後宮処刑人は、眠り香の夜に私を逃がさない

門の隙間から見えた外の光は、ほんの一息で消えた。

門番が動き、炭の列が止まり、荷の音が途切れる。後宮の朝のざわめきが、処刑人の一言で“停止”になる。私はその場に立ち尽くし、足首のあたりから冷たさが這い上がってくるのを感じた。

黎は振り返りもせず、歩き出した。

「来い」

命令は短い。従うしかない。従うと決めていなくても、身体が従う。後宮で「従わない」を選べるのは、上の者だけだ。

私は炭の煤がついた手を袖に擦りつけ、二歩遅れて彼の背を追った。背中はまっすぐで、歩幅が一定だ。迷いがない。迷いのない人の背中は、怖い。迷いがない人は、人を消せる。

門を離れるほど、空気が重くなる。壁が近い。廊が狭い。ここに戻った時点で、私はまた名簿の内側だ。

「……どこへ」

口に出した途端、喉が乾いた。聞いたところで答えが優しくなるわけではない。分かっているのに、聞かずにはいられなかった。

黎は前を見たまま言った。

「お前の居場所を変える」

居場所。下女の口から出ると、ただの配置換えの言葉。だが処刑人が言う「居場所」は、棺の位置にも聞こえる。

「私、罪人なんですか」

声が震えた。名簿の写しの角が胸を刺す。

黎は、ほんの少しだけ歩みを落とした。返事の前の間。私はその間に、自分の息がうるさいことに気づく。

「罪人ではない」

意外なほど、断定だった。

「……でも名簿に」

「名簿は紙だ。紙は書き替えられる」

淡々とした言い方が、逆に恐ろしい。名簿が書き替えられるなら、私の命も書き替えられる。生にも死にも。

私は唇を噛んだ。

「じゃあ、どうして」

“助けるのか”とまた言いかけて、飲み込む。代わりに、別の言葉が出た。

「……監禁ですか」

廊の先で、女官たちがこちらを見た。視線が刺さる。下女が処刑人の後ろを歩いているだけで、噂の芽は育つ。

黎は、ちらりと私を見た。目は相変わらず光らない。

「同じでいい」

心臓が一度、強く打った。

「監禁でも、保護でも――結果が同じなら呼び方は要らない」

私は目を見開く。あまりに冷たい。冷たすぎて、逆に笑いたくなる。笑えるわけがないのに。

「私、逃げたいって思ってます」

挑発ではなく、事実を言った。言ってしまえば何かが変わると思った。変わってほしかった。

黎は歩きながら答えた。

「逃げるな」

「さっきも言いました」

「もう一度言う。逃げれば罪が確定する」

その言葉は、罰の宣告のようで、同時に“生きろ”の言い換えにも聞こえた。私はそれが不思議で、少し怖かった。

廊を曲がる。普段、下女が近づけない区画へ入っていく。格子戸の内側。足元の石が滑らかになる。香の匂いが濃くなる。上の方の空気だ。

やがて、ひとつの小さな離れに着いた。派手ではない。けれど、扉の金具が新しい。鍵がある。鍵が、ある。

黎が扉を開けた。中は簡素な部屋で、机と布団、湯を沸かす小さな炉がある。窓は高く、外が見えにくい。見えにくい窓は、逃げにくい窓だ。

「……ここに?」

私が問うと、黎は頷いた。

「今日からここだ。証人保護として」

証人保護。その言葉が、急に現実味を持った。保護という響きの柔らかさが、この部屋の鍵と不釣り合いで、私の胸がざわつく。

「証人って……私は、誰の」

黎は答えた。

「真犯人の」

真犯人。言葉だけで背筋が冷える。真犯人がいるということは、私は嵌められたということ。そして、その真犯人はまだ後宮にいる。

「門限は申刻」

黎が淡々と告げる。まるで、香帳の項目を読み上げるように。

「巡回は子の刻に二度。食事は辰と申。湯は戌。医官は呼ばない。必要なら私が手配する」

私は聞きながら、唖然とした。細かい。細かすぎる。優しい言葉はひとつもないのに、私が生きるための段取りだけが、すでに組まれている。

「……私のため?」

思わず出た声に、自分でも驚いた。自分の口から「ため」という言葉が出るなんて。

黎は机の上に小さな札を置いた。木札だ。裏に何かが書いてある。

「違う」

即答だった。

「お前が死ねば、真犯人が笑う。それだけだ」

私は胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。慰めない。抱きしめない。大丈夫とも言わない。代わりに、死なせないための手順だけが置かれる。それは優しさなのか、ただの道具扱いなのか。分からない。分からないのに、涙が出そうになる。

「……優しくしないんですね」

私が言うと、黎は初めてほんの少しだけ眉を動かした。感情ではない。機械の調整みたいな小さな動き。

「優しさは要らない」

冷たく、言い切る。

「必要なのは生存だ」

その言葉の硬さに、私は逆に息を吐いた。生存。私は今、命の話をしている。恋でも憧れでもなく、命の話だ。命があるから、紙を出せる。

「……出せるんですか。私の紙」

私は胸の内側を押さえた。名簿の写しと、香帳の違和感。あの空白を、私はまだ写していない。写せば残る。残せば狙われる。

黎は扉の方へ向かい、鍵を手に取った。鍵が光る。硬い音がする。

「出せ」

短い命令。

「私に渡せ。……そして、お前は書け」

「書く?」

「写しを作れ」

黎の声が少し低くなった。命令の中に、わずかな焦りの気配が混じった気がした。気のせいかもしれない。けれど私は、その気のせいにすがりたかった。

「言葉は消える」

彼が、先に言った。

「紙だけが残る」

その言葉を聞いた瞬間、私の胸の内側の痛みが意味を変えた。名簿の紙は、私の死刑判決ではなく――私が生きるための刃になる。

黎は鍵をかける直前、私を見た。

「勝手に外へ出るな」

「……出たら?」

「出たら、私が引きずり戻す」

脅しのようで、約束のような言い方だった。私は唇を噛み、頷くしかなかった。

鍵が回る。硬い音が一つ。扉の向こうの気配が遠ざかる。

私は部屋の真ん中に立ち尽くし、机の上の木札を見た。裏に書かれた文字は、短い。

――「小鈴 管轄:黎」

たったそれだけで、私は後宮のどこにも属さない“漂い”から、処刑人の影の中へ入れられた。

怖い。
怖いのに、少しだけ――息ができた。

私は袖の内側から、折り畳んだ名簿の写しを取り出した。紙の白さが、部屋の薄暗さの中で浮いて見える。

書かなければならない。写しを作らなければならない。空白を、空白のまま残してはならない。

私は筆を取り、墨をすった。墨の匂いが、香の匂いに混じる。

紙の上に、最初の線を落とす。

――眠り香。

その二文字を書いた瞬間、私の手の震えが、記録になった。