大きさしかない。
「通常は“確認”が形だけだ」
黎が続ける。
「だが、手続きは“公”だ。公の場で、札の順番を変えることはできない」
「変える……?」
「確認を、本物にする」
黎が言った。
「本物にすれば、執行は——真犯人へ向く」
私は背中が粟立った。恐ろしい。けれど、筋が通っている。掟の中で勝つ。掟の“公”を利用して、上の者の私刑を封じる。下女の私が勝てる道が、そこにしかない。
「私が出した紙は……公の場でも消されます」
「公の場では、消すには理由が要る」
黎の声は冷たい。
「理由を言えば、そこに“痕”が残る。痕は証拠になる。……消せば消すほど、説明が増える」
私は思わず喉を鳴らした。後宮で説明を増やすことは、危険だ。上の者ほど、説明を嫌う。説明を嫌うから、下を消す。なら――説明させればいい。
「眠り香の出納帳の写し。封紙の貼り直し。——それだけでは足りない」
黎が言った。
「足りないなら、足す」
「何を」
「時間だ」
私は目を見開いた。
「時間……?」
黎は木札の一枚を指で弾いた。『巡回記録』と書かれていた。昨夜、私の机に置かれた刻札と同じ匂いがする。
「私の記録だ」
彼が言う。
「子の刻、誰がどこを通ったか。門の開閉。香具係の廊の通過。——時刻が揃えば、嘘は挟めない」
私は息を飲む。処刑人の“冷酷さ”は、刃ではなく秤だ。秤は、重さをごまかせない。ごまかせない場所に、敵を立たせる。
「……あなたは、いつもそんな記録を」
「処刑は、記録で行う」
黎は短く言った。
「感情では殺さない。感情で殺せば、間違う」
その言葉の奥に、過去の影が見えた気がした。救えなかった誰か。情で判断して、壊れた誰か。彼の冷酷さは、守りでもある。
私は袖の内側にある紙に触れた。薄い紙。なのに、今は刃の手触りがする。
「でも……高位妃が」
言いかけて、声が詰まった。あの御簾の奥の声。明日、巳刻。終わらせよ。処刑人の冷酷さを買う。期待を裏切るな。
黎は私の言葉の先を読んでいた。
「高位妃は、私が下女を斬ると思っている」
淡々とした声。
「だから、明日、巳刻を指定した。急がせれば、確認が雑になると思っている」
「……雑になりますよ。普通なら」
「だから、雑にしない」
黎が言い切った。
「手続き通りに、丁寧にやる。丁寧にやって、真犯人を丁寧に殺す」
私は背筋が冷えた。丁寧に殺す。恐ろしい言葉なのに、心のどこかが救われる。私の命が、投げ捨てられないという意味だからだ。丁寧に救う。彼はそれを、丁寧に殺すと言う。
「私は……何をすれば」
私の声は小さかった。でも、ここで聞かなければならない。私は救われるだけで終わりたくない。シンデレラになるなら、最後は“選び返す”側に立ちたい。紙を書く手は、私の手だ。
黎は指を一本立てた。
「写しを整えろ」
次に二本。
「封紙の現物を押さえる」
三本。
「眠り香が、今日もう一度動くように仕向ける」
私は息を呑む。
「……囮にするって」
「お前を餌にする」
黎は、さらりと言った。昨日よりも残酷に聞こえる。なのに、目は冷たいまま、揺れていない。
「守るために、餌にする」
その矛盾が、後宮では正しい。
私は唇を噛んだ。怖い。怖いのに、逃げないと決めた自分がいる。逃げたら罪が確定する。逃げなければ、まだ勝てる。紙を残せば、まだ勝てる。
「……分かりました」
声が震えたまま、私は頷いた。
黎は鍵の方へ向かい、扉に手をかけた。出ていく前に、振り返りもせず言う。
「泣くな」
命令のようで、支えのような言葉。
「泣けば手が震える。手が震えれば、線が乱れる」
私は苦笑いしかけて、やめた。笑ったら泣いてしまう。
「……あなた、私を道具だと思ってますよね」
私が絞り出すと、黎は一瞬だけ沈黙した。沈黙の中に、答えがある。
「道具は、壊さない」
それだけ言って、扉を開けた。
冷たい廊の空気が入り、香の匂いがまた押し寄せる。
「明日、巳刻」
黎の声が落ちる。
「処刑台で裁く」
扉が閉まる。鍵が回る。硬い音がひとつ。
私は残された薄暗い物置の中で、袖の内側の紙を取り出した。眠り香。空白の印。単位の違い。封紙の貼り直し。巡回記録。
すべてを揃える。
すべてを“公”に乗せる。
私は筆を取り、写しを清書するために墨をすった。墨の匂いが、香の匂いに混じる。
明日、巳刻。
終わるのは――私ではない。
そう書く代わりに、私は紙の上に、まっすぐな線を一本引いた。線は言葉より強い。線は、記録になる。
記録が、私の階段になる。
廊の角を曲がるたび、衣の裾に香煙が絡みつく気がした。甘く、粘り、息の奥まで入り込む。息をするたび、「明日、巳刻」が体の中で音を立てる。時計のない後宮で、刻だけが私の首を締める。
黎は早足にならない。急がない。急げば目立つ。目立てば刺される。後宮で「急ぐ」は敗けの形だ。だから彼は、いつも通りに歩く。いつも通りに歩いて、いつも通りに殺せる場所へ連れていくみたいに。
私の足は、いつも通りではなかった。膝が少し笑っている。袖の内側の紙が熱い。熱い紙は火だ。火は、私を照らすか、焼くか、そのどちらかしかない。
曲がり廊の奥、誰も使わない小さな物置の前で、黎が立ち止まった。格子のついた窓。鍵。薄暗い。中は空だろう。ここなら耳が届きにくい。届きにくい場所は、後宮では“危険が少ない”のではない。“危険が見えにくい”だけだ。
黎が鍵を回した。硬い音。扉が開く。湿った木の匂いがした。古い紙の匂いもする。昔の帳面が捨てられているのかもしれない。
「入れ」
命令に従って中へ入ると、黎はすぐに扉を閉めた。鍵を掛ける音が、私の背中を叩く。閉じ込められる音。けれど今は、外よりここが安全だ。
私は息を吐いた。
「明日……どうするんです」
声が震えた。震えを恥じる余裕もなかった。明日、巳刻。私が消える刻。高位妃の声が、そのまま空気に残っている。
黎は私を見ないまま言った。
「明日でいい」
「よくない!」
思わず声が上ずった。上の者の声みたいに響くのが怖くて、すぐに喉を押さえた。
「明日じゃ、証拠が揃いません。写しも、封紙も、出納帳も……それに、私の言葉なんて——」
「言葉はいらない」
黎の声が、刃のように落ちた。
「お前の言葉は消える」
私は黙った。消える。そうだ。下女の言葉は、息と同じだ。吐けば消える。誰も拾わない。
黎が続ける。
「紙だけが残る」
その言葉は昨夜も聞いた。けれど今は、ただの教えではなく、命綱だった。
「でも、紙も握り潰されます」
私は袖の内側の写しを思い浮かべた。眠り香の出庫欄。許可印の空白。単位の違い。封紙の貼り直し。どれも私の手の中で脆い。ひとつ掴まれれば、くしゃりと潰れる。
「握り潰せない場所がある」
黎はようやく私に視線を向けた。深い水の底みたいな目。光がないのに、逃げ道だけを塞ぐ目。
「……どこです」
喉が乾いた。答えを聞くのが怖い。けれど聞かなければ、明日、私は消える。
黎は迷いなく言った。
「処刑台だ」
息が止まった。
「終わりの場所じゃ……」
声が裏返る。処刑台は終わりの場所だ。下女の名が消える場所だ。私が明日、巳刻に連れて行かれる場所だ。
黎は、私の恐怖を“当然”として受け止めた顔をした。慰めない。否定もしない。
「終わりにする」
言い切ったあと、ほんのわずかに間を置く。
「——真犯人のな」
その言い方が、あまりにも冷たくて、私は逆に息を吐いてしまった。冷たいのに、温かい。冷たいから、信じられる。優しい言葉ではなく、冷酷な段取りで救う。彼のギャップはそこにある。
「どうやって……処刑台で裁くんです」
私は尋ねる。尋ねながら、自分がその計画に足を踏み入れているのを感じた。計画を聞く者は、もう逃げられない。逃げられないことが、怖いのに――今は少しだけ安心でもあった。
黎は木箱の上に、木札を並べた。小さな札。短い字。刻。役職。場所。手続きの項目。処刑人の頭の中が、そのまま机に落ちてくる。
「処刑手続きには段がある」
彼は淡々と言った。
「第一、召集。関係者を集める。第二、確認。罪状と証拠の確認。第三、執行」
私は札を見た。召集。確認。執行。人の命が、三枚の札に収まる。後宮で命は、札の大きさしかない。
「通常は“確認”が形だけだ」
黎が続ける。
「だが、手続きは“公”だ。公の場で、札の順番を変えることはできない」
「変える……?」
「確認を、本物にする」
黎が言った。
「本物にすれば、執行は——真犯人へ向く」
私は背中が粟立った。恐ろしい。けれど、筋が通っている。掟の中で勝つ。掟の“公”を利用して、上の者の私刑を封じる。下女の私が勝てる道が、そこにしかない。
「私が出した紙は……公の場でも消されます」
「公の場では、消すには理由が要る」
黎の声は冷たい。
「理由を言えば、そこに“痕”が残る。痕は証拠になる。……消せば消すほど、説明が増える」
私は思わず喉を鳴らした。後宮で説明を増やすことは、危険だ。上の者ほど、説明を嫌う。説明を嫌うから、下を消す。なら――説明させればいい。
「眠り香の出納帳の写し。封紙の貼り直し。——それだけでは足りない」
黎が言った。
「足りないなら、足す」
「何を」
「時間だ」
私は目を見開いた。
「時間……?」
黎は木札の一枚を指で弾いた。『巡回記録』と書かれていた。昨夜、私の机に置かれた刻札と同じ匂いがする。
「私の記録だ」
彼が言う。
「子の刻、誰がどこを通ったか。門の開閉。香具係の廊の通過。——時刻が揃えば、嘘は挟めない」
私は息を飲む。処刑人の“冷酷さ”は、刃ではなく秤だ。秤は、重さをごまかせない。ごまかせない場所に、敵を立たせる。
「……あなたは、いつもそんな記録を」
「処刑は、記録で行う」
黎は短く言った。
「感情では殺さない。感情で殺せば、間違う」
その言葉の奥に、過去の影が見えた気がした。救えなかった誰か。情で判断して、壊れた誰か。彼の冷酷さは、守りでもある。
私は袖の内側にある紙に触れた。薄い紙。なのに、今は刃の手触りがする。
「でも……高位妃が」
言いかけて、声が詰まった。あの御簾の奥の声。明日、巳刻。終わらせよ。処刑人の冷酷さを買う。期待を裏切るな。
黎は私の言葉の先を読んでいた。
「高位妃は、私が下女を斬ると思っている」
淡々とした声。
「だから、明日、巳刻を指定した。急がせれば、確認が雑になると思っている」
「……雑になりますよ。普通なら」
「だから、雑にしない」
黎が言い切った。
「手続き通りに、丁寧にやる。丁寧にやって、真犯人を丁寧に殺す」
私は背筋が冷えた。丁寧に殺す。恐ろしい言葉なのに、心のどこかが救われる。私の命が、投げ捨てられないという意味だからだ。丁寧に救う。彼はそれを、丁寧に殺すと言う。
「私は……何をすれば」
私の声は小さかった。でも、ここで聞かなければならない。私は救われるだけで終わりたくない。シンデレラになるなら、最後は“選び返す”側に立ちたい。紙を書く手は、私の手だ。
黎は指を一本立てた。
「写しを整えろ」
次に二本。
「封紙の現物を押さえる」
三本。
「眠り香が、今日もう一度動くように仕向ける」
私は息を呑む。
「……囮にするって」
「お前を餌にする」
黎は、さらりと言った。昨日よりも残酷に聞こえる。なのに、目は冷たいまま、揺れていない。
「守るために、餌にする」
その矛盾が、後宮では正しい。
私は唇を噛んだ。怖い。怖いのに、逃げないと決めた自分がいる。逃げたら罪が確定する。逃げなければ、まだ勝てる。紙を残せば、まだ勝てる。
「……分かりました」
声が震えたまま、私は頷いた。
黎は鍵の方へ向かい、扉に手をかけた。出ていく前に、振り返りもせず言う。
「泣くな」
命令のようで、支えのような言葉。
「泣けば手が震える。手が震えれば、線が乱れる」
私は苦笑いしかけて、やめた。笑ったら泣いてしまう。
「……あなた、私を道具だと思ってますよね」
私が絞り出すと、黎は一瞬だけ沈黙した。沈黙の中に、答えがある。
「道具は、壊さない」
それだけ言って、扉を開けた。
冷たい廊の空気が入り、香の匂いがまた押し寄せる。
「明日、巳刻」
黎の声が落ちる。
「処刑台で裁く」
扉が閉まる。鍵が回る。硬い音がひとつ。
私は残された薄暗い物置の中で、袖の内側の紙を取り出した。眠り香。空白の印。単位の違い。封紙の貼り直し。巡回記録。
すべてを揃える。
すべてを“公”に乗せる。
私は筆を取り、写しを清書するために墨をすった。墨の匂いが、香の匂いに混じる。
明日、巳刻。
終わるのは――私ではない。
そう書く代わりに、私は紙の上に、まっすぐな線を一本引いた。線は言葉より強い。線は、記録になる。
記録が、私の階段になる。



