後宮処刑人は、眠り香の夜に私を逃がさない

翌朝、辰の刻の少し前。

扉の外で金具が鳴り、鍵が回った。昨夜と同じ音。昨夜と同じ速さ。予定どおり。記録どおり。

黎が入ってくる。今度は盆ではなく、細い木の筒と紙の束を持っていた。筒には筆と小さな墨壺。紙は薄いが目の詰まった上質のものだ。写しを取るための紙だと、見ただけで分かる。

「書け」

相変わらず、命令だけの声。

私はすでに机の上に、昨夜のうちに写した眠り香の行を広げていた。香帳の該当箇所。許可印の空白。単位の違い。筆跡の揺れ。写しは不完全でも、空白は空白のまま写してある。空白は埋めたら嘘になる。嘘は、後宮では命取りだ。

黎は紙に目を落とし、指で空白をなぞった。朱印があるべき場所の、白い四角。そこだけが冷たい。

「……いい」

褒め言葉に聞こえたのは、私の願望だろうか。

私は思わず言ってしまう。

「今、褒めました?」

黎は視線を上げない。

「褒めていない。確認しただけだ」

「確認、ですか」

「記録は、確認で固まる」

硬い言葉。それでも、昨夜の「死なせないためだ」と同じ温度があった。私は紙を押さえ、指先の震えを止める。

「この写しだけで……足りますか」

「足りない」

黎は即答した。

「帳面は書き替えられる。写しも、ただの紙だ。――現物が要る」

現物。香箱。封紙。

眠り香が本当に動いたこと。誰かが香箱に触れたこと。出庫記録が“偽”であること。紙と現物が揃えば、初めて“殺せる”。

「香具係の庫へ行く」

黎が言った。行く、ではなく、連れて行くという言い方だった。

私は喉を鳴らした。

「私が行けば……気づかれます。昨日、上役に止められました」

「気づかせる」

黎は淡々と言った。

「気づかせて、動かす」

言葉だけで背筋が冷える。囮。餌。――まだ先のはずの段階が、今の朝に影を落とす。

黎は机に木札を置いた。昨夜の刻札と似ているが、今度は「辰 庫」と書かれていた。短い字で、目的が決まる。

「門限は同じ。私の後ろを歩け」

私は唇を噛んで頷いた。従うしかないのに、従うと決めるたび、少しだけ自分の足が戻ってくる気がする。不思議だった。

後宮の廊は、朝から冷えたままだった。冬の光が細く差し込む。女官たちの足音。桶の水音。誰かの笑い声が、今日はほんの少しだけ聞こえた。笑い声がある日は、誰かが泣いている。

香具係の庫の前に着くと、私は無意識に息を止めた。昨日の空白が、ここにある。私が見た白。私が触れた恐怖。

扉の前に立っていた香頭の侍女が、こちらを見て目を見開いた。

「……黎さま?」

声が裏返る。後宮処刑人の名は、呼ぶだけで喉が痛いのだろう。

黎は軽く顎を上げるだけで応えた。

「確認に来た」

「確認……何を」

「眠り香」

その二文字が、庫の空気を変えた。沈香や白檀の匂いの奥に、甘く粘る匂いが急に濃くなる。言葉が匂いを引き寄せるみたいに。

香頭の侍女の顔が強張った。

「眠り香は、医官の許可が――」

「なら見せろ」

黎の声は低い。圧がある。怒鳴らないのに、退けない壁の声だ。

香頭の侍女は視線を私に向けた。昨日と同じ視線。下女が余計なものを見るなという視線。けれど、今日は違う。処刑人が背後にいる。視線の矛先が揺れている。

「……小鈴。お前は外へ」

「外へ出さない」

黎が即座に遮った。

「この女は私の管轄だ」

管轄。たった一語で、私は“香具係の下女”から“処刑人の証人”へ形を変える。形を変えたところで、身分は変わらない。けれど、見られ方が変わる。後宮では、それが致命的に大きい。

香頭の侍女は唇を噛み、鍵束を取り出した。扉が開く。庫の匂いが押し寄せる。紙と木と香。昨日より濃い。

黎は迷いなく奥へ進み、眠り香の香箱の前で止まった。香箱は漆塗りで、蓋に小さな札が結ばれている。封紙――封印の紙が、糊で貼られていた。封紙は、触れていなければ真っ直ぐだ。折り目は一定で、糊の光り方が揃う。

私は一歩遅れて近づき、目を凝らした。

――貼り直し。

昨日の違和感が、今度は確信になって胸を叩いた。封紙の端がほんの少し浮いている。糊の色が違う。乾いた糊は白っぽい。新しい糊は透明に光る。その透明の光が、端だけに残っている。さらに、折り目が一度切れて、別の折り目が重なっている。

「……貼り直されています」

私の声は小さかったのに、庫の中では妙に響いた。

香頭の侍女が顔色を変える。

「何を言って――」

「小鈴」

黎が私の名を呼んだ。呼び方が、昨夜より少しだけ近い。私は目を上げる。

黎は封紙を指先で触れずに、空気の中で端を示した。触れない。現物に余計な跡を残さない。処刑人の指の使い方だ。

「ここ」

私は頷いた。

「糊が……違います。昨日より新しい。剥がして貼り直した跡です」

香頭の侍女が思わず一歩下がった。後宮の人間は、証拠から距離を取る。証拠は火だ。触れた者から燃える。

黎は表情を変えない。

「良い目だ」

私は息を止めた。今度は聞き間違いじゃない。たった三文字なのに、胸の奥が痛くなる。褒められることに慣れていない痛み。

私は思わず、口が勝手に動く。

「……今、褒めました?」

黎は私を見ないまま、淡々と言った。

「褒めていない。確認しただけだ」

昨日と同じ返事。けれど、同じ返事が、なぜか少しだけ柔らかく聞こえた。私の耳が勝手にそう聞きたがっているのかもしれない。

香頭の侍女が、声を絞り出す。

「封紙は……気のせいです。湿気で浮くこともあります」

「湿気なら、糊は白くなる」

黎は一言で切り捨てた。

「透明に光るのは、貼り直した糊だ」

私は胸の内側が熱くなる。誰かが、私の見たものを否定しない。否定しないだけで、涙が出そうになる。後宮では、否定されることが普通だから。

黎は振り返り、私に言った。

「言葉は消える」

昨夜と同じ言葉。けれど、今は続きがある。

「紙だけが残る。写しを取れ」

私は頷き、用意してきた紙を広げた。封紙の貼り直し。端の浮き。糊の光。折り目の断線。私は見たまま、手を動かす。文字だけでは足りない。図にする。線で残す。線は、嘘をつかない。

香頭の侍女が息を呑む。

「そんな……それは」

「お前は今、何を見た」

黎の声が低く落ちた。問いではなく、裁きの準備だ。

香頭の侍女は唇を噛み、目を泳がせる。言葉は出ない。出せない。出せば自分が燃える。

私は紙に線を引きながら、ふと口にした。

「写しがあれば……下女でも」

手が止まりかける。言っていいのか分からない。言っていいなら、救いになる。言ってはいけないなら、また誰かが消える。

黎が、初めて私の方を見た。

「下女でも“記録”になれる」

その一言で、私の背中の骨が一本ずつ戻ってくる気がした。

私は筆を走らせる。封紙の端の浮きに丸をつけ、糊の光を斜線で示す。折り目の切れ目を点線で描く。自分の震えが、線になる。線が記録になる。記録が、刃になる。

庫の外で、鈴が鳴った。誰かの呼び出し。誰かの命の音。

私は目を伏せたまま、最後に封紙の写しの端に小さく書き足した。

――「眠り香 封紙 貼り直し」

紙の上で言葉が固まる。固まった瞬間、後宮の空気が少しだけ変わった気がした。恐怖が減ったわけではない。むしろ増えた。証拠は、火だ。

でも。

火は、闇を照らす。

私は筆を置き、息を吐いた。
黎の影が、背後で動かないまま私を守っている。

その冷酷な影が、今は頼もしかった。