後宮処刑人は、眠り香の夜に私を逃がさない

後宮の奥は、香りが違强调い。

香は炭で焚くものではない。人で焚かれる。上の者の息遣いが、衣に染み、髪に染み、廊に染みる。だから、そこへ入った瞬間に分かる。ここは“上”だと。ここで間違えれば、下女の命など一息で消えるのだと。

黎の後ろを歩きながら、私は自分の足音が怖かった。音を立てれば目立つ。目立てば刺される。刺されれば終わる。頭の中で、そんな計算ばかりが回る。計算が回るのは生きている証拠でもあった。

香具係の庫で写した封紙の図と、眠り香の出納帳の写しは、袖の内側に隠してある。紙は薄いのに、骨みたいに固く感じた。紙は残る。残るから狙われる。けれど残らなければ、私は消える。

廊を曲がったところで、女官たちが一斉に道を空けた。

空け方が揃いすぎている。合図があったのだ。空気が一段低くなる。蝋燭の炎が小さく揺れ、香の煙がまっすぐに伸びた。

その先に、御簾(みす)があった。

御簾の内側から、声が落ちてくる。高い声ではない。甘くもない。乾いた声。乾いたのに、耳に残る。残るということは、従わせるということだ。

「……処刑人。ようやく来たか」

黎が膝を折る気配がした。私は慌てて、それに倣う。額が冷たい畳に触れた瞬間、心臓がひとつ強く鳴った。畳の匂いがする。香よりも生々しい匂いだ。

「申し上げます」

黎の声は低い。いつもと同じ温度なのに、今だけは少しだけ硬い。硬くなる相手なのだ、この声の主は。

御簾の奥で、衣擦れがした。絹の音。絹は音まで高い。

「小鈴という下女が、名簿に載ったと聞いた」

その名を、彼女は平然と呼んだ。私の名は、下女の名なのに、御簾の奥の口から出ると急に重くなる。名は鎖だ。上の者が呼ぶ名は、首輪の音がする。

「罪状は御前香箱不正。——恥を晒すな。さっさと終わらせよ」

終わらせよ。

“殺せ”の言い換え。後宮の言葉は、いつも柔らかく包む。包むほど残酷になる。

私は息を止めた。袖の内側の紙が、ひやりと冷たくなる。封紙の写し。眠り香の写し。あれが見つかれば、今この場で終わるかもしれない。

御簾の奥の声が続く。

「下女は下女らしく、静かに消えるのがよい。噂が広がれば、眠れぬ者が増える」

眠れぬ者。

その言葉に、私は背中が粟立った。眠り香の匂いが、舌の奥に甦る。昨日まで、私はただの香だと思っていた香が、今は“命の道具”にしか思えない。

黎が静かに言った。

「手続きがございます」

御簾の奥で、小さな笑いが漏れた。笑いと言うより、鼻で息を吐いただけの音。

「手続き?」

「後宮の掟に従い、調書の確認と——」

「掟を言い訳にするな」

声が少しだけ尖った。尖るだけで、空気が切れる。

「掟は上の者が使うものだ。下の者が口にしてよいものではない」

私は額が畳についたまま、唇を噛んだ。掟。掟は、私を守らない。掟は、上の者の都合で形を変える。

御簾の奥が、さらに静かになる。静けさの中で、声だけが降ってくる。

「処刑は前倒しにせよ。三日も要らぬ。明日の巳刻でよい」

明日。

一日。
残り一日。

胸の内側の紙が、刃みたいに痛んだ。息が詰まる。明日、巳刻。太陽が同じ場所に来たとき、私は消える。

黎がすぐに答えない。答えないということは、拒むということに近い。拒めば、黎も危うい。処刑人ですら、この御簾の前では“道具”に過ぎない。

「……承知しました」

黎がようやく言った。その声はいつもと同じ温度なのに、私には少しだけ違って聞こえた。何かを呑み込む音が、声の奥に混じっていた。

御簾の奥が満足げに言う。

「よい。処刑人は、手早いのが取り柄だ」

そして、言葉の刃が次に向けられる。

「その下女は、まだ生きているのか」

私は血の気が引いた。問われたのは“存在”だ。存在を問われる時点で、もう人ではない。物だ。処分待ちの物。

黎が答える前に、御簾の奥が付け足す。

「余計なことを喋らせるな。余計な目を持たせるな。——下女の舌は、眠らせておけ」

眠らせておけ。

その言い方が、あまりにも滑らかで、私は思わず胃の奥がひやりとした。眠り香。口封じ。ここまで来て、偶然などない。

黎の声が落ちた。

「証人として預かっております」

一瞬、御簾の奥の空気が止まった気がした。絹の擦れる音が、遅れて聞こえた。

「証人?」

その一語には、苛立ちが混じっていた。高位妃が望むのは“静かな消失”だ。証人など、邪魔だ。

黎は続ける。

「香の出納に不審がございます。確認が終われば——」

「不審?」

声が笑う。笑うほど冷える。

「処刑人が、香の話をするのか。——お前は人を斬るのが仕事だろう」

黎は黙った。黙りが長い。私は畳に額を押し付けたまま、その沈黙が怖かった。沈黙は刃を磨く時間だ。

御簾の奥が、静かに結論を落とす。

「余計な確認は要らぬ。明日、終わらせよ」

終わらせよ。
もう一度。

「もし遅れれば——」

言葉の続きを、彼女は言わなかった。言わなくても分かる。遅れれば、黎の首が危うい。下女の命だけでは済まない。後宮はそういう場所だ。

最後に、声が柔らかくなる。柔らかくなるほど、残酷になる。

「処刑人。お前の冷酷さだけは買っている。……期待を裏切るな」

買われている。冷酷さを。
私はその言葉を、畳の上で噛み締めた。

黎が短く答える。

「……承知」

その一語で、謁見は終わった。女官たちが動き、御簾が揺れ、香の煙が揺れる。私はやっと額を上げる許しを得た。上げた瞬間、視界の端に、御簾の隙間から覗く影が見えた気がした。目の光だけが、冷たくこちらを測っている。

――見られた。

袖の内側の紙が、急に熱くなる。証拠が、火になっている。

廊へ出たとたん、私は息を吐いた。吐いた息が震えている。震えていることが悔しい。悔しいのに、止められない。

黎は歩きながら、低く言った。

「明日だ」

私が唇を噛む。

「……間に合いません」

言葉が漏れた。明日では、写しも整理も、封紙の現物も、全部揃えきれない。揃えきれなければ、私は死ぬ。

黎は足を止め、こちらを振り返った。

「間に合わせる」

いつもの冷たい声。けれど、断定が刃のように鋭い。冷酷な約束だった。

「どうやって」

私が問うと、黎は一瞬だけ目を細めた。

「掟の中で勝つ」

そして、静かに言い切る。

「――処刑台で裁く」

その言葉が、後宮の香よりも濃く、私の喉に残った。