日が落ちると、後宮は急に“重く”なる。
昼間は人の足音と衣擦れが途切れないのに、夜はその音が吸い込まれていく。灯りが少なくなるからではない。壁が、息を潜めるからだ。誰かが耳を澄ませる夜。誰かが目を閉じさせられる夜。眠り香という言葉が、昼よりも生々しくなる夜。
申刻を過ぎたころ、扉の外で金具が鳴った。
鍵が回る音。ひとつ。
戸が開ききる前に、冷たい空気が滑り込む。
黎が入ってきた。昼と同じ濃紺の衣。派手さはない。けれど、夜の灯りの中で、その影だけが濃く見えた。手には木札の束と小さな盆。盆の上に、湯気の立つ椀がひとつ。粥だ。香りが薄い。余計な味がしない。胃に落ちるものだけを選んだ食事。
「食え」
命令は短い。私の顔を見ない。労わる視線などない。けれど盆は机の中央に置かれ、箸は利き手側に揃えられていた。無意識に、誰かがやる配置。誰かが“生きろ”と言う配置。
私は椀に手を伸ばしかけて、躊躇した。
「……毒は」
聞いてしまってから、しまったと思った。後宮で“毒”という言葉を口にするのは、刃を抜くのと同じだ。けれど、眠り香の件があって以来、私は何もかもが疑わしい。
黎は視線だけを私に向けた。光のない目。そこに感情があるのか、ないのか分からない。
「毒なら、死んでいる」
それだけ言って、木札を一枚、机の端に置いた。札には私の名と、刻が書かれている。辰、申、戌、子。太い線で、迷いなく。
「……何ですか、それ」
「記録」
短い返事。まるで当たり前のように。
「食事。湯。巡回。眠る刻」
「そんなの……下女の私に」
言いかけて、言葉が喉で止まった。下女だから、夜の安全など保証されない。下女だから、眠れなくても誰も困らない。下女だから、消えても帳面に残らない。
――だからこそ、今、こうして札が置かれるのが異常だった。
「必要だ」
黎が言った。
「お前が起きていると、手が震える。手が震えれば、写しが乱れる」
私は思わず笑いそうになった。笑えるわけがないのに。優しさではないのだ。この人の言葉は、全部“目的”だ。目的があるからやる。目的があるから生かす。生かす理由が、彼の冷酷さの中にだけ存在している。
私は椀を持ち、粥を口に運んだ。熱い。舌が痛い。痛いのに、少しだけ安心する。温度がある。生きている。
黎は部屋の隅に立ち、壁際の窓を一度だけ確認した。窓は高い。格子がある。抜けられない。抜けられないことを確認して、彼は頷いた。
「……外、出られないようにしてる」
私が言うと、黎は否定もしない。
「出られる必要がない」
「必要があるかもしれない」
私はつい反発した。怖い。閉じ込められるのが怖い。外へ出られないことは、罪人の扱いと同じだ。
黎は一歩だけ近づいた。距離が詰まっただけで、空気が緊張する。処刑人が近い。それだけで、脈が早くなる。
「お前は、今日“消される”ところだった」
淡々とした声が、胸の奥を叩いた。
「消される者に、逃げ道はない。……あるのは、死に道だけだ」
私は息を呑んだ。消される。名簿に載った者の行き先。三日後の巳刻。
「……生きろって言うのに、閉じ込める」
黎は私を見下ろし、何の躊躇もなく答えた。
「だから閉じ込める」
私は唇を噛む。矛盾している。矛盾しているのに、後宮では矛盾が正しい。矛盾の中でしか生き残れない。
粥を食べ終えるころ、扉の外で再び金具が鳴った。
今度は扉が開かない。外から、別の者が声をかけるだけだ。
「子の刻、巡回」
男の声。門番とは違う。黎の部下だろうか。声だけで分かる。ここには目がある。耳がある。私一人の夜ではない。
黎は低く返した。
「了解」
その一語で、扉の外の気配が去った。巡回が“予定どおり”に動いている。予定どおり。記録どおり。
私は机の上の木札を見た。刻が並ぶ札。黒い字。たったそれだけの“枠”が、私の夜を形にする。形にされることで、夜が「ただの闇」ではなくなる。
「……あなた、毎晩こんなふうに」
私が問うと、黎は一瞬だけ黙った。黙り方が、答えに見えた。
「処刑手続きは、夜に決まる」
それが、この人の日常なのだろう。人の生死を、夜の静けさの中で決める。だから、夜の記録が必要なのだろう。
私はふと気づく。
この人の“優しさ”は、言葉では出ない。出ない代わりに、記録の形で出る。食事の刻。湯の刻。巡回の刻。私の生存の刻。
「私のため?」
もう一度、同じ問いが口から出た。今度は震えを隠せなかった。
黎は、ほんの少しだけ眉を動かした。感情の芽ではない。計算の調整のような動き。
「違う」
即答。
「死なせないためだ」
私はその言い方に、胸の奥が痛くなった。痛いのに、泣けない。泣いたら手が震える。写しが乱れる。そう言われている気がして。
「……慰めないんですね」
私が呟くと、黎は戸口へ向かいながら言った。
「慰めは、証拠にならない」
扉が開き、冷たい廊の空気がまた入る。出ていく背中が、夜の灯りに溶けていく。
「食え。眠れ」
最後に、振り返らずに言う。
「明日、帳面を見せろ」
扉が閉まる。鍵が回る。硬い音がひとつ。
私は布団に目をやった。布団は新しい。上等ではないが、清潔だ。誰かが用意した。用意させた。私はその“誰か”を知っている。名前は、黎。
私は手を伸ばし、机の端の木札を指でなぞった。字の凹凸が指先に残る。記録。記録どおりの夜。
――眠り香に眠らされるのではなく、記録に守られて眠る夜。
その事実が、怖いのに、少しだけ温かかった。
私は目を閉じる。遠くで巡回の足音がする。子の刻。予定どおり。
息を吸って、吐く。
生きている。
明日、帳面を見せる。
紙だけが残るように。
昼間は人の足音と衣擦れが途切れないのに、夜はその音が吸い込まれていく。灯りが少なくなるからではない。壁が、息を潜めるからだ。誰かが耳を澄ませる夜。誰かが目を閉じさせられる夜。眠り香という言葉が、昼よりも生々しくなる夜。
申刻を過ぎたころ、扉の外で金具が鳴った。
鍵が回る音。ひとつ。
戸が開ききる前に、冷たい空気が滑り込む。
黎が入ってきた。昼と同じ濃紺の衣。派手さはない。けれど、夜の灯りの中で、その影だけが濃く見えた。手には木札の束と小さな盆。盆の上に、湯気の立つ椀がひとつ。粥だ。香りが薄い。余計な味がしない。胃に落ちるものだけを選んだ食事。
「食え」
命令は短い。私の顔を見ない。労わる視線などない。けれど盆は机の中央に置かれ、箸は利き手側に揃えられていた。無意識に、誰かがやる配置。誰かが“生きろ”と言う配置。
私は椀に手を伸ばしかけて、躊躇した。
「……毒は」
聞いてしまってから、しまったと思った。後宮で“毒”という言葉を口にするのは、刃を抜くのと同じだ。けれど、眠り香の件があって以来、私は何もかもが疑わしい。
黎は視線だけを私に向けた。光のない目。そこに感情があるのか、ないのか分からない。
「毒なら、死んでいる」
それだけ言って、木札を一枚、机の端に置いた。札には私の名と、刻が書かれている。辰、申、戌、子。太い線で、迷いなく。
「……何ですか、それ」
「記録」
短い返事。まるで当たり前のように。
「食事。湯。巡回。眠る刻」
「そんなの……下女の私に」
言いかけて、言葉が喉で止まった。下女だから、夜の安全など保証されない。下女だから、眠れなくても誰も困らない。下女だから、消えても帳面に残らない。
――だからこそ、今、こうして札が置かれるのが異常だった。
「必要だ」
黎が言った。
「お前が起きていると、手が震える。手が震えれば、写しが乱れる」
私は思わず笑いそうになった。笑えるわけがないのに。優しさではないのだ。この人の言葉は、全部“目的”だ。目的があるからやる。目的があるから生かす。生かす理由が、彼の冷酷さの中にだけ存在している。
私は椀を持ち、粥を口に運んだ。熱い。舌が痛い。痛いのに、少しだけ安心する。温度がある。生きている。
黎は部屋の隅に立ち、壁際の窓を一度だけ確認した。窓は高い。格子がある。抜けられない。抜けられないことを確認して、彼は頷いた。
「……外、出られないようにしてる」
私が言うと、黎は否定もしない。
「出られる必要がない」
「必要があるかもしれない」
私はつい反発した。怖い。閉じ込められるのが怖い。外へ出られないことは、罪人の扱いと同じだ。
黎は一歩だけ近づいた。距離が詰まっただけで、空気が緊張する。処刑人が近い。それだけで、脈が早くなる。
「お前は、今日“消される”ところだった」
淡々とした声が、胸の奥を叩いた。
「消される者に、逃げ道はない。……あるのは、死に道だけだ」
私は息を呑んだ。消される。名簿に載った者の行き先。三日後の巳刻。
「……生きろって言うのに、閉じ込める」
黎は私を見下ろし、何の躊躇もなく答えた。
「だから閉じ込める」
私は唇を噛む。矛盾している。矛盾しているのに、後宮では矛盾が正しい。矛盾の中でしか生き残れない。
粥を食べ終えるころ、扉の外で再び金具が鳴った。
今度は扉が開かない。外から、別の者が声をかけるだけだ。
「子の刻、巡回」
男の声。門番とは違う。黎の部下だろうか。声だけで分かる。ここには目がある。耳がある。私一人の夜ではない。
黎は低く返した。
「了解」
その一語で、扉の外の気配が去った。巡回が“予定どおり”に動いている。予定どおり。記録どおり。
私は机の上の木札を見た。刻が並ぶ札。黒い字。たったそれだけの“枠”が、私の夜を形にする。形にされることで、夜が「ただの闇」ではなくなる。
「……あなた、毎晩こんなふうに」
私が問うと、黎は一瞬だけ黙った。黙り方が、答えに見えた。
「処刑手続きは、夜に決まる」
それが、この人の日常なのだろう。人の生死を、夜の静けさの中で決める。だから、夜の記録が必要なのだろう。
私はふと気づく。
この人の“優しさ”は、言葉では出ない。出ない代わりに、記録の形で出る。食事の刻。湯の刻。巡回の刻。私の生存の刻。
「私のため?」
もう一度、同じ問いが口から出た。今度は震えを隠せなかった。
黎は、ほんの少しだけ眉を動かした。感情の芽ではない。計算の調整のような動き。
「違う」
即答。
「死なせないためだ」
私はその言い方に、胸の奥が痛くなった。痛いのに、泣けない。泣いたら手が震える。写しが乱れる。そう言われている気がして。
「……慰めないんですね」
私が呟くと、黎は戸口へ向かいながら言った。
「慰めは、証拠にならない」
扉が開き、冷たい廊の空気がまた入る。出ていく背中が、夜の灯りに溶けていく。
「食え。眠れ」
最後に、振り返らずに言う。
「明日、帳面を見せろ」
扉が閉まる。鍵が回る。硬い音がひとつ。
私は布団に目をやった。布団は新しい。上等ではないが、清潔だ。誰かが用意した。用意させた。私はその“誰か”を知っている。名前は、黎。
私は手を伸ばし、机の端の木札を指でなぞった。字の凹凸が指先に残る。記録。記録どおりの夜。
――眠り香に眠らされるのではなく、記録に守られて眠る夜。
その事実が、怖いのに、少しだけ温かかった。
私は目を閉じる。遠くで巡回の足音がする。子の刻。予定どおり。
息を吸って、吐く。
生きている。
明日、帳面を見せる。
紙だけが残るように。



